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【辻村深月さん×加藤シゲアキさん対談全文公開!】変化する小説との向き合い方

 2022年秋に創刊45周年を迎えた朝日文庫。9月に『傲慢と善良』の文庫版を刊行した辻村深月さん、同じく11月に『できることならスティードで』を刊行した加藤シゲアキさんの初顔合わせの対談が実現しました。「小説トリッパー2022年冬号」に掲載となった対談の全文を特別に公開いたします。

辻村深月(以下、辻村):文庫化された加藤さんの初のエッセイ集、『できることならスティードで』のテーマは旅です。そもそも、なぜ旅がテーマのエッセイ集を書くことになったのか伺ってもいいですか。

加藤シゲアキ(以下、加藤):最初は「小説トリッパー」から、旅というテーマのコラムでエッセイを一篇書きませんかという依頼があったんです。ちょうど一人でキューバに行こうと思っていた時期でした。一人で行くのは少し不安だったんですが、これは取材なんだ、と思うことで背中を押されるように飛行機に乗ることができました。それを書いた後で、連載が決まったんです。マネージャーに「ちょっと取材で旅に行ってきます」と言えるようになったのはよかったですね(笑)。

辻村:国内外の旅の話があるだけでなく、ポンデケージョを焼いたり、釣りの話があったり、テレビ番組のロケの話があったり。いろんな形の旅が書かれているところが面白かったです。読みながら、自分もいろいろやってみたくなりました。
 それと、旅だけでなく、日常のお仕事のことなどがナチュラルに入っているところもとてもいいですね。私が旅のエッセイを書いたら単なる旅行記になってしまいそう。

加藤シゲアキ『できることならスティードで』(朝日文庫)

加藤:やはり忙しかったりコロナ禍があったりして物理的な旅ができない時期もあったので、拡大解釈に次ぐ拡大解釈で、広義の旅を考えました。僕、エッセイの連載は初めてだったんです。単行本の際に掌篇も書き下ろしたので、変わった構造の本ですよね。

辻村:そう、小説が入ることでアクセントになっていますよね! 後半ではエッセイと小説が融合する部分が本のテーマに効いてくる。

加藤:旅のエッセイってもっとライトな文章でもいいと思うんですけれど、読み返してみて、ギチギチに文章を作っているなと思いました。

辻村:それがよかったです。読者に何をどう伝えようか真剣に考えていらっしゃるんだなぁと。加藤さんの文章に対する真摯な姿勢が伝わってきました。

加藤:いやあ、難しかったです。

辻村:描写も繊細で。加藤さんは匂いの描写をすごく大切にされていますね。初めて訪れた場所の匂いに敏感だったりして、そういう感性が、自分の心の動いていなかった部分に触れることがありました。それまでもエッセイは書かれていましたよね?

加藤:雑誌のコラムやブログは書いていました。でも、タレントということもあって書けないこともあるし、自分の体験を面白おかしく書いているとだんだん自虐的になってきちゃって。自分で自分のことを馬鹿にしているようで、傷ついてしまうんです。こういう書き方を続けていたら、いつか自分が駄目になると思いました。それで、事務所にエッセイではなくフィクションにしたいと言って、小説を書き始めたんです。
 今回の旅のエッセイは、小説を書き始めて数年経ってからの連載開始だったので、気持ちに余裕が出てきた頃だったんだと思います。旅ならその体験をそのまま書けばいいし、そこで感じたことを一人の人間として書いても誰も傷つけないから書けるだろうし。それに、書いてみて実感したのですが、記録として機能する場所があるのはすごくよかったです。

辻村:その時々に考えたことも丁寧に書かれていますよね。テレビ番組のロケで、不登校の子に「学校にいったほうがいいですか」と訊かれて、一瞬で返さないといけなかったエピソードが印象的でした。私も不登校の子を主人公にした小説(『かがみの孤城』)を書いてから、「子どもの不登校をどうしたらいいですか」という質問をよく受けるんです。答えが見つからないから小説を書いたともいえるんですが、加藤さんの答えがすごく誠実で、ああ、これはいい答えだなと思いました。

加藤:そのことについて書いた章は、読み返した時に収録しないほうがいいかなと思ったんです。ああ答えたことに後悔はしていないけれど、自分の中でまだ明確な答えが出せていないというか。本当にそうなのかなって今もぐるぐる考えていて。

辻村:でも私、あのページに付箋を貼りましたよ。その葛藤が伝わってくることも含めて、いい章だと感じました。

加藤:あ、それはよかった。たしかにあの章は反響があって、いろんな人から「よかった」と言われました。まあ、やってよかったと思っています。

「別離」について書くこと

辻村:ふたつの別離の話も書かれていますよね。お祖父さんとの別離と、ジャニー喜多川さんとの別離。

加藤:どちらも最初は、何のために書くのかという迷いはありました。別離を扱うと他の章とはニュアンスが変わってしまうし、人の死を利用して作品にしてしまっている、消費してしまっている気がして。

辻村:読者としては、ああ、こんなに大事なことを読ませてくれるんだなと感激しました。大切な人を亡くした時、その人への思いを言葉に残しておきたい気持ちって多くの人にあると思うんです。なのに、いざ言葉にしようとすると難しいんですよね。加藤さんのこの文章を読んで、自分も書いておこうと思う人もいるんじゃないかな。

加藤:えー、そうですか。祖父のことを書いたのは、祖父が喜ぶだろうな、という思いがありました。以前、ブログに祖父の見舞いに行った話を書いたことがあったんです。それを家族も喜んでくれたし、読んだ人も「泣けた」などと言ってくれて。その後、祖父が亡くなってしまった時、あの時にみんな喜んでくれたし、ちゃんと記録として完結させることが祖父に対する弔いになるだろうと思いました。最終的に家族との繫がりの話になったので、そこまで「寂しい」「悲しい」と訴える内容ではないですし。

辻村:ジャニー喜多川さんが亡くなられた時は、公に向けてコメントを出した後で、ありきたりな謝辞に収めてしまった気がして腑に落ちなかったから、改めて自分の言葉で綴ってみる、ということを前置きとして書かれていますよね。別離という個人的な出来事をこの形で読ませてくれるのか、と胸が震えました。

加藤:亡くなったジャニー喜多川(前)社長のことは、最初はエッセイに書かなくてもいいかなと思ったんです。でもジャニーズ事務所に所属していて、書く仕事をしている僕が書かないのも無責任な気がしました。(前)社長はものを作る、言葉にするという姿をずっと見せてくれていたから、それに対して作品で返すのが弔いなのかな、と思って。

辻村:別離を経験すると、その人のことを書いてみたくなるけれど、実際に書くまでのハードルは高い。言語化できないことはあるし、言語化していいのか分からないことってあると思うんです。でも、加藤さんのエッセイを読んで、書くことのよさをすごく感じました。読んだ人たちも、別離を経験して自分の中で整理がつかない時に、加藤さんみたいに書いてみたいと思うだろうな、って。

加藤:ああ、本当ですか。

辻村:私は、担当してくれた編集者を亡くしたことがあるんです。その時に、自分に書く場所があってよかったと思いました。彼女から教えてもらったことが自分の小説の中に何かしら残っていきますから。でも、謝辞にお名前を入れるかどうかは迷いました。その人の死を自分に引き寄せて自分の物語にしてしまうことへの罪悪感みたいなものがあるし。

加藤:分かります。

辻村:その怖さが分からないなら書いちゃいけないかなと思うし。

――辻村さんのおっしゃった、亡くなった編集者というのは、『ツナグ』のご担当者の木村由花さんのことですよね。

辻村:そうなんです。『ツナグ』という作品は一晩だけ死者に会わせてくれる歩美という男の子を主人公にしているのですが、『ツナグ』を出した時、インタビューで「辻村さんだったら誰に会いたいですか」と訊かれても「いないです」と答えていたんです。「会いたい死者がいないフラットな状態のうちにこのテーマで書きたかったので」って。でも、続篇を書くという約束をしたのに、それが形になる前に由花さんがお亡くなりになってしまって。いつまでもいてくれるしいつでも会えるということが、いかに当たり前ではないのかを人生で初めて実感しました。その後、続篇の『ツナグ 想い人の心得』を書き上げた時、由花さんに読んでほしいとやはり思ったんですよね。だけど、それでも由花さんのお名前を謝辞に入れるかどうかは悩みました。そういう時に潔く入れられる方もいらっしゃると思うのですが、その強さが自分にないことに凹んだりもして。結局、お名前を出して、〈時間がかかりましたが、約束通り二作目も本になりましたので、いつか、歩美に頼んで渡しに行けたら嬉しいです〉という書き方で入れました。やっぱり続篇を出せたのは由花さんと一緒に小説を作ってきたからだし、続篇を出せていなかったら今もモヤモヤしていたと思います。

加藤:亡くなった方について書く時って、結局自分と向き合わざるを得ないじゃないですか。それを人に読ませるかどうかはすごく悩むんですけれど、今のお話を聞いていても、自分に覚悟があれば書いたほうがいいし、やっぱり書いてよかったという気持ちになりました。

辻村:加藤さんもエッセイに書かれていますが、人の死って、物理的な死と人の記憶から消えてしまう社会的な死がありますよね。その人のことを忘れずにずっと誰かと語らえるということは、遺された人たちにとって支えになると思います。

加藤:ちょっと別の話になりますが、最近、被爆者の方々に体験談を聞く機会があって、やっぱり、体験者がどんどんいなくなっていることが課題になってきているんです。自分がそういう方々にインタビューしているというのは、残す、忘れないということの一端を担っているのかなと思うと、作家としての仕事ってすごく責任重大だな、と。

辻村:そうなんですね。

人間の実像を知っていくミステリー

加藤:辻村さんの『傲慢と善良』が文庫化されましたよね。僕はこれ、恋愛小説であると同時に、ミステリーだと思いました。結婚願望が強くなかったもうすぐ四十歳になる架という男性が、婚活アプリで出会った真実という女性とつきあうようになる。真実はストーカーに怯えていたところ、ある日失踪してしまう。架は手がかりを探すために、彼女の実家や友人たちを訪ねていく。そうするうちに、真実について理解を深めていくんですよね。いなくなった一人の人間の実像を知るという点で、宮部みゆきさんの『火車』のようなミステリーですよね。

辻村深月『傲慢と善良』(朝日文庫)

辻村:わあ、『火車』は大好きな作品なので嬉しいです。

加藤:それと、僕は『オルタネート』でマッチングアプリについて書きましたが、辻村さんは僕よりもっと前にこうしたアプリについて書かれていたんだな、とも思いました。オルタネートは遺伝子情報で相手を選ぶアプリですけれど、その診断結果を信じるのか、それとも自分を信じるのかということが書きたかったんです。人を選ぶって難しいですよね。そんなふうに僕が『オルタネート』を書いた時に考えたことと一致しつつも、『傲慢と善良』はより現実的な部分を浮かび上がらせていらっしゃるなと思いました。ただ、僕は、架に共感したんですよ。

辻村:おお(笑)。

加藤:架は仕事もできるし、絶妙にモテるタイプなので、共感したって言いにくいんですが(笑)。ただ、真実に対して、もっとちゃんと架と向き合って、話をしてくれればよかったのに、と思うんです。いきなりあんなことをされると、男は辛いんだよ、と。

辻村:男性の「言ってくれなきゃわからない」と、女性の「言わなくてもわかってほしい」のすれ違いの話でもありますよね。この小説は連載中、担当していた女性が途中で産休に入って、男性担当者に替わったんですよ。そうしたら、それまで女子目線で見ていたのではない世界が広がったんです。真実に対しての感想も全然違って、ものすごく甘かったり辛辣だったり、あれは面白かった。

加藤:僕も真実に対しては苛立ちました(笑)。
 彼女は架と向き合わないのに、架の女友達が言うことに左右されていたりするじゃないですか。まあ架も、自分の女友達が勝手に真実を評価するのに、強く反論しないんですよね。僕だったら、女友達に何か言われても「いや、それは違うよ」って返すと思うんです。架は言い返しきれていないのはどうかと思いますが。

辻村:架の女友達が開いた女子会の場面は、自分でも書きながら怖いと思いました(笑)。

加藤:僕は中学から私立の共学で、同級生の男女みんなすごく仲がいいんです。時間が経つうちに、学生時代はそれほど仲良くなかった女性同士が親友になるなど人間関係も変わっていたりする。人って変化するものだから、他人を「この子はこういう人間だ」と断定しちゃ駄目だと思うんです。

辻村:架の女友達のように、仲間の誰かの恋人を陰で評価する光景って、よく見かけるんです。友達の結婚式の帰り道とか(笑)。

加藤:男性同士でもありますよ。僕らも友達の彼女について話題にしたりしますから。

辻村:男子同士でもそういうことがあるんですねえ。

加藤:そこは男も一緒です。

辻村:ふふふ。私はジェーン・オースティンの『高慢と偏見』が好きなんですが、あの小説は高慢と偏見が男女のすれ違いを生む話ですよね。現代において何がすれ違いを生むのか考えた時、「傲慢」と「善良」だなと思ったんです。

加藤:読者は最初、架が「傲慢」で真実が「善良」だと思う。でも少しずつ、架にも真実にも、傲慢な部分と善良な部分があると分かってきますね。

辻村:そうなんです。作中に「自己評価が低いのに自己愛は強い」という趣旨の言葉を書きましたが、プライドが低いところとプライドが高いところって、一人の人間の中に矛盾なく存在しているんだろうなと思います。

加藤:そう、グラデーションがあるのが人間なんだなと、改めて分かりました。

辻村:それと、架がなぜモテるかというと、鈍感だからなんですよね。いい人と言われモテてきたから、他人の複雑な機微に気づかずに生きていけている。

加藤:そうですね、鈍感ってそういう意味で強いですよね。

辻村:私、加藤さんが「anan」で連載していた「ミアキス・シンフォニー」の達彦さんがすごく好きなんですが、あの人も鈍感でいい人じゃないですか?

加藤:ああー。そうかもしれません。

辻村:こういうタイプって多いと思うんです。インタビューで「『傲慢と善良』で鈍感な男性が多く出てくるのはどうしてですか」と訊かれたことがありますが、あえて多くしたわけではなくて、いろんなタイプの人を書いていたら、わりとみんな共通点として鈍感ないい人という特徴があるなって気づきました。

加藤:男はだいたい鈍感だという……(笑)。

辻村:架の場合、以前本命に振られたことがあるんですよね。「あの子を逃した後に選ぶんだから、よっぽどの子でないと」というような気持ちが本人にも周囲にもある。だからなかなか選べないし決断できない。そもそも、婚活に限らず、誰かを選んだり、誰かと誰かを比べる行為ってしんどいなと思っていて。架も、しんどいから、選べるのに選ばないところがあるんです。

加藤:だから、真実を選んで付き合っていたのに、結婚するかどうかの選択は先延ばしにしてきたという。

辻村:そもそも、「人を選ぶ」ことを強いられる状況って、あまりないですよね。でも、婚活アプリでは相手が陳列されているように見えるし、あっちを見たりこっちを見たりして人を選ばざるをえなくなる。

加藤:僕、今日の対談に備えて、マッチングアプリで結婚した知り合いに「何人と会った?」って訊いたんですよ。そうしたら「五十人とか。でも別に多いほうじゃないよ」って。その中でよく相手を選んだなと思いました。まあ、離婚経験のある知り合いなので、いろいろ経験で思うところがあったのかもしれないけれど。

辻村:『オルタネート』のマッチングアプリのように遺伝子情報で相性診断してくれる高校生限定のアプリだと、相性がいいという結果が出るとその相手を選びたいって気持ちになりそうですよね。あの小説で、診断結果が実は間違いでした、と分かる子のエピソードがすごく好きでした(笑)。

――加藤さんは、架の、選べるのに選ばない気持ちが分かりますか?

加藤:いや、僕の中に人を「選ぶ」っていう選択肢が存在したことは、今まではないです。好きになったら好きになるのであって、選んで「あの子を好きになろう」じゃないですから。だから「選ぶ」って感覚は、人生ではないですよね。
 婚活をしている人たちの場合、結婚を意識しているから、経済力とか社会性といった条件を考えて選ぶか選ばないか迷うんでしょうね。本来の恋愛はそういうところからのスタートではなくて、好きになっちゃうのが先でそこから未来を見る。でも婚活って、未来から逆算して相手を選ぶことになるわけじゃないですか。

辻村:ああ、そうですよね。

加藤:でも、相手の条件がよくても思い描いた通りの未来になるとは限らない。それを選択するのって、むちゃくちゃ怖いですよね。

辻村:未来から逆算する場合、まず、何が幸せと呼べる状態なのかを見極めなきゃいけない。自分にとって結婚することが幸せか分からない中で、世の中の「結婚=幸せ」みたいな価値観を選ぶかどうか。そこからもう選択が始まっているわけです。

加藤:架と真実の場合もそうですよね。最終的に何が彼らにとっての幸せか、どういう選択をするのか、まったく先が読めませんでした。辻村さんは、最初からああいう終盤の展開を考えていたんですか。
辻村:いえ、最後どうなるかは決めずに書いていました。これ、週刊誌連載だったので、先が分からないまま勢いで書いていて。それで疾走感が出たかなと思っています。

加藤:読みながらものすごい臨場感だと思っていたので、週刊誌連載だと聞いて納得するところがあります。

辻村:自分でも予想外のところで、「あ、この場面が書きたくてこの小説を書いていたのかも」みたいなこともありました。架がショッピングモールで家族連れを見ながら泣くシーンがまさにそうで、これが書けただけでも、この小説に取り組んでよかったと思えました。

加藤:それにしても、恋愛小説というと二人が出会って恋が始まって……という展開のイメージがあるけれど、まったくそうではないこのアプローチが、本当に面白かったです。

辻村:私の場合、恋愛の素の気持ちを書くというよりも、「今は恋愛においてこれが幸せだとする価値観がある社会だ」という背景ありきで書くことが多くて。いつか、そこの部分を取り払ったものを書いてみたいです。『オルタネート』の料理大会に出る二人の恋がどうなるかなんてすごくピュアで、最後には涙しながら読みました。ああいう、相手が好きっていう気持ちだけで動く恋愛小説にすごく憧れる。

加藤:僕も書く気がなかったんですけれど、三十代半ばになった時、高校生の恋愛を書くなら今が最後かなという気持ちがあったんです。今のうちに超イノセントなものを頑張って書いてみよう、と。現実の高校生たちが共感できるようなイノセントなものを描きつつ、オルタネートというアプリについて書こうと思っていました。僕は、恋愛小説でも『傲慢と善良』のようなミステリー要素を入れたアプローチもあるんだということが発見でしたよ。

辻村:テーマが社会的なことと結びついているものを書く時こそ、エンタメにしたい気持ちが強くなるんです。やっぱり自分がいろいろ読んできたミステリー、それこそさきほどの『火車』も続きが気になって読み進めるうち、最後にはカード破産について詳しくなっていますよね(笑)。松本清張のミステリーも、謎に引きつけられて読んでいくと、最後になんらかの社会問題や時代背景についての認識ができていたりする。そういう小説に育ててもらってきたので、自分が書く際もそうしたことを考えます。
 それに、テーマだけで他の要素がないと、危険な気がするんです。そのテーマを伝えるためのプロットみたいな小説になってしまいそうで。そうした危険性がある時に、冒頭に謎を置きたくなります。

加藤:謎があるからこそ、先が気になりますよね。連載時に読んでいた人は、次の週が待ち遠しかっただろうなと思います。

原稿との向き合い方

辻村:私はデビューした最初の頃、毎回書き下ろしだけを書いていたんです。途中で連載を何本か並行して書くようになった時に、「ひとつの作品にもっと手をかけたい」という気持ちになったりしました。加藤さんの場合、芸能界のお仕事と並行しながら小説を書くってどういう感じですか。

加藤:僕はつねに違う仕事と並行しているからこそ、凝り固まらずにいられます。どうしても書けなくなった時、他の仕事で人と会って関係ない話をしているうちに、ポーンと「あ、あの部分はこうやって書けばいいのか」って気づくことが結構あります。小説の連載を並行するのは……無理(笑)。最近は連載するにしても、連作短篇の形にして、次の話が浮かんだら書く、みたいな不定期な形にしていました。
 やっぱり自分にとっては書き下ろしがいいんですよね。でも、大沢在昌さんに「連載してからが作家だ」「締切に追われてない作家は駄目だ」って言われちゃいました(笑)。

辻村:私も書き下ろしが自分に合っていると思うんですけれど、書き下ろしって明確な締切があるわけではないので、つい連載の仕事を優先してしまうんですよ。それで、なかなか書かないという(笑)。

――おふたりとも、文庫化に際して加筆修正はどれくらいされたのですか。

辻村:『傲慢と善良』は整えた程度です。

加藤:僕も、『できることならスティードで』はそんなに直していないです。単行本にする時にかなり手を入れましたし、エッセイですから、書いた時の熱量が正しく伝わってほしかったので。

辻村:エッセイ集はその時の自分をその時の感情とともにタイムカプセルに閉じ込めるようなものですしね。

加藤: “記録”という意識があったので、これはもう直しようがないなと思って。

辻村:私は、小説の場合は、直したくなることがあります。以前、『太陽の坐る場所』が文庫化される時に読み返したら、三年前に書いたものなのに、小説にこめた自分の怒りの強さに自分で引いたんですよね。もっと冷静になりなよって思って。

加藤:(笑)。

辻村:で、直したくなったんですけど、単行本を読んでこの激しい怒りに共感してくれた人がいたのだから、逆に直せないなと考えてそのまま送り出しました。その経験以降は、文庫もあまり直さないようにしています。それに、その小説のことを一番思っていたのは三年前の自分だから、直したら、たぶん、三年前の自分にすごく怒られるので。

加藤:今、お話をうかがってはっとしました。僕はまだ、小説を文庫化する時はめちゃくちゃ直しているんです。文庫化って、直せるラストチャンスじゃないですか。

辻村:分かります。文庫って最終形というか、一番長く残るし一番広く読まれる形なので、直さずに手放していいのかという気持ちにもなりますよね。

加藤:『チュベローズで待ってる』は文庫化の際にかなり直しました。連載時に設定した近未来と現在が近くなりすぎているということもあったし、この先長く読めるような普遍性を持たせたかったんです。でも、『オルタネート』を文庫化する時はそんなに直さない気がする。あれは連載した時にこれ以上直せないところまで直した実感があるので。しかもそれが話題になったこともあって……。

辻村:直木賞や本屋大賞の候補となり、吉川英治文学新人賞を受賞されましたよね。

加藤:はい。それもあって、直さないほうがいいんだろうな、というのが今の予感。ゲラを読んだら分からないです(笑)。
 僕は『オルタネート』を書くまで、書き方に迷っていたんです。頭の中に書きたいことがあるのに、言語化できないというフラストレーションがあった。それで、とにかく突っ走って強引に持っていく書き方をしていたんだというのを、『チュベローズ~』の文庫化の際にゲラを読み返して実感しました。「ここはこうしたかったんだな、その時はこうすればいいんだよ」という、過去の自分に対して優しい気持ちで直しました(笑)。
 でも、『オルタネート』の時は、ストレスなく、自分の書きたいものが書けた実感がありました。それもあって、直さない気がしています。

デビュー直後とは変化したこと

辻村:加藤さんは作家生活十年目だそうですが、私は十年目の頃というと、書きこみすぎないようになってきた時期ですね。たとえば、それまでは自分の想像した通りのヴィジュアルで読んでほしいからといって、登場人物の外見をすごく説明していました。でも、読者がそれぞれ想像してもらえるように、今は容姿や風景の描写を書きすぎないようになりました。読者の想像力を信頼できるようになったんですね。

加藤:僕も、最近は必要以上の情報は入れないようになりました。リズムのためにあえて入れることはあります。そのリズムの作り方が分かるのに十年かかったということですね。

辻村:デビューしたばかりの頃は、描写以外のエピソードもめちゃくちゃ書き込んでいたんです。編集者さんに「ここは要りません」って言われて「え、なぜ?」って思ったりして。その時に「読者が想像する楽しみも残しましょう」みたいなことを言われたんですね。その時は意味が分からなかったけれど、今はすごく分かります。

加藤:今、僕のことを話されているのかな、という気持ちで聞いていました(笑)。同じようなことが僕にもありました。

辻村:やっぱり、伝えたいことにたどり着くまでにあまりにも枝葉の部分が多いと、どこが幹なのか分からなくなりますよね。でも今でも、読者としては枝葉の部分を読みたくなるんです。加藤さんは、小説に知識を入れるのがお好きなタイプの作家だと思うんですが……。音楽の知識とか。

加藤:ああ、あれはつい……。よくないですよね(苦笑)。

辻村:いえいえ、物語の主軸だけではなくて、そういうものまで読むのが小説だという感覚が私にはあるんです。だから、枝葉まで書きこんでいた昔の自分のほうがむしろ偉い、みたいな気持ちもあるんです。
 たとえば最近出した『嘘つきジェンガ』は詐欺の話が三篇入っているんです。というのも、以前、泥棒や放火など市井の人のいろんな事件を書いた『鍵のない夢を見る』という短篇集を出したことがあって。

加藤:直木賞受賞作ですよね。

辻村:はい。その時に、単行本にする分量の都合で、詐欺事件だけ書かなかったんです。詐欺だけやり残した気持ちがあって、それで今回詐欺を書いたんですね。でも、昔の自分から「ずいぶん優しい詐欺を書くね」って思われそうだなと感じていて(笑)。あの当時の私だったら、もっと救いのない話を書いていた気がします。まあそれでもいいか、その時々なんだろうなとは思うんですが、昔の自分が一番尖っていて、そこからどんどん丸く削られているから、尖り具合に関しては、過去の自分に勝てる気がしない。それが成長ということかもしれないけれど、過去と今でどちらが正しいということでもないのだな、と最近しみじみ感じています。

加藤:その時その時の自分の作家性が、作品に封じ込められるんですよね。

辻村:そうなんです。今、小説の新人賞の選考をする機会が多いのですが、初期衝動の塊みたいな応募原稿がたくさん来るんですよ。人にどう読まれるか考えていなくて、欠点が多くて落とすことになったりするんですけど、そうした作品に対しては愛おしい気持ちになります。新人の頃の原稿って無駄が多いけれど、その無駄の部分が魅力だったりする。だからその部分を大事にしてほしいと、小説を書きたいと思っている人たちには伝えたいです。

加藤:自分も初期衝動は大事だと思っています。そのアイデアをどれくらい書きたいのか、気持ちの度合いで書くかどうかを決めています。二作目くらいまではめっちゃ衝動があったので、自分は今、あの時のような熱量で書けているかなと思う。それで、パソコンに「初期衝動」「熱量」「甘えるな」って、見えるところにいっぱいメモしてみたり(笑)。

――今後どんなものを書いていきたいですか。

辻村:これからも、きっと社会的なテーマのあるものは書いていくと思うんですが、テーマありきのものは書きたくないんです。あらすじを言う時に、「これは◯◯を書いた小説です」って一言で言われてしまうものは書きたくないというか。

加藤:ああ、分かります。

辻村:おかしな言い方かもしれませんが、「◯◯がテーマの小説です」と説明すると取りこぼしているものがある気になる小説が書きたいというか。もちろん、「◯◯について書いた小説です」と謳っている小説も沢山あって、私がそれらを否定的に見ているというわけではないんですが。

加藤:「◯◯がテーマです」と分かりやすく伝えることで読者の食指が動くこともありますからね。いずれにしろ、ちゃんとストーリーの中にテーマを溶け込ませることが大切ですよね。

辻村:そうですよね。これが伝えたいとか、これが結論というものが自分の中でありすぎると、それを主張しようとするだけのつまらない小説になってしまう気がします。私の場合、結論が分からないから小説を書きながら考える、という側面が強いですし。

加藤:小説って、話のプロセスを楽しむ部分もありますよね。起承転結の結よりも承と転が大事だったりする。『オルタネート』の時なんかも、読んでいて面白い瞬間がずっと続くもの、最終的に誰と誰がくっついて誰と誰が別れても面白さは変わらないものにしたかったんです。そういう小説が理想です。思考の流れや人間そのものを描きたいという欲望がだんだん強くなってきました。
 社会的なテーマについては、これまでは自分がそこに挑戦するのはおこがましい気もしていました。震災の時に震災を書けなかったし、コロナ禍についてもすぐ書きたいとは思わなかったし。それに対する答えがまだ出ていないものを書いていいのか悩むんですけれど、でも、だんだんやらなきゃいけないと思うようになりました。それに、それをいい形で書ける方法があるんじゃないかなっていう気になってきているんです。

辻村:書き続ける中で、いろんな方法を見つけていくんだろうなと思います。加藤さんのエッセイで、いろんな学者が大きな発見をしたのは実は二十代が多いという話がありましたよね。あれはすごく分かります。でも、才能って状態な気がしていて。一人の人が常に同じ状態にいるわけではなく、たとえばその人がすごく切れ味を出せる状態の時と、切れ味とはまた別の味を出せる時と、同じ人によっても時によって違う気がします。だから、その時々で違う魅力は絶対に出てくるはず。

加藤:そうですね。大人になって変わっていくのはもう不可逆なものなのですし、作家としては前に進むしかないって、十年経って実感しています。

辻村:私も前に進んでいきたいです。

聞き手・構成/瀧井朝世
(2022年9月 東京・築地にて)

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