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犬、その愛しき存在

犬を亡くして1年半、ずっと心が千々に乱れている。それはここ半月の間にさらに拍車がかかっている。

翻訳家・エッセイストの村井理子さんのお家のラブラドールレトリバー、ハリーが先日亡くなった。

村井さんのエッセイの大ファンで特にハリーの話は犬好きにはたまらないエピソードが満載だ。著書の中だけでなく、彼女のSNSでハリーのそのユーモラスで愛すべき姿を見ることができていたので、投稿を拝見することも私にとって日々の楽しみであった。

そのハリーが病気で亡くなってしまったとSNSで知り呆然とした。あんなに元気だったハリーが?とにわかには信じられずにいた。信じたくなかったけれどそれは本当のことであった。


人様の、しかもこちらが一方的に存じ上げているだけのワンちゃんにここまで気持ちを揺さぶられるとは、犬好きではないかたには理解しがたいことかもしれない。でも私は自分の愛犬「みど」を喪ってから、さらに犬への愛が大きくなっていたことをあらためて感じた。

ハリーの報せを知った2日後、社会学者の岸政彦先生の投稿がSNSで流れてきた。

岸先生の著書も大好きで何冊も拝読している(以前の日記でも書いたことがある。ここ参照)。岸先生も村井さん同様、動物、特に犬猫をこよなく愛しておられる。著書の中でも愛猫との生活を綴っておられたが、その猫さんとのお別れのお話「おはぎ日記」(「にがにが日記の中に書き下ろしで収録)を私も身を切られるような思いで泣きながら拝読した。


岸先生がお迎えになった「ちくわちゃん」は、鼻の周りが黒くて足が太くて、私が飼っていた愛犬みどの子犬の頃を少し思い起こさせた。みどは市の愛護センターから譲り受けてきた雑種でシェパードとコーギーが混じっているらしかった。そのあたりも岸先生のところのちくわちゃんと似ている(ちくわちゃんもシェパード混じりっぽい)。

犬に限らず動物とともに暮らすということは、大きな喜びや幸せを私たちにもたらしてくれると同時に、それと同じくらい大きな責任も背負うことになる。命と暮らすというのはそういうことだ。お腹を空かせたらごはんをやらないといけないし、当然排泄だってするわけできれいごとばかりではない。病気にかかればお医者さんに診てもらい、その費用はかなりかさむ。ある程度の経済的な余裕も必要になってくる。

そして、ここがいちばん大きな宿命なのだけれど、彼らの寿命を考えるとほとんどの場合、自分より先に天国へ旅立つのを見送らねばならない。このことと向き合うことがなによりも重くしんどいのだ。

愛犬みどは16年6か月の生涯を一昨年に閉じた。

我が家に来た日のみど


こんなに凛々しくなるとは

ほとんど病気をしなかった元気な犬だったが、老いには勝てず最期の夏ごろから弱ってきた。私の夏休みが始まった初日からガクンと弱り、あまり食べなくなってしまった。それでも散歩は大好きで涼しい早朝にゆるゆると歩くのは気持ちよさそうにしていた。なんとか食べてほしくて、ふだんはフード以外にはあまり違うものは食べさせなかったけれどささみを茹でたり卵を茹でたり、ヨーグルトに混ぜて見たりといろいろ試行錯誤してみた。珍しさで最初は口にしたがそれももうあまり食べなくなっていった。私は最低限の家事以外は、夏休みの殆どの時間をみどのことに充てた。お別れが近づいてきているのを日に日に確信していった。

そして、夏休みの最後から2日目。弱っているのにそれでも外へ行きたがり少し家の周りを歩いたあと、戻ってきてバタリと倒れ、しばらくしてみどは亡くなった。義母と二人で見送った。自分でも驚くほどの大声で泣いた。

翌日、みどをペット霊園へ連れていき火葬していただいた。棺には10年前に亡くなった義父が大好きだった百日紅の花をたくさん入れた。義父もみどをたいそう可愛がってくれていたので、きっと天国へ迷わないようにつれて行ってくれるだろうとの気持ちをこめて。

みどが急に弱ったのが私の夏休みの初日、葬儀を終えたのが最終日。みどは私のことを待っていてくれたのだと確信した。そうとしか思えないでしょう?

しばらく何をしても何を見ても心は空虚なままだった。仕事に行って集中している時はよいのだけれど、帰宅して手を動かしていないと悲しくて塞ぎこんでしまうので、やたらとお惣菜を何品も作ったりして気持ちをどうにか維持していた。

そんな中、薄皮を剝ぐように少しずつ少しずつ気持ちは回復していったが寂しさはなくならない。そして、また犬と暮らしたいという気持ちが芽生えたり、消えたり、また再燃したり、薄らいだり、を日々繰り返している。

この気持ちの揺らぎは動物が大好きでずっと一緒に暮らしてきたからこそだ。生半可な気持ちではできないことも、また多くの喜びに溢れた生活になることも両方理解できていて、その歴史が重なるごとに両方の思いが強くなっていくのだ。

村井さんがハリーを亡くされた後、そして岸先生がちくわちゃんをお迎えになった後、それぞれにこんな投稿をなさっていた。

先ほど書いたようにお二方ともに動物が大好きで、これまでの人生で何度も出会いと別れを繰り返してこられたからこその心からの誠意あふれる言葉だ。同じく、子どもの頃からずっと犬猫と暮らしてきた私はあまりにもお気持ちが理解でき過ぎて両氏のお言葉が心の奥深くまでずしんと響いた。

村井さんがハリーを亡くされてからその後の生活の日記を更新なさっていた。

何をしても何を見ても愛犬を思い出してしまう気持ち、このままではいけない、と自らを鼓舞する気もち、どれもわかり過ぎる。

また岸先生のところのちくわちゃんがすくすくと成長している様子がSNSから日々発信されている。


生まれてまだ数か月の子犬「ちくわちゃん」の愛らしい姿に悶絶する日々である。ファンは多いと思う。

実はとうとう私は愛護センターへ犬を見に行ってしまった。そこには私好みの子もいた。見に行ったら最後、欲しくなってしまうだろうな、と思ったけれど、意外と冷静な自分もいた。村井さん、岸先生、お二方の愛あればこその命への思いをひしと受け取ったからこそ、やはり熟慮に熟慮を重ねないといけないと実際の子犬を見てあらためて痛感した。やりたいと思ったことは今やっておかないといけない、というのは人生を折り返してからつくづく感じてはいるけれど、命の重さと向き合うことについてはもう一度よく考えて、そして家族全員の考えに差がないようになるまで話し合いを重ねないといけないと今は冷静に思っている。それでリミットが来てしまったとしたら、それはそれ、もう犬とはご縁がなかったということなのだろう。

まだしばらくは亡き愛犬のことを思い続けながら、自分の気持ちに向き合って問いかけていこうと思っている。

#エッセイ #犬 #保護犬 #村井理子 #岸政彦 #犬との暮らし

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