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第11回

「二人とも、もう昼飯食うたね?」

 食料庫に酒を収めていると、桑原がそう訊いてきた。まだ、という返事の代わりに、ぐう、と腹が鳴ってくれる。

「食べていく? 今日昼食べる人あんまおらんで、食材のあまるごたっとよ。うち、宿泊客の数に関係なく魚ガンガン入ってくるけんねえ」

 紘は昭と顔を見合わせる。ラッキー。昭の顔にそう書いてある。

「じゃあお言葉に甘えて」

 納品を終え、昭とダイニングテーブルに腰かける。桑原の後ろ姿はすっかり宿の女将(おかみ)のそれであり、料理道具ではなく日焼け止めや手鏡ばかり手にしていたころを知る身として、勝手に感慨深い気持ちになる。昭や桑原みたいに、幼少期に抱いていた興味関心から遠く離れた領域で日々の仕事をこなしている同級生を見ていると、かつて好きだったものをそのまま操り続けている自分がひどく幼い子どものように思えてくる。

 紘は無言で、滑らかに作業を進める桑原の手つきを眺めた。桑原は、付き合っていた間いつも、ハンドクリームを手放さなかった。アトピーだけん、と硝子(ガラス)細工でも扱うように自分の皮膚に触れていた手で、今はがつがつと魚をさばいている。

 人工呼吸でもするみたいに、全身で魚に立ち向かう桑原の背中を見つめる。紘が初めて触れた女性の背中の肌には、確かに、本来触れてはいけないような赤みがぷつぷつと浮かんでいた。そこに、桑原から手渡された見慣れない名前のクリームを塗ったときの感触が、紘の指たちにそっと蘇(よみがえ)る。

 正直に言うと、みとれていた。だから、突然鳴り響いた『こんにちは!』という甲高い声に、紘は全身を弾ませるようにして驚いてしまった。

『魚さばき界の三ツ星スター! 星野料理長のチャンネルへようこそ!』

「え、何⁉ てか音でかくね⁉」

 紘は思わず立ち上がる。すると、桑原がスマホをキッチンの壁に立てかけているのが見えた。

「音でかすぎた、ごめんごめん」

 桑原はそう言いながら、スマホの音量を下げていく。とはいえ、『今日は、あんまり食べたことある人はいないかもしれませんねー、カンムリベラを扱います!』という声はハッキリと聞き取れる。

「何それ? 星野料理長て誰?」

 驚いているのは紘だけのようで、昭は「ここで煙草吸うたらだめやったっけ」なんて周りをきょろきょろと見回している。

「知らん? 今えらい人気ばいこん人。なんせ、魚さばき界の三ツ星スター!だけんね」

 桑原は先ほどの甲高い音声の真似をしながら、着々と包丁を動かしている。

 スター。

 紘は桑原の隣に立ち、スマホの画面を覗(のぞ)き込む。中肉中背の男が、白いコック帽に白いエプロンという出で立ちで、ごくごく一般的な台所に立っている。

「星野料理長てYouTuberで、どぎゃん珍しか魚でも一通りさばき方とかうまか食べ方とか紹介してくるっとよ」

 桑原はそう言いながら、『カンムリベラの調理はうろこを取るところから始まります。まずは』と話す星野料理長の動きを真似していく。

「うちは食材が親戚から直で納品さるるけん、ようわからん魚もあったりしてな、さばき方わからんときは星野料理長に頼りっきりよ。こん人ほんなこつすごかぞ、マジで魚んこと何でん知っとるし、手つきもプロ。マジでスター」

 桑原の言う通り、星野料理長の動きには迷いがない。『ここで一度まな板を洗っておいたほうがいいですね。作業はまだまだ続きますので』そんな音声が流れたところで、桑原は動画を止め、まな板を洗い始めた。

「ん?」紘はスマホに顔を近づける。「何これ、百万回以上も再生されとるんか」

 1,085,190回視聴、という文字を指す紘を、「ちょ、邪魔」と桑原が尻でどかす。

「星野料理長の動画やったら、そんくらいが普通じゃなか? 他のと比ぶれば少なかくらいかも」

 一度洗ったまな板の上で、桑原が作業を再開する。紘はその隣で、ぼんやりと、映画の舞台挨拶などでよく掲げられる【祝・観客動員数一〇〇万人突破】という言葉を思い出していた。

 満席になった体育館での上映会。ガラガラの中央シネマタウン。マジでスターらしい星野料理長。銀幕のスターが輝く名作。1,085,190回視聴が少ないくらい。祝・観客動員数一〇〇万人突破。

「なあ、桑原」

「ん?」手を動かしたまま桑原が応える。

「龍川清之て知っとる?」

「へ?」

 桑原の手が一瞬止まった。だが、すぐに作業が再開される。

「誰それ、坂本龍馬とかそっち系?」

「ちがう! 誰からも聞いたことなか?」

 紘は、手を止めない桑原に詰め寄る。

「お前の母ちゃんとか父ちゃんとかからも、聞いたことなか?」

「なかなか! 何なんいきなりうるさかなあ」面倒くさそうに言うと、桑原は龍川清之という名前に全く興味がないのか、全然違う話を繋(つな)げた。「つーかあれぞ、星野料理長ば教えてくれたとは、確かあんたの母ちゃんよ」

「は、マジで⁉」

 マジマジ、と言うと、桑原は一度タオルで手を拭き、また動画を再生した。

「母ちゃん同士仲良うしとるやん、うちらんとこて。うちであまった食材あんたんとこ持っていったら、あんたの母ちゃんがこん動画見て料理ばし始めたらしかぞ。だけんうちも知った」

 助かるわあ、と作業を再開し始める桑原を前に、紘の身体は、まるでその場に縛りつけられたかのように固まってしまう。

 国民的映画スターが知られていない島。そこで暮らす母親には、お気に入りのYouTuberがいる。

『ここでスター星野のワンポイントアドバイス! カンムリベラは脂も少なく淡白なので、食べ方としては――』

「紘、ちょっと邪魔、どいて」

 桑原がまた、紘を体で押し退けようとしてくる。紘は簡単に二歩、三歩とふらついてしまう。この身体は、今、キッチンマットの上から外れただけでなく、すべてを知り尽くしていると思い込んでいたこの島からも脱落したかのように感じられた。

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