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今年もやってきた関ヶ原の季節…「東西、どちらにつくべきか」調略とびかう夏こそ読みたいこの一冊!

 新刊が出る度に、広告を作り、POPを作り、チラシを作る。宣伝課のしがないスタッフである築地川のくらげが、独断と偏見で選んだ本の感想文をつらつら書き散らす。おすすめしたい本、そうでもない本と、ひどく自由に展開する予定だ。今回は、週刊朝日ムック『歴史道 Vol.16』を嗜む。

 季節はいよいよ「関ヶ原」の夏を迎える。SNSの世界では石田三成が西軍への勧誘活動を活発化させる。ポストをのぞいたときに三奉行が書いた「内府ちかひ(違い)の条々」が届いていないかと無駄に胸騒ぎがする。

 いや、いまどきは文書を送るわけがない。もう時代は令和だ。メールにちがいない。では差出人が東軍の井伊直政や黒田長政だったら、どうすればいいだろうか。開封すべきかゴミ箱にひょいとするか。もしも圧縮ファイルが添付されていたら、ウイルスを疑い、解凍はためらうだろうか。だいたい面識のない方から添付ファイルが来たら、開ける方がどうかしている。

 そういえば、部内に怪しすぎる圧縮ファイルを解凍して、PCを召し上げられた方がいたような……。いずれにしてもしょうもない胸騒ぎにちがいない。だれも禄なし、武器なし、力なしのくらげを自軍に引き入れようと考えるわけがないからだ。

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 1600年9月15日の関ヶ原本戦を前に7月から8月にかけて全国で書状が飛び交った。なにせ日本の歴史上、最大規模の激突である。領土を争った局地戦とはスケールが違う。全国規模で行われた日本という国の覇権を巡る争乱、関ヶ原合戦となれば、東西両軍の調略はとてつもなく激しかった。

 豊臣政権下とあっては、家康率いる東軍は豊臣恩顧の武将たちに自身の正統性を丁寧に説明する必要があった。対して三成の西軍は家康を糾弾し、豊臣の世における義は我々にあると訴えた。その調略合戦が1600年夏のトレンドだったにちがいない。

「東西、どちらにつくべきか」

 いや、でもね、西軍は本戦でたった1日足らずで総崩れ、三成はみじめに逃走したわけでしょ。西軍につくなんてあり得ないんじゃない?

 歴史教育は残酷だ。史実だけに、令和の世に西軍につくという選択肢はない。くらげよ、悪いことはいわない、東軍に行きなさい。親までそう諭すだろう。

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 しかし、だ。はたして本当に西軍に勝ち目はなかったのか。家康率いる東軍は戦前から勝利を確信していたのか。笹尾山、松尾山、南宮山という三方向を西軍に抑えられ、いわば敵の包囲網に侵入するようにわざわざ着陣した家康だが、事前に勝てる算段があったとも言われている。まあ、野戦に強く慎重な家康が、この大一番で無茶はしないか。

 それでも西軍に勝機はなかったと断言できるのか。

 この疑問について歴史道Vol.16「関ヶ原合戦 東西70将の決断」が答える。それぞれの武将の視点から関ヶ原合戦に至る道のりを解くと、いくつかのポイントが見えてくる。

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 まずは太閤・秀吉の晩年に行われた文禄・慶長の役。これは秀吉の個人的な野望のための戦であり、不要な亀裂を豊臣恩顧の武将の間に生じさせた。三成が完全に嫌われたのはこのときだろう。そして秀吉がこの世を去り、家康が動き出し、三成ら奉行衆との対立がはじまる。三成にもっとコミュ力があれば、福島正則ぐらいは味方につけられたのではないかと、本書を読んで改めて思わざるをえない。

 もうひとつ、毛利氏だ。秀吉の天下取りを手助けした毛利氏は西国最大勢力を保持、家康とて迂闊に対立できなかった。当主の毛利輝元は西軍の総大将として早々に大坂城に入り、養子の秀元や吉川広家、安国寺恵瓊、秀吉の一族である小早川秀秋ら一大勢力を関ヶ原に集結させる。

 毛利氏といえば結束の強さが有名だが、それは元就と隆元、吉川元春、小早川隆景の時代まで。このころの毛利氏は一枚岩ではなかった。そこに接近したのが毛利氏とパイプがあった東軍の黒田如水、長政親子。

 吉川広家に近づき、それこそ文書を活発に交わし、東軍への調略工作に出る。広家は毛利秀元との関係が芳しくなく、ここを突かれた。広家を通じて毛利氏に西軍を離れるように働きかけた。この説得はどうも本戦の前日まで続けられた。調略に長けた黒田長政はしつこかった。つまり、必死だった。東軍には余裕なんてなかったのだ。毛利氏を離反させられれば、勝機を見出せるが、できなければどうなるかわからない。

 ほら、西軍にも勝ち目はあったじゃないか。だが、本戦の前日に毛利氏を悪いようにはしないという家康の意向を記した起請文が入念にかわされ、広家は落ちた。当日、毛利勢は最前線にいた広家に阻まれる形で戦闘に参加できなかった。南宮山に陣を敷いた西国一大勢力の毛利勢が動かなかったことは、西軍全体に大きな動揺をもたらしたにちがいない。

 本書によれば、小早川秀秋はそれよりはるか前に東軍への寝返りを決めており、戦闘開始と同時にさっさと大谷吉継に攻めかかったという。まったくもう少し東西どちらにつくべきか揺れてほしかったものだ。

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 毛利氏への調略工作は決戦前日までもつれた。仮に失敗したとしたら、もしかすると9月15日の関ヶ原本戦はなかったかもしれない。三成のコミュ力次第では毛利氏の離反は防げたのではないか。そうなれば長期戦になり、東軍にいる豊臣恩顧の大名を揺らがせたのではないか。

 またお城といえばこの方、千田嘉博先生が近ごろ発見した巨大城郭「玉城」。本書には改めて玉城について詳細に紹介されている。豊臣の正統後継者たる秀頼が千成瓢箪を掲げ、玉城に着陣すれば、東軍の足どりは必ずや乱れたにちがいない。ね、西軍に勝つ目はあるでしょ。

 本戦当日のドキュメントも丁寧だが、本書には7~8月にかけて行われた東西両軍の調略、その証拠の書状がふんだんに掲載。それぞれ武将の視線からいかに拮抗した状況だったのかが見えてくる。

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 よくもまあ、これだけ調略が行われたものだ。文書の機密性はどれほど保持されていたのか。現代人目線ではこれも気になる。情報セキュリティは慶長も令和も変わらず重要だ。我々の社会も日々、さまざまな思惑をのせた調略めいたメールが飛び交っている。そこらへんで会って話せない内容はまずはメールで伝える。返信先を誤る、もしくは間違えて転送などしてしまったら大変なことになる。

 みなさんのもとに西軍への加担をうながすメールが届いていませんか? 黒田長政から内府殿の意向を伝えるメールは来ていませんか? ちなみに毛利輝元は事前に約束された本領安堵を戦後、家康に難癖つけられ、あっさり覆されました。夏の誘い言葉は殺し文句、ご注意くださいませ。

 さあ今年も西軍にいこう。

(文/築地川のくらげ)


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