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パンダと人類の歴史をひもとく、小さく、ひそやかな問題作 /高山羽根子著『パンダ・パシフィカ』小川公代さんによる書評を特別公開!

 テロと戦争が常態化する時代の渦中に、命をあずかり平和の実現を企てる組織が存在した――? 2008年、上野動物園では日本が所有する最後のパンダ・リンリンが亡くなり、中国ではオリンピックを前に、加工食品への毒物混入事件と大地震が起きる。命をあずかることと奪うこと。この圧倒的な非対称は、私たちの意識と生活に何を残すのか? 高山羽根子さんの最新作『パンダ・パシフィカ』(朝日新聞出版)について、上智大学外国語学部教授・小川公代さんが「小説TRIPPER」秋季号に寄稿した書評を特別公開する。

高山羽根子『パンダ・パシフィカ』(朝日新聞出版)
高山羽根子『パンダ・パシフィカ』(朝日新聞出版)

弱きものの“命をあずかる”

 高山羽根子はデビュー以来、一貫して“命をあずかる”責任について書いてきている。“命をあずかる”とはどういうことか。それは子どもを授かった親のケア実践かもしれない。あるいは、医療従事者が提供するケアかもしれない。獣医もまた大切な命をあずかっている。無数の名もなき人たちも、日々小さくて、脆弱な生きものの命を育て、見守っている。高山のデビュー作「うどん キツネつきの」では、宇宙生物である可能性が示唆される犬が、三人姉妹の愛を一身に受ける対象として描かれている。芥川賞受賞作『首里の馬』では、主人公がたまたま庭で遭遇する「宮古馬」をケアする物語である。高山は、あまり速く走るようにはできていない宮古馬の性質におそらく自分を重ねる主人公の弱さにも光を当てている。

 本書には「あずかりさん」と呼ばれる人も登場するが、彼女の言葉は、まさに自己責任論が蔓延する社会に生きる人びとの心に刺さる。「人間の社会全体でだれかの生きものを預かって生かしている以上、逃がすことは絶対にしちゃいけない」、そう語る。本作は、高山文学の神髄――つまり生きものへのケアに満ちた想像力をしなやかにことばで表現する感性――が見事に結実した作品である。主人公の篠田モトコは日中の仕事に加えてカラオケのアルバイトもしているが、彼女は行きがかり上、同僚の村崎さんが海外に行っているあいだ、彼が飼っている生きものの世話をすることになる。「キンギョ」くらいしか飼ったことのないモトコが、彼の生きものたちの世話をし始めるのだ。彼女は、体調を崩したファンシーラットの「シナモン」を動物病院で診察してもらい、手術まで受けさせる段取りをつける。その後、弱ったこの生きものにごはんや水を与えるため、わざわざ自宅に連れ帰ったりもする。

 とはいえ、村崎さん本人が海外に渡航したまま、なかなか日本に戻ってこないと、さすがのモトコも「このままこちらに帰ってこないんじゃないだろうか、という不安」を抱き始める。しかし、モトコの村崎さんへの不信は少しずつ払拭されていく。それは彼の生きものに対する真摯な姿勢をその飼い方から感じ取っているからだ。たとえば、生きものを「人の視線から遠ざけ」たり、生きものにとって「余計なストレスがかかるのかもしれない」飾りものは置かないという配慮である。最初は生きものについて村崎さんから指示をもらうことから始まったメールでの対話は、次第に哲学対話の様相を帯びてゆき、モトコは傷つけられる生きものについての思索を深めていく。たとえば、絶滅危惧種であるジャイアントパンダと中国の外交史を辿ったり、ネズミの命をめぐり、命は「消すよりもある状態を維持するほうが大変なようにできている」という気づきを得たり、飼っている生きものが亡くなったらどのように供養するかを教えてもらったりしている。

 本作を読みながら思い出したのが、絲山秋子による『沖で待つ』という同期入社の男女の物語である。二人とも住宅設備機器メーカーで九州に配属になるが、彼らがまた関東に異動が決まったとき、ある約束を交わす。それは、もしどちらかが先に死んだら、相手のノートパソコンのHDDを壊すというものだった。約束を交わす、そしてその責任を果たすということが、恋人でも、親友でもない仕事仲間の間で実現されることの気高さ、誠実さに心動かされる。

 おそらくモトコが生きものの世話を引き受けてしまう理由は他にもあるだろう。そもそも、彼女が従事しているのもケア労働である。カラオケ店の早朝シフトで入ってくるモトコがするおもな仕事は、ゲストのレジ締め作業と部屋の掃除、そして、昼シフトのスタッフたちが来る前に店の準備をととのえることである。家庭でのケア実践もケア労働も社会的弱者に集中してしまう不条理を悲観的に語っているというより、むしろそういう日頃不可視化されているケアの実践が、生きものの命も経済活動も陰で支えている現実があることを見えるようにしている。そしてモトコ自身も生きものたちのケアを通して、父親に関するある記憶を忘却から掘り起こすことができた。かつて自販機の取り出し口に除草剤の入った瓶飲料が入っていた事件が多発したとき、父親がさりげなく「自動販売機の商品取り出し口に一度手を入れ」てから、娘のジュースを買うことで命を守ってくれていたという記憶である。

「弱い生きものの多くが命を落とすことを前提としているなら、ケガをした野生動物はその時点で手を伸ばされるべきではないのかもしれ」ない。しかし「見てしまって伸ばせる手を持っていればうっかり伸ばしてしまうのが本能というもの」という手の倫理がある。ここには、“命をあずかる”というケア責任の普遍性がそっと提示されている。