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高山羽根子著・単行本『オブジェクタム』小川哲氏による書評「文学の美しさと儚さ」を特別掲載!

 高山羽根子さんの文庫『オブジェクタム/如何様』が刊行されました。単行本『オブジェクタム』と『如何様』を合本した贅沢な一冊となっています。単行本『オブジェクタム』刊行時に「小説トリッパー」2018年秋季号でご執筆くださった作家・小川哲さんの書評を特別掲載いたします。

高山羽根子著『オブジェクタム/如何様』(朝日文庫)

 高山さんがトリッパーで新作を書いたらしいと聞き、手にとってみると「オブジェクタム」というラテン語風の仰々しいタイトルだった。聞いたことのあるような、ないような不思議な言葉だったが、高山さんは美大を出てるから、オブジェとか出てくるのかな、といい加減な気分で読み始めた。そしたら本当にオブジェ的なものが出てきて驚いた。

《オブジェ》とはなんだろうか。もともとは「物体」や「客体」を表すフランス語だったが、シュルレアリスム以降は「非芸術的な物体を利用して制作された美術作品」という意味合いが強くなった。表題作の「オブジェクタム」には数々のオブジェが登場する。

「オブジェクタム」という言葉は「オブジェクト」の語源となったラテン語のようなので、もっと素直に《オブジェクト》つまり「客体」や「客観」という意味で考えると、本作が一人称の小説であるという点が興味深い。普通は「これじゃサブジェクトじゃないか」と突っ込みたくなるが、実はこの作品の地の文に一人称は一切出てこない。そのおかげで、主人公の内面描写もどこか客観的な印象を受けるのだ。

 表題作の「オブジェクタム」は、主人公がある目的を持って帰省するシーンから始まる。いわゆる田舎が舞台というわけでもない。関東だと仮定すれば、神奈川とか埼玉とかのさほど賑やかでない町が舞台だ。本作は、帰省した主人公がその町で過ごした小学校時代の記憶を思い出すという構成になっている。

 その町では『新聞』というカベ新聞が匿名で街中に貼ってある。偶然「カベ新聞」を発行しているのが祖父だと気づいた主人公は、「カベ新聞」を作る祖父の手伝いを始める。その過程で「ハナ」という女の子や、「渋柿」という男と出会う。彼らと過ごした時間の記憶が、鮮明で繊細な細部とともに喚起されていく。主人公の前には真実らしきものがあるが、ちょうど「曲がり角のむこうに消えていくほんのちょっとのしっぽの先」のように、するすると爪の先へ消えていく。

 本作は、《オブジェクト》の作品として読むときと、《オブジェ》の作品として読むときで、まったく異なった様相を見せる、不思議な小説だ。
《オブジェクト》としては、作中で祖父の作っている「カベ新聞」がまさにそうだ。「カベ新聞」は主観を交えず、ただ単にデータを提供する。祖父は「この町のたくさんのデータを集める。単純な数字がつながって関係のある情報になり、集まって、とつぜん知識とか知恵に変わる瞬間がある」と言う。

《オブジェ》として触れなければならないのは、作品の終盤に登場するインスタレーションだが、実はそれだけではない。本作に登場する「お札」も、ある種のオブジェとして考えることができる。「お札」は意味のわからないたくさんの絵が書いてある紙切れにすぎないのに、誰かが決めてそれに「価値がある」ということになっている。

《オブジェクト》と《オブジェ》の二つは、「文学とは何ぞや」という仰々しい問いへの、高山さんなりの答えなんじゃないかと思う。そこには単にデータがあり、とつぜん知識や知恵に変わったりすることもあれば、そうでないこともある。小説なんてインクの染みのついた紙束にすぎないのに、人はそれを面白がったりする。本作の最後に登場するインスタレーションは、この二つの要素が結びついた「理想の文学」みたいなもので、だからこそ、その美しさと儚さに感動する。

『オブジェクタム』には、表題作に加えて「太陽の側の島」と「L.H.O.O.Q.」という二つの作品も併録されている。前者は戦中を舞台にした書簡もので、後者は妻を失った男が犬を逃がすような、逃げた犬を探すような作品だ。本書の中で「太陽の側の島」は唯一リアリズム作品ではないが、物語としてもっとも読みやすく、SF作家としての高山さんの才能がもっとも発揮された作品だと思う。「L.H.O.O.Q.」はマルセル・デュシャンの同名の芸術作品が下敷きになっていることを踏まえて読むと、少しだけ何かがわかったような気になれる(かもしれない)。個人的には「性的に興奮すると妻が光る」という話がなんともふざけていて、面白い。

 どれも毛色の違う作品で、本書に共通するテーマを見つけるのは難しいが、あえて言うなら「何か大きな出来事の周縁にいる人々の話」と雑にまとめることができるかもしれない。「オブジェクタム」では世間を賑わせたある未解決事件が、「太陽の側の島」では第二次世界大戦が、「L.H.O.O.Q.」では安保法案に反対するデモが登場人物たちの横で進行している。だが彼らはそれらの中心にいるわけでもないし、状況を変えようと主体的に動くわけでもない。でも実際には「大きな出来事」なんてそんなもので、文学ではその中心部ばかりがあれこれ描かれるけれど、ほとんどの人にはそれぞれの生活があり、そんなに直接的に対峙することはない。そういった市井の人たちに寄り添って小説が書けるのは、普段から「出来事の周縁」ばかり話して聞き手を唖然とさせる技術に長けた、高山さんならではの才能だと思う。