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第10回

 次回作を考えあぐねていた尚吾に、長谷部要(はせべかなめ)というボクサーを撮ることを提案したのは、紘だった。

 当時紘が付き合っていた彼女が、ダイエットのために大学のすぐそばにあるジムに通い始めたのだ(ボクササイズをしたいということだったが、案の定彼女がすぐに飽き、ジムにも通わなくなった)。一人でボクシングジムに行くのが怖いと言うので付き添ったのだが、紘の目は、薄着で汗をかきながら胸を揺らす彼女の姿ではなく、そのジムの練習生で、トレーナーでもあった長谷部要の姿に釘づけになっていた。

 長谷部要はそのとき、縄跳びに励んでいた。リングの上にいたわけでも、ボクシンググローブを着けていたわけでもないのに、体の軸を一切ぶらさず、小刻みにその場で跳び続けている姿から、紘は目が離せなかった。

 今となっては、そのとき、自分がどんな感情を抱いていたのかよくわかる。高校一年生のとき、PR動画のために乗せてもらった船が海へ出た瞬間。ぱっと、視界に覆い被さっていた何かが取り払われるような美しさに刺されるあの一瞬。それこそが紘にとって「撮りたい」と思うスイッチだった。長谷部が縄跳びをする姿は、幾度となく訪れる縄を飛び越えるというよりも、自らの身体から一切の無駄を振り落とそうとしているように見えた。そう感じたとき紘は、上京して初めて、瞳に纏(まと)う何かが取り払われた気がした。

 道路が長い直線になり、昭がスピードを上げた――と思ったら、すぐに減速する。

「ん?」

 見ると、十メートルくらい離れているだろうか、向こうからやってきた高齢の女性が、自転車を降りて、ぶんぶん手を振っている。

「バスじゃなかっぞ」ぼそりと呟きながらも、昭は女性のほうへと車を寄せていく。

「どぎゃんしたと」

「なんかうちのFAXが調子おかしゅうて注文書送れんとよ。困った困ったて言うとったら車見かけたけん、今注文お願いできる? あれ、あんた」

 女性が、助手席にいる紘を思い切り指さす。

「あそこの体育館でなんかしよった子じゃなかかい、なんねこっち帰ってきたと?」

 大土井さんとこの子ォやったなあ、と顔をじろじろ見てきたかと思うと、女性はすぐに「まずビールの十二缶入りケースやろ」勝手に話を進めようとしてしまう。

「ちょ待って待って、紙の注文書出すけん待って」

 昭がドアを開け、車を降りる。確か、後部座席に置いてあるファイルに紙の注文書や筆記用具がしまってあるのだ。

 助手席に一人残された紘は、自分でそうしようと思う前に、ハーフパンツのポケットの中に右手を差し込んでいた。

 ちょっとでも一人の時間ができたら、スマホを手に取る。そんな癖がついてしまったのはいつからだろうか。

 SNSを開くと、アクセスしていなかった数時間分の投稿が一気に体内に流れ込んでくる。空と海に挟まれた島の広大さに安心する自分と、情報の渦に全身が浸かる感覚に安心する自分は、どちらも同じ肉体の中にある。島でスマホに触れるたび、その二つの自分は決して反発し合っているわけではないことを実感する。

 ついでにFAXも直してくれんかねえ、と嘯(うそぶ)く女性の声を窓越しに聞き取りながら、両目が中央シネマタウンという文字を捉える。新たな特集上映の内容が決まったようだ、告知の投稿が行われている。

【大好評につきアンコール上映・最後の国民的スター、龍川清之特集】

 スター、という文字が、紘の目に留まる。大学を卒業してすぐ、尚吾と行った中央シネマタウン。銀幕の中で輝く龍川清之の姿、喫煙所のガラス越しに見たロビーを行き交う人の少なさ。

 投稿に、一件のリプライがある。見てみると、スターウォーズの画像をアイコンにしている人が、こう呟いていた。

【さすが国民的名画座。最高です】

 全部切らしとらんやったら今日の夜までに持ってくるばってー、と言う昭の声の向こうから、波の音が聞こえる気がする。

 ここにいると、東京で過ごした四年間がすべて幻だったような気持ちになる。国民的スター、国民的名画座、そんな言葉が届かない“一部地域”に流れる時間。紘が予算0円で撮った映像を未だに覚えている人がいて、ぴあフィルムフェスティバルのことは誰も知らない。

 最後の国民的スター、か。紘は、スマホをポケットにしまいながら思う。
 全員が違うタイムラインを追いかける今、国民みんなに知られるようなスターなんて現れるのだろうか。

「誰やったっけ今の」

 運転席に戻ってきた昭に、紘は訊く。

「清水(しみず)さん、公民館の」ああ、と、紘は生返事をする。覚えているような覚えていないような、というレベルだったが、こちらが覚えていようが覚えていなかろうが、どっちだって島の人たちは紘への距離感を変えない。誰だって思い切り指をさし、顔をじろじろと見つめてくるのだ。「いっつもいっぱい注文くれてありがたかばって、公民館の事務所に何でそぎゃん酒がいるとやろ」

 午前中の最後の配達先は、同級生の桑原の実家が営む民宿だった。ここ数年、島にある空き家を改装してゲストハウスに、なんて試みもあったそうだが、なんだかんだ言っても桑原家の民宿が一番人気らしい。その理由はおそらく地元の魚をふんだんに使った料理だと言われている。桑原の親戚が漁師なので、海産物をタダ同然で納品してくれるのだ。結果、客からすると宿泊費が安くなる。

「お前、ちょっと緊張しとる?」

「はあ?」

 さっきから昭は、桑原の話題になるとニヤニヤと口元を緩める。過去を全て共有している関係というのは、安心感もあるが気恥ずかしさもある。

「どんだけ昔ん話ばしとっとか、お前は」

 そう言いつつ、紘は一応、ミラーに映る髪型をチェックした。桑原とはたまに連絡を取り合うものの、こうして顔を合わせるのは成人式以来だ。

「おー、来た来た」

 台車を押しながら玄関に入ると、エプロン姿の桑原が包丁を持ったまま手を挙げた。刃先には思い切り血がついており、傍から見ると危ない奴だ。

「紘、もう津森商店の人や」

 一人娘として当然のように民宿を継いだ桑原は、あのころの面影が残る顔に何の化粧も施していない。一度明るく染めてから長い間放ったらかしにしているのだろう髪の毛を簡単に一つにまとめているだけのその姿は、高校時代、紘と恋愛ごっこのようにキスをしたり身体に触れ合ったりしていたころから全く変わらないようでも、全くの別人のようでもある。

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