石川啄木の「はたらけど」誕生の背景と「ぢつと手を見る」の妙味
5番目の勅撰集『金葉集』は、白河上皇の命により、1120年代に成立しました。「憂かりける」の歌人・源俊頼がその撰者。和歌に新風を吹き込んだとされていますが、上皇からのダメ出しが何度かあっての完成で、ニューウェーブとはそんなに簡単なものではないようです。
『後拾遺集』までは『古今集』の圧倒的な影響下にあり、いわば地続きでした。しかし、『金葉集』が編纂されたのは50年ほどのブランクののち。院政期がいよいよ最盛期に入る時期と重なる、12世紀のまさにポスト王朝時代なのです。歌集には、俊頼の歌の特徴でもある、風景描写の斬新さや口語(話し言葉)や俗語の使用が目立ちます。
俊頼の「憂かりける」は、『金葉集』から二つのちの勅撰集『千載集』に収められました。歌の結句「祈らぬものを」からは、婉曲的ながらも無念の思いが切実に伝わってきます。主人公のボロボロな様子とともに。上の句が「憂かりける人を/初瀬の/山おろしよ」と、五七五ではなく破格(二句の途中で切れ、三句は字余り)であることも、その心情に妙にマッチしています。
さて、自分の境涯を生活感を盛り込んで率直に、 時には自虐的に詠い、その気持ちわかるなあとファンの多いのが石川啄木。俊頼の時代からおよそ800年後、近代のニューウェーブです。三行書きという一目でわかる「啄木印」の表記、話し言葉そのままのような親しみやすいリズム。
「はたらけど」は、東京に出てきた啄木が朝日新聞の校正係に職を得た頃の歌。家計は安定したはずですが、啄木は派手な都会暮らし。借金を脱するには十分な収入ではなかったようです。
歌を味わう私たちは、「はたらけど」のリフレインにまず心をとらえられます。「猶」は副詞で、やはり、の意。四句「楽にならざり」の「ざり」は打消の助動詞の終止形の例外的な用い方で、ここでいったん句切れます。そこに「ぢつと手を見る」 と身体的表現が差し出され、読み手は否応なしに啄木の視線と重ねられるのです。校正の赤鉛筆を握る手にはマメでもできているのでしょうか。文学への思いや生活の疲れが集約した「手」を直視せざるをえないのか……。
少しあとに詠まれたこの歌は、大逆事件(※)ののち、国家の権力が偏りを増し、重圧化していく中での不安が背後にあります。啄木は社会がもっとよくなるという革新的な「新しき明日」を願い、固唾を飲んで政治の動向を見守っていましたが、実際の世の動きはその理想から乖離していくばかり。ここにもまた、やるせなさがあります。
恋愛と生活、そして政治とではテーマ自体が異 なるわけですが、若い叫び、破れかぶれが歌の力 という点で、共通するものを感じるのです。