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胎児が「生まれるかどうか」を決める世界が与える衝撃<芥川賞作家・李琴峰インタビュー>

 2021年12月7日に芥川賞受賞第一作となる『生を祝う』を上梓した李琴峰さん。「なんで生まれてきてしまったのか」というずっと抱いてきた違和感から出発した作品は、発売前重版となるほどの大きな話題となった。より深く本作を理解していただくために、「小説トリッパー」21年冬季号で李さんが語った本作への思いを紹介する。(聞き手・岩川ありさ/早稲田大学准教授、写真撮影・加藤夏子)

李琴峰『生を祝う』
李琴峰『生を祝う』

■出生は祝いか、呪いか

――芥川賞受賞第一作の『生を祝う』は、生まれる前の胎児に出生の意思を確認する合意出生制度が確立された世界が舞台になっています。この構想はどういうきっかけで生まれたのでしょうか?

李琴峰(以下、李):直接のきっかけは、去年「S-Fマガジン」(2021年年2月号)で百合特集が組まれたとき、櫻木みわさんと一緒に百合SF書いたことです。どういう小説にしようかとプロットを考えているときに、思いついたアイディアが二つあって、一つが『生を祝う』で、もう一つが白蛇伝をもとにした話でした。そのときは櫻木さんとの共作なので、白蛇伝だと交互の視点があるので、二人で描きやすいなと思って、そちらを出したんです。そこで残ったほうの『生を祝う』のアイディアは自分で書くことにして、去年の年末あたりに書き始めました。

――「S-Fマガジン」の百合SF特集は毎回反響が大きくて、アンソロジーも刊行されていますけど、『生を祝う』も「百合SF」の潮流から生まれてきたものなんですね。

李:正確にいうと、「なんで生まれてきてしまったんだろう?」という、作品の核となる思いは自分の中にずっとありました。個人の意思が尊重される世の中であるにもかかわらず、出生だけは当事者の意思がまったく無視された状態で、強制されてしまうその現状に対して、あまり疑問視されておらず、出生は喜ばしいことだと、世界の常識のように言われている。そのことに違和感をおぼえていて、いつかこのテーマで小説を書いてみたいなと思っていたんです。

――このタイトルは色々な解釈が可能だと思いますが、最終的にこのタイトルをつけられることになったきっかけについて伺えますか。

李:タイトルはころころ変わったんですよ。編集者からもいくつか提案をいただいて、最終的にこのタイトルにしたんですけれども、毒のあるアイロニーがタイトルに欲しかった。この小説を書いていくうちに、出生は呪いなのか祝いなのかという問題が浮かび上がってきたんですね。「祝い」や「呪い」はキーワードだなという気がしていたので、最終的には『生を祝う』という単純明快なタイトルにしました。

李琴峰さん
李琴峰さん(撮影/加藤夏子)

――さきほど李さんがおっしゃった、生まれることが全面的に肯定されることへの違和感というのは、幼い頃から抱えられていたものなんでしょうか。それとも、作家としてデビューされて、書くことに自覚的になったときに、自分が書くべきものとして目が向いたテーマだったんでしょうか。

李:違和感自体はずっと昔からありました。ただ、技術的な問題もあるので、いきなりは書けなかったんだと思います。何作か書いて、少しではあるけれども技術もついてきたという感覚があって、そこに「S-Fマガジン」の百合SF特集が一つのきっかけを作ってくれて、プロットを作ってみたら、「ああ、これは書けそうだ」と。

――デビュー作からしばらくは、李さんはある種リアリティのある設定で小説を書かれていたと思うんです。ですが今年、芥川賞を受賞された『彼岸花が咲く島』ではファンタジー的な設定で、今作はSF的な設定を用いています。これは、ファンタジーやSF的な設定を使うことで、自分が抱えてきた問題意識を書けるという気づきがあったということでしょうか?

李:『生を祝う』で書いた生に対する違和感や、出生に対する疑問は、SF的な手法を借りないとうまく表現できないと思うんですね。現代の科学や技術はまだ、子供が自分の出生を決めるという状態を作り上げるところに達していません。そうすると、その状態を描いてみたいと思えば、必然的にSF的な世界になる。テーマがそれを要請したんだと思います。

■合意出産という制度

――生まれてくる側がなんらかの意思を持っていて、それを事前に知ることができる。それがこの小説のポイントだと思いますが、「同意」か「出生拒否」かを胎児が決めるとき、ノーム・チョムスキーの普遍文法を用いるというのが面白いなと思いました。妊娠9カ月目の胎児には既に普遍文法が備わっているので、この普遍文法を解明することで、胎児と極めて簡単な意思疎通ができる。胎児はいろんな指数をもとに、ある意味究極的な選択をする。この小説を書く上で、哲学的あるいは思想的なバックグラウンドになった作品はありますか?

李琴峰さん(撮影/加藤夏子)

李:自分は言語学を専門に学んでいたので、普遍文法というものはもちろん知っていたんですね。普遍文法というものの存在は人間の直観に反するので、ずっと不思議に思っていました。ただ、もしチョムスキーさんがこの小説を読んだら怒るかもしれないけどね。「普遍文法はそんなんじゃないよ」と(笑)。けれどまあ、大胆な発想をしてここに使ってみたという感じです。小説の中では陰謀論やポスト・トゥルース的な言及が出てきますが、個別の哲学の流派や、哲学者の思想の影響を受けているというわけではないと思います。

――今の科学技術でも、出生前診断によって子供の疾患や障碍の有無などを知ることができます。そうしたことを出生前にあきらかにする方向に進んでいて、「この子には障碍がある、だから産まない」と、親の側が一方的に決めるような世界になっている気がします。しかし、『生を祝う』では子供の側が出生するかどうかを決める世界に逆転しています。先ほども李さんの中で現在の世界に対する違和感が強くあったとおっしゃっていましたが、さらに具体的にお聞かせいただけないでしょうか。

李:出産について語るとき、「子供が欲しいか、欲しくないか」「子供を産みたいか、産みたくないか」という親側の言説が圧倒的に多くて、子供の側が生まれたいかどうか、現状では確認のしようもないんですけれども、そのことについて誰も気にしていないように感じるんですね。せめて小説の中では、それが可能であるとしたらどうなるのか、シミュレーションしてみたかった。これまでの小説でも、いろんな生きづらさを追究してきたんですけれども、その根源を突き詰めていくと出生というものにたどり着く。今回の小説は、ある意味では究極のところに行ったのかな、と。

――「なんで生まれてきたんだろう?」という根源的な問いは、私自身の中にもあるもので、だからこそ衝撃を受けました。それと同時に、この合意出生制度が作られる背景として、「五十数年前、『失われた三十年』の末に日本が迎えたのは、世界を席巻する流行り病の災いだった」と書かれています。この設定には現在の新型コロナウイルスの流行などの状況も反映されていますか?

李:現実から着想を得たところもあるんですけど、この小説で描いているのは、現在の無条件に生を喜び、死を弔うような人間の死生観が完全にひっくり返っている世界なんです。それぐらい大きな転換をするためには、大きな出来事が必要になる。戦争がきっかけになる可能性もあると思うんですけれども、今はまさにコロナが流行っている状態で、そこから着想を得てさらに極端に考えてみたということです。

■登場人物たちの関係性

――この小説は、女性たちの関係性が軸になっていると思うんですね。主人公である立花彩華とその結婚相手である趙佳織との関係性もあれば、彩華と姉・彩芽の関係性もあるし、終盤には金結奈という登場人物も出てくる。これは『彼岸花が咲く島』とも繋がりますが、現在の社会の中では抑圧されている女性たちが、そこからどう解放されるのか。女性たちが解放されるには、これだけ大きな跳躍がなければならないのかと感じましたし、その大きな跳躍は良い方向にだけ進むとも限らないんだな、とも思いました。『生を祝う』では、同性婚が法制化されていて、同性カップルも子供をもうけることができる世界になっています。まず彩華と佳織の関係性について掘り下げてうかがいたいです。

李:彩華と佳織はそこまで特別な関係性ではなく、言ってしまえば一般的な人だと思います。同性婚が当たり前になっている世界の「ふうふ」だから、そこまで特別だという感じはないんですね。もちろん今は、同性愛者自体が特別なものと見做されてしまう時代で、そういう時代の同性カップルの生きづらさはこれまでの作品でも描いてきたので、そこからひとつ跳躍して、同性カップルが当たり前の世界を描き、そういうなかでの普通のカップルを描いたと思っています。

李琴峰さん
李琴峰さん(撮影/加藤夏子)

――この小説には、料理がたくさん出てきます。佳織は妊娠している彩華にトマト牛肉煮込みスープや酢豚と空芯菜炒めを作ってあげて、「頬杖をついてにやにやしながら、私が食べているのをじっと見つめている」。こんなふうに、愛しい人にいろんな料理をふるまう場面が描かれていて、それがとても印象的でした。

李:この二人は、今の世界でもどこにでもあるような人間関係だと思うんです。相手の身体を思いやって、美味しいと思える料理を作る。そういう日常の一コマは、今の世界でも一般的だと思うんですけれども、それが彩華と佳織のあいだにもごく当たり前にある世界を描いたということです。

――二人の関係性はすごくいいものだなと思ったんですけど、その一方で、佳織は彩華より一歳年上で、合意出生制度ができる前に生まれています。佳織の父が、同性愛者の存在を「そんなのは自然に反する性癖だ」と頑なに受け入れない場面も描かれています。現実の世界でも、佳織の父と同じようなことを言う政治家が存在するわけですけども、このあたりはどういう思いで描かれたんでしょう?

李:どういう思いかという質問は、すごく答えづらいですね。同性愛者の子どもと、その親の関係ということでいえば現代の同性愛者のカミングアウト・ストーリーを読んだり聞いたりすると、皆、親に受け入れてもらうことに一生懸命になっている。それは本人にとって切実なことで、非常に大事なことだと思うんですけれども、時に思うんです。当事者はもっとわがままでいいんじゃないか、と。つまり、自分で選んで生まれてきたわけではないのに、セクシュアリティという存在の根源に関わることによって、どうしてあんなにも苦しまなければならないのか。そして、自分の意思をまったく無視して産んだ人に、どうしてそんなに受け入れてもらおうとするのか。そういう思いがどこかにあるんですね。小説の中の世界は、同性婚が当たり前で、同性愛者が非常に尊重されている世界になっている。だからこそ佳織は、あんなにもはっきりと「選べるもんなら、そんな男の子供として生まれたくなかった」と言うことができる。「親に受け入れてもらおうと必死になる」のではなく、「自分を受け入れない親を責める」ということができるのです。今の時代だと、当事者がそれをやると親不孝とされてしまうと思うんですけれども、私はそもそも、そういう今の世界に違和感をおぼえているので。

――彩華は、意思確認を経ずに生まれた姉・彩芽とのあいだに葛藤を抱えています。姉のほうも、そのことについて思うところがある人物として描かれています。意思確認をしていないぶん、両親は彩芽に対してすごく気を遣っているけれど、彩芽は天真爛漫に振る舞うところがあって、彩華はそれを波長が合わないと感じる。この合意出生制度においては、兄弟や姉妹がいるかということはわからないことになっていますよね。つまり、親は選べるけど、兄弟や姉妹は選べないことになっている。それによって二人のあいだにヒリヒリした関係が生じているように思いました。

李:なるほど。生まれないことを選ぶと、きょうだいもいなくなるから、選べると言えば選べるんですが、確かにきょうだいがいるかどうかという情報は与えられていないんですね。そもそも胎児は世界を認識していないから、家族がいるという情報を与えても、理解できないと思うんですよ。だから小説の中では生存難易度という数字だけを伝える形にしてあるんですけれど、それはこの制度の不完全性かもしれません。

――制度にはどうしても不完全性がつきまとうので、彩芽と彩華という姉妹にも、どうしても波長が合わないところが出てくるということですね。

李:そうですね。でも、この二人の関係性というのもまた、よくあるきょうだいのパターンじゃないかと思うんです。親が片方を依怙贔屓して、もう片方が「自分は愛されていない」と感じて、相手を恨む――そういう関係性は今の時代でもよくあることですよね。出生合意制度があることが、彩華と彩芽の子供時代の不和の原因にはなっていますけど、この制度がなくても、何か他のことがきっかけになって似たようなことは生じると思うんです。だから、二人の関係性はごく普通のものだし、この小説の登場人物は、そんなに特別な人間はいないと思うんです。合意出生制度があったらどうなるか。そのシミュレーションが、この小説の一番の読みどころじゃないかなと思います。

李琴峰さん
李琴峰さん(撮影/加藤夏子)

■「自然」とは何か

――この小説の登場人物に「そんなに特別な人間はいない」という言葉で思い出したんですけども、李さんは「文學界」(2020年5月号)で王谷晶さんと対談されています。そこで王谷さんは、「現代の東京や大阪などの都市部を舞台にしていて、外国人やいろんなマイノリティーの人の存在を匂わせないような作品は、怠惰だなと思います。ちゃんと見なさいや、見て書こうよって思います」とおっしゃっています。この『生を祝う』にも、当たり前のようにダブルの女性たちが登場しますけど、これは意識的に描かれたんでしょうか?

李:そうですね。最近、王谷さんがU-NEXTで発表された「今日、終わりの部屋から」も読みましたけど、王谷さんは言っていることを実践されているなという感じがしました。この『生を祝う』の場合、そもそもの舞台設定として「移民政策によって経済が上向きになった」という時代になっているので、国際結婚が当たり前だという設定なんです。現代日本は外国人が2パーセントしか占めていませんが、この小説はいわばアメリカのような移民社会になっているので、いろんなルーツを持つ人が一緒に暮らしている社会を想定しているということですね。

――『生を祝う』は、職場の同僚で、ダブルである凜々花と彩華がランチをしている場面から始まります。凜々花は妊娠しているけれど、夫はアメリカに出張しているので、彩華が凜々花に付き添って出生意思確認に出かけたところで、天愛会のテロが起こる。この天愛会という団体は衝撃的な存在なんですけれども、「天の本心を愛し、自然の摂理に帰すべし」と主張している団体で、合意出生制度を否定しています。この設定には衝撃を受けたんですが、この設定はどこから浮かんできたものなんでしょう?

李:今の反同性愛者の言説を見ていても、「同性愛は自然の摂理に反する」という主張はよくありますよね。それを聞くたびに、そもそも自然って何だろうと思うんです。そういった論理をこの小説の中に使ってみると、「合意出生制度は自然の摂理に反するものだから、廃止するべきだ」という主張になるだろうな、と。言ってみれば、今の時代に生きている人たちは皆、無差別出生主義者なんですね。そこに対する皮肉というか、アイロニーの効果はあるんじゃないかと思って、天愛会のことを書きました。

■何が正しい主張なのか

――この小説の中ではアイロニーをたくさん用いているように思うんですけど、その中でも天愛会の存在は一番皮肉が利いているなと思います。と同時に、天愛会的な保守的な価値観は、多くの人が受け入れている価値観でもあります。

李:そうですね。たとえば人工中絶に反対する人たちは一定数いて、「自然の摂理に反する」とか、「子供の命を奪っている」とか、そこにはいろんな論理があるんでしょうけど、アメリカだと中絶に対応している産婦人科クリニックに抗議デモをする人たちもいて、そういうイメージで書いています。ただ、天愛会に対して、いろんな感じ方があると思うんです。その保守的な価値観に衝撃を受ける人もいれば、読者によっては共鳴する人もいるんじゃないかと思います。

――天愛会のもともとの始まりは、合意出生制度のもとで、生まれてこないことを選択した我が子と死別を強いられた母親たちによる自助グループだったという設定になっていますね。その一員である金結菜や彩芽の境遇を知ると、お互い集まって慰め合わざるを得ない部分が感じられて、最初期の天愛会については複雑な部分があるところも書かれています。

李:なにかおかしいものが存在するとして、それは最初からおかしかったわけではなくて、どこかで狂ってしまうのが世の常だと思うんですよ。だから天愛会についても、最初は同じ境遇の人が集まる団体という設定にしました。ただ、共感が共感を呼んでいくうちにリミッターが外れて、カルト宗教みたいなものになってしまう。これはSNSにも共通する話で、SNS上では共感を呼ぶ言葉は拡散されやすいんですけれども、安易に皆が飛びついていくと、ある種の危険性を孕んでしまう。それを意識しながら、この設定を作りました。

李琴峰さん
李琴峰さん(撮影/加藤夏子)

――たしかに、SNSにおいて、共感によって居場所を得る人もいれば、それがあるとき変貌して、暴力の形であらわれてくることもあります。『生を祝う』の彩華も、出生強制の岐路に立たざるをえなくなって、陰謀論的なものに呑み込まれてしまいますけど、これは今の時代とも非常に重なってくるものを感じました。

李:エコーチェンバーという言葉もあるように、インターネット上では自分の立場を支持するエビデンスがいくらでも見つかってしまうんですね。彩華も「子供を産みたい」という思いに苛まれて、インターネットで自分が支持する立場の情報を読み漁ってしまう。それは今の時代に多くの人がやっていることじゃないかと思うんです。

――今の時代状況と照らし合わせて考えると、陰謀論は、パッケージ化していて、人々の心に浸透しやすいものになっていて、何か危機的な出来事が起こると、それに影響を受けそうになるところがあると思うんです。そうした陰謀論によって、人は敵意や誹謗中傷に流されてしまうけれど、それに抵抗していくための人々の結びつきについて、李さんはどんなことを考えていますか?

李:難しい質問ですね。天愛会に集まっている人たちは、基本的に自分たちが正しいと思っているんです。そうすると、自分たちの正しさをいろんな形で実現しようとするんです。時には暴力も辞さない、となる。暴力は悪だ、と簡単に片づけることもできるけど、1900年代から20年代にかけてイギリスで婦人参政権運動をやっていた人たちも、ある種の暴力は用いていたわけです。そして歴史の流れを見ると、彼女たちの抵抗は正しかった、歴史を正しい方向へ導いたと、今なら言える。1969年のアメリカの「ストーンウォールの蜂起」も同じ。だから、何が正しい主張なのかは、後世になってみないとわからないところがあるんですね。もちろん絶対に間違っている主張というものはあるんですけど、多くの主張は歴史の流れの中でしか判断がつかない。天愛会にしても、彼らがやっていることはテロだけれども、本人たちは「正義を主張している」と思っているから、その分断は根源的なものなんです。こんな時に衝突以外のどんな可能性があるかというと、今の私にはちょっとわからないですね。

――合意出生制度について、結菜は「あまりにも正し過ぎるからこそ、逃げ場がないように感じられた」と主張しています。天愛会というのは、「正しくない人たちが作り上げた逃げ場のようなもの」だ、と。合意出生制度では、この世界に生まれるかどうかを判断するときに、生存難易度という指標があって、一見すると科学的な正しさに基づいて判断されるような感じがありますね。でも、その正しく見える制度であるがゆえに、結菜は息苦しさを感じているわけですよね。

李:結菜の存在を今の時代に置き換えてみると――たとえば、「同性愛者を差別してはいけません」という主張があることによって、同性愛者に対する嫌悪感を表明する自由が奪われている人たちが息苦しいと感じるのと同じですね。その息苦しさに正当性があるかというと、私はないと思うんですけど、そういう息苦しさがあること自体は、事実として存在している。そういう息苦しさを抱える人がたくさんいると、天愛会みたいな団体ができあがる。実際、似たような勢力がアメリカでは国会襲撃を起こすなど社会問題にまで発展しています。現代日本でも、もっぱらデマやヘイトスピーチなどで飯が食えている論客や出版社が存在します。彼らを支えているのは、結局のところ、天愛会的な人たちでしょう。

■「親ガチャ」という言葉

――この数年はディストピアものの小説が多く発表され、ある種のブームのようにもなっています。この『生を祝う』も、合意出生制度が確立された世界で、そこに天愛会のような団体が存在してしまっていることを考えると、ディストピア小説として読める部分があるのかなという気がします。

李:そうですね。小説にはいろんな読み方がありますので、この小説をディストピアとして読む人がいてもいいし、ある種のユートピアとして読む人もいてもいいと思うんです。私自身はディストピアだと思わないけれども、そう感じる読者がいるのだとすれば、それもまた自由だと思います。

李琴峰さん
李琴峰さん(撮影/加藤夏子)

――たしかに、どちらかに決定できないのがこの小説だし、読むたびに感覚が変わっていくところもありました。印象的なのは、「殺意」に対して「産意」という言葉が使われているところで。「殺意も産意もつまるところ、他者を意のままに操りたいという人間の最も根本的な願望の発露にほかならない」と。普段の生活だと、子供が生まれると「おめでとうございます」と言ってしまいますけど、この小説を読んでいると、今まで何に対して「おめでとうございます」と言っていたんだろうと考えさせられました。

李:「産意」という言葉も、私が仕込んだ毒ですね。だから、そこを読んで衝撃を受けてくれたのなら、とても嬉しいです。

――他に「人生という名の無期懲役」という言葉も出てきますが、この言葉にピンとくる人はとても多い気がします。

李:新語・流行語大賞にもノミネートされた「親ガチャ」という言葉もありますね。最近、『出会って5秒でバトル』というアニメを観たんですが、「負けイベ実況プレイ」というエンディングテーマソングの歌詞がすごく面白いんですよ。人生をソーシャルゲームに喩えて、「人生はクソゲーだ」と言っている。そういった感覚は今の時代、わりと共有されていると思います。

――李さんの芥川賞贈呈式のスピーチも、「生まれてこなければよかった」という言葉から始まります。この言葉は、『生を祝う』とも重なっているところはあるんでしょうか?

李:そうですね。ただ、スピーチと重ねて読むと、作者の思いや立ち位置が見えすぎてしまって、それが先入観になってしまうところもあると思うんです。作者の私とはまったく違う立ち位置からこの小説を読むことだって可能だし、出生合意制度なんておぞましいと感じることも可能だし、この小説をディストピア小説として読むこともできる。小説というものは、必ずしも作者と同じ立ち位置で読まなければならないものだとは思っていないんですけれども、この作品については特にそう感じています。この小説にはすごく毒があると思います。ですが、毒がない小説は私の好みではありません。毒にも薬にもなる小説を、これからも書きたいですね。

(2021年10月28日、東京・築地にて/構成:橋本倫史)


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