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「敗者の視点で描かれた残酷な事実の先にある“勝利”」書評家・渡辺祐真さんによる、小川哲『君のクイズ』評論を特別公開!

 発売以来絶好調の小川哲さん『君のクイズ』について、初の単著『物語のカギ』も大きな話題を集める新進気鋭の書評家・文筆家の渡辺祐真さんが「小説トリッパー」2022年冬季号でご執筆くださった評論を掲載します。

小川哲『君のクイズ』(朝日新聞出版)

 すべての事象は、たとえそれが小さいために自然の偉大な法則の結果であるとは見えないようなものでさえも、太陽の運行と同じく必然的にこの法則から生じている

ラプラス、内井惣七訳『確率の哲学的試論』岩波文庫、1997年

遊びとはなにか? ~ゲームとプレイ~

 遊びとは何だろうか。
 周りを見渡せば、子どものごっこ遊びから、スポーツやスマホゲーム、そしてクイズに至るまで、数えきれないほどの遊びやゲームに我々は囲まれている。有名な哲学者の言葉を持ち出すまでもなく、人間は遊ぶ生き物と言っていい。
 文化人類学者のデヴィッド・グレーバーは、「ゲームとは純粋に規則に支配された行為」だと述べた。[注1]遊びやゲームには厳格なルールが定められている。将棋なら駒の動かし方や勝敗の決め方、スポーツなら使っていい身体の部位や得点の加算方法など、それぞれの種目を成り立たせている決まりのことだ。人々はルールを把握して、ルールの中で行動し、勝敗を決する。グレーバーはそうしたルールに厳格に従う遊びを「ゲーム」と名付けた。
 だが、この「ゲーム」は遊びの一側面に過ぎない。というのも、遊びにおいてルールが常に順守されるとは限らないからだ。ゲームが行き詰まったり、積極的に探究されたりするときには、ルールが見直されたり、揺さぶられたりすることがある。例えば、友人たちとトランプゲームに興じているところを想像してほしい。はじめは既存のルールに従っているだけだが、慣れてきたり飽きてきたりすると、誰かが「こんなルールを追加しよう」「このルールを変更しよう」と言い出す。すると、既存のルールに従うだけではなく、ルールに関する議論、改定が行われることになる。こうしたルールに対する揺さぶりを、グレーバーは「プレイ」と呼んだ。
 まとめると、遊びとは、ゲームとプレイという二つの側面から成り立つ。既存のルールに従う「ゲーム」は、一切の例外を許さず、厳密な手続きに則ることを強制する。これは、ゲームをゲームとして成立させるためのものだ。その一方で、既存のルールを揺さぶる「プレイ」は、新しい未来を切り拓く可能性に満ちている。将棋やスポーツの例を出すまでもなく、永遠にルールが変わらないゲームなどほとんどない。常に時代の流れを汲み取り、変革がなされてきたからこそ、様々な遊びは生き続けているのだ。
 こうしたゲームとプレイの対比は、現実世界に応用できるように思う。例えば、社会にはその時代や地域ごとに、ある程度のルールや常識が存在する。それは確かに窮屈だが、人は完全に自由ではいられないため、ある程度は従わざるを得ない。だが、多くの人々がただルールを墨守するだけなのに対して、時代を新たに切り拓くような人物はそうしたルールを巧みに乗りこなし、社会にイノベーションを巻き起こす。前者はゲーム的な態度、後者はプレイ的な態度と言えよう。
 このような対比は一見すると、前者が愚かで、後者が聡明と考えることもできる。確かに、時代の波を読み、乗りこなす者に富や名声が集まってしまうことが多く、真面目に頑張っている者ほど報われないのが現状だ。だが、ルールに愚直に従うことについて、真面目が一番などと奨励する向きがあるのも事実だし、何よりも彼らが必ずしも劣っているわけでもあるまい。反対に、時代を変革しようとする者たちの中には、道義的には汚い手を使っている者や、その評価が短期的に終わる場合も珍しくない。そのように、現実は勝者と敗者に明確に分けられるわけでもないのにもかかわらず、人は目立つ者に光を当ててしまいがちだ。
 真面目で報われない「ゲーム」。華々しく、時に狡猾に時代を創る「プレイ」。この相克をダイナミックに描けるのが小川哲という作家である。時代の要請や枠に従いつづける人々と、その一方でそうした枷を逆手にとって時代を泳ぎ切る人物とを描き、激動の時代を活写する。今回取り上げる『君のクイズ』も、クイズという遊びを題材に、社会に対する態度、そしてそれに対する観衆の毀誉褒貶を描いている。

小川哲とはいかなる作家か

 本論に入る前に、小川哲について簡単に紹介したい。2015年に刊行されたデビュー作で、近未来の北米の管理社会を描いたディストピア小説『ユートロニカのこちら側』はハヤカワSFコンテストの大賞受賞。2017年、第2作目となる、ポル・ポト政権下の現代カンボジア史を扱ったSF作品『ゲームの王国』は、日本SF大賞、山本周五郎賞を受賞し、吉川英治文学新人賞の候補にもなった。2020年には初の短編集『嘘と正典』を刊行し、直木三十五賞にノミネートされた。そして、2022年、近代の満州を舞台にした『地図と拳』を上梓。同作が山田風太郎賞に輝いたことは記憶に新しい。
 そして、『地図と拳』に遅れること数か月、『君のクイズ』が刊行された。推薦コメントは、伊坂幸太郎、佐久間宣行など、錚々たる顔ぶれが並び、その評価の高さが窺える。
 だが、この作品はいったいなんなのだろうか。小川作品を前にすると、いつもその迫力と面白さ、めまぐるしく越境するジャンルに圧倒され、批評めいた言葉など出てこなくなるが、とりわけ『君のクイズ』はそのスピード感、謎解きの鮮やかさ、競技クイズという文化への造詣の深さなどが見事に織りあげられ、読む者を圧倒する。
 本稿はこの『君のクイズ』を読み解いていきたいと思う。なお、先にお断りしておくと、作品の核心にも触れる。本作は謎解きも一つの重要な要素なので、ネタバレを嫌う方はぜひ先に作品を読了していただきたい。

『君のクイズ』とは、どんな物語か

 主人公は、小さな医療系の出版社に勤めながら、クイズプレイヤーとして活躍する三島玲央。年齢は二十代半ばだ。物語は、彼がテレビのクイズ大会『Q―1グランプリ』(以下、『Q―1』)の決勝戦の舞台に立っているところから始まる。
 対戦相手は本庄絆。東大医学部の四年生で、その膨大な知識量や当意即妙な受け答え、整ったルックスから、クイズ番組で人気に火がつき、一躍時の人となった人気者である。
 先に七問正解したほうが勝利するというルールの中、双方が六問ずつ正解。いよいよ雌雄を決する最後の問題を読み上げようと、アナウンサーが「問題」とコールしたその瞬間。
 なんと絆の回答ボタンが光る。
 プレッシャーからの押し間違い……。誰しもがそう思った。だが……。
「ママ.クリーニング小野寺よ」
 絆は明瞭な声で解答した。玲央、観客やスタッフたちに困惑が走る。その一瞬の後、大きな正解音が響いた。そう、絆は問題文を一文字も聞かずに、正解したのだ。歓声と混乱の中、絆の優勝が決定。彼には賞金の一千万円が授与され、番組は幕を閉じた。
 しかし、玲央や他の出場者たちは当然納得できない。一文字も読まれていない問題に正解できるなど、何らかの不正があったとしか考えられないからだ。出場者たち、そしてSNS上の視聴者たちを巻き込んで、大きな騒動が巻き起こる。絆のファンたちは、絆が不正などするはずがない、絆レベルのプレイヤーになればゼロ文字でも解答できると主張し、その一方でクイズプレイヤーたちはヤラセを糾弾し、絆を擁護する人々に反発した。
 様々な意見が飛び交う中、渦中にいた玲央は、絆にまつわる過去の映像や情報などをもとに、『Q―1』の映像を徹底的に検証することで、不正があったのか、あるいは絆がなぜ一文字も読まれていない問題に正解できたのかについて謎を追っていく……。
 以上が『君のクイズ』の大枠だ。

クイズは人生の写し鏡か

『Q―1』のクイズを振り返っていく過程で、玲央自身の人生、そして絆の人生が浮き彫りにされていく様は、探偵小説のようでもあり、ドキュメンタリーのようでもあり、実にスリリングで面白い。
 例えば、第一問は、ある深夜ラジオが答えとなる問題。その問題を振り返る過程で、兄がその番組を聴いていたこと、自分も「深夜」に関するクイズを作って学生の頃に聴いたことなど、問題にまつわる玲央の記憶が次々と蘇る。森羅万象について問われるクイズだが、玲央にとってクイズとは無機質な言葉の応答ではなく、自分の人生と強く結びついたものだったのだ。彼はそうした態度を次のように述べている。

 クイズに答えているとき、自分という金網を使って、世界をすくいあげているような気分になることがある。僕たちが生きるということは、金網を大きく、目を細かくしていくことだ。今まで気づかなかった世界の豊かさに気がつくようになり、僕たちは戦慄する。戦慄の数が、クイズの強さになる。

 こうした自身のクイズへの思いについて、玲央は、絆も同じような思いなのではないかと想像する。つまり、絆が正解できたことも、ひいてはゼロ文字解答ができたことも、過去の体験のような何らかの必然性があるのではないかと考えたのだ。彼は手に入れた資料や絆の親族などへの聞き取りを頼りに、絆の人生に迫る。玲央は、自身のクイズに対する思いを、絆も持っているに違いないと、自身を絆に投影しているのだ。

「阿吽の呼吸」の網の目を描いた物語

「投影」は、『君のクイズ』の重要なキーワードだ。そのことを説明するために、なぜ小川が本作を書いたかについて述べた文章を紹介する。
 本作品を発表する二年前、「ユリイカ」のクイズ特集号に寄稿した文章で、しばらく前からクイズにハマっていることを告白した上で、次のようなことを述べている。[注2]

 僕はいつか、「競技クイズ」の小説を書きたいと思っている。それは、かつて僕が人文学的な「阿吽の呼吸」に疑問を持った日々を振り返ることでもある。(中略)僕にとって「競技クイズ」について考えることは、ある意味で人間の知のあり方について考えることでもあるのだ。

 既に小川は、競技クイズに関する小説を書くことを決めていたことが読み取れる。では、ここで言われている「阿吽の呼吸」とは何か、もう少し見てみよう。

 読者の頭の中に世界を立ち上げるとき、さまざまな「阿吽の呼吸」を利用している。たとえば「豊洲のタワーマンションに住む妻子持ちの商社マン」という文字列で、ある種の人間を伝えたりする。文学とは、こういった「阿吽の呼吸」と、「阿吽の呼吸に対する疑義」の攻防から生まれるものだと僕は信じている。

 つまり、ある単語から連想されるような定型やお約束のようなものだ。一般的な言葉にするなら、「ステレオタイプ」と言い換えてもいい。こういうタイプの人はこういう特質を持っているはずだという決めつけのことである。
 現実世界を生きる上で、我々はそうした「阿吽の呼吸」に多かれ少なかれ頼っているし、同時にそれらを過信する怖さもよく知っている。それでも、我々は「阿吽の呼吸」を持つことをやめられないし、他者から向けられる阿吽の呼吸に対しても無自覚ではいられない。

『君のクイズ』には、他者に対する勝手な阿吽の呼吸(イメージの投影、その内面化)が描かれる。玲央が絆に対して行った投影も、クイズプレイヤーとしての阿吽の呼吸を無意識に向けていたからだろう。
 玲央のこうした投影は、彼が日頃から他者を意識していることと無関係ではない。玲央が、他者から自らに向けられる阿吽の呼吸を敏感に感じ取る描写が、何度も現れる。例えば、『Q―1』に不正があったのではないかと他の出演者たちが不満そうにしていれば、「なるべく不満そうな顔をした。そうするのが正しい」と考える。不正があったのではないかと疑うクイズプレイヤーの富塚に対して疑義を述べるときには、「富塚さんが、そして何より僕自身が求めている答えでないことを自覚しながら、それでも正直に答えた。」と、相手が求める答えを慮る。更には、『Q―1』放送後の騒動の中でも、他の出演者たちがSNSで意見を表明しては叩かれていた中で、玲央は「『Q―1グランプリ』と本庄絆という巨悪を前にして、僕は正当な権利を奪われた聖人でなければならない」と考え、静観を貫く。
 以上のように、彼は自分がどうしたいかよりも、他者がどうしてほしいと思っているかを常に気にしており、そこには彼なりの臆病と打算とが見え隠れする。これは彼が他者から向けられた三島玲央という像の阿吽の呼吸を強く意識しているからだと言えよう。
 そうした玲央の行動に対して、様々な意味付けや投影(新たなる阿吽の呼吸の創出)を勝手に行うのが、SNSにいる観衆たちだ。玲央も不正に加担していたのではないかなどという心無い声を上げたかと思えば、騒動に対して沈黙を貫く態度を好意的に解釈し、玲央と絆が互いを認め合ったライバル関係だとか、「小さいころからクイズのために生きてきて、そのための努力を惜しまなかったキャラクター」などと、主に絆のファンたちは玲央を理想化していく。
 玲央はこうした人々の態度に対して「テレビで僕のことを少し見ただけで、どうしてそんなに決めつけるのだろう」と不快感を露にしている。

玲央の誤算と結末

 ところが皮肉にも、そうした決めつけを玲央自身も行っていたことが明らかになるのである。彼は『Q―1』の分析を通して、絆のゼロ文字解答の真実に辿り着く。簡単に言えば、玲央も絆も、自分の過去の体験を通してクイズに答えていたのではなく、事実はその反対で、出題者側が玲央と絆が解答できそうな問題を用意していたのだった。
 玲央はその真実に辿り着いたとき、絆も同じように、『Q―1』の最中にそうした出題傾向に気が付き、その結果、最終問題を予測したのではないかと閃いた。さっそく、玲央は絆にその事実を突き止めたこと、絆もそのことに気づいていたのではないかとメールを送ると、それまで沈黙を貫いていた絆から会いたいと返事が来たのだ。
 クイズを通して自らの人生を回想したように、絆の人生を辿り、絆を理解したと考えた玲央は、ついに絆と対面を果たす。きっと絆は自分と同じようにクイズを愛しており、「彼なりに反省している」に違いない、そんな期待を抱いていた。
 ところが、玲央の絆に対する予想はあっさりと裏切られることになる。彼は反省などしていなかったどころか、全てが策略の内だった。彼はクイズ番組で大きな注目を浴びることを、新たに開設するオンラインサロンとYouTubeチャンネルの集客に利用したのだ。悪びれもせず、その事実を告げると、玲央に対して一緒にその真実を暴露する動画を撮らないか、大きな話題になると持ちかける。絆は、玲央のようにこれからもクイズに身を投じていこうとは思っておらず、クイズを利用したに過ぎなかったのだ。
 玲央は自分の読みが浅はかだったことを深く反省する。「僕は自分にがっかりした。僕だって、本庄絆のファンと変わらないのかもしれない。(中略)(※自分が見ていたのは)僕が勝手に作りあげた「本庄絆」という偶像にすぎなかった」と。そして、自らの弱さに向き合ったことで、「前より少しだけ、強くなったような気がする。」と述べ、翌週に迫った別のクイズ大会に向けて、再びまい進するのであった。

玲央が絆に勝っていたもの

 以上が『君のクイズ』という作品である。
 玲央は確かに『Q―1』では敗北を喫したが、この経験を通して彼はクイズプレイヤーとして更なる高みを目指せるようになるだろう。
 その大きな理由の一つに、玲央と絆のクイズに対する向き合い方の違いがある。
 絆は広辞苑や様々な情報を丸暗記し、出題傾向や出場者を分析したことで、『Q―1』での勝利を収めた。その一方で、玲央は「「記憶力がいい」と自分で思ったことは一度もない」と述べている通り、少なくとも絆に比べれば記憶力は劣っているのかもしれない。だが、彼は一つ一つの知識を、単なる言葉としてではなく、かけがえのない自分だけの経験として蓄積してきた。
 クイズという「ゲーム」の場では絆に軍配が上がったが、彼のような即物的な知識には大きな限界がある。批評家の東浩紀が教養について語った言葉が示唆的である。[注3]

 今、教養を身につけろ、学びが大切だと言っているひとたちのなかには、単にイントロ当てクイズを薦めているひとがいると思います。大事なのは音楽を聴く生活のはずなのに、イントロを聞いたらすぐ曲がわかるような知識の鍛え方をしていて、それが教養だと思っている。そうではなくて、音楽のある生活を送るのが、教養があるということなんです。

 ここで東が述べている即物的な知識は、正に「阿吽の呼吸」のことであり、絆の知識について玲央が「彼の頭の中には世界そのものが存在していて、検索をかけるだけで簡単に答えが出る」と表した言葉に近い。
 だが、玲央は違う。正に「音楽のある生活を送る」ように、ラジオ番組の名前を兄との思い出の中で覚えていたり、言葉でしか知らなかった知識を恋人との交際の中で体験したりと、彼の知識の多くは人生と結びついていた。
 もちろん絆にもそうした経験はあるはずだ。だが、絆はそうした経験すらもパフォーマンスとして利用したり、改変したりしようとした。彼にとっての経験は、知識と結びつくものではなく、ビジネスに直結するものなのだ。
 このような知識との向き合い方が、すぐに有意な差となって現れるとは考えにくいが、長い目で見れば間違いなく大きな差となって現れる。断片的な知識を得て、器用に生き続けた絆と、不器用で愚直だが手触りのある生きた経験を積み重ねた玲央。
 玲央がこれまで得てきて、そしてこれから得るものの大きさは、金銭などでは計れない大きなもののはずだろう。

玲央は報われたのか?

 以上見てきたように、『君のクイズ』とは、ひたむきにクイズに向き合ってきた玲央が、「ズルをした」絆に敗北しながらも、人生や知識に対する向き合い方に気が付けた物語……。それは正しい読みだろう。
 だが、それだけでは素直すぎる読みではないかと私は考える。ここからは本作が持つ残酷な側面に焦点を当てたい。
 それは、この時点での玲央の敗北が圧倒的で、しかも正当だったこと、そして玲央がその敗北を受けいれきれていない点である。
 まず、玲央の敗北について。彼は二重の意味で負けている。まず、『Q―1』という競技における純粋な敗北だ。絆が出題傾向を予測できたこと、個々の問題で先に解答できたこと、これらは純粋なクイズプレイヤーとしての実力である。前者のようなメタな視点を、玲央は忌避するが、現実において、クイズプレイヤーが出場するクイズ大会やテレビ番組の傾向を読んで解答することは、決して珍しいものではない。[注4]そして、その出題傾向が分かったところで、出題される個々の問題まで分かるはずがないのだから、きちんとした実力があったことは疑いようがない。つまり、接戦とはいえ、玲央は絆に真っ当に敗北したのだ。
 そして彼は、絆のゼロ文字解答を暴く探偵としても敗北している。これが王道のミステリーなら、玲央が積み上げた推論は、絆を糾弾するはずである。ちょうど探偵が確たる推論によって犯人を暴き、警察に突き出すようなものだ。ところが、絆は不正をしていないどころか、自らの手の内を明かすような動画を一緒に撮影しないかと持ちかけてくる。つまり、彼にとってはこの推理が公開されることにメリットはあっても、デメリットはない。真実を突き止めた玲央にとっては、これ以上ないほどの敗北だ。
 もちろん、これだけ敗北しても、その後の反省が徹底されればいい。だが、絆の戦法が明らかになった後、彼は絆に学んで、次のクイズ大会でメタな視点を使おうとするどころか、「作問者が誰で、どういう問題を出すのだろうか、という思考が少しだけチラつく。僕はその思考を追い出そうとする。」と述べ、そうした戦略を放棄しようとしているのだ。先述の通り、そのようなメタな視点は普通に用いられている。したがって、本来であれば、絆の戦略を参考にすればいい。それでこそ、次回以降の試合に活かせることになる。
 玲央の態度は、冒頭に掲げたグレーバーの議論を借りれば、ルールに固執しているゲーム的なものと言えよう。一方で、絆は『Q―1』をプレイしたのだ。『Q―1』のルールを読み切り、勝利条件すら変えた。彼にとって重要なのは、正確に答えることよりも、インパクトを与えることになったのだ(結果として両者は重なったが)。
 この絆の態度について、玲央は自身と対比させながら次のように述べる。

 僕は、僕の信じるクイズをした。正確に、論理的に正解を導きだすクイズをした。
 本庄絆のクイズは、「クイズで生きていく」「クイズで金を稼いでいく」というところに目標が置かれていた。

 冒頭にも述べた通り、現実は残酷だ。愚直に地道に頑張る亀のような人物ではなく、要領よく一足飛びに生きるウサギのような者が勝利することの方が多い。
 小川作品では、こうした残酷さが描かれることが多い。例えば、ゲームとプレイの相克を描いた『ゲームの王国』。カンボジアのある地域の新リーダーに就任したフオンが、地域の皆が守るルールに加えて、更にそのルールにまつわるルールを制定する、というシーンがある。民主的な運営を目指す素晴らしい試みに思われたが、結果として、ルールにまつわるルールを逆手にとられて、彼は失脚することになってしまう。フオンは民主的な共産社会を打ち立てようという理想に燃えてそれらのルールを制定したのだが、実際はその裏をかかれることになるのだ。
 この構図は『君のクイズ』にもそっくりそのまま当てはまる。
 純粋にゲームとしてのクイズに固執する玲央が敗北する一方で、『Q―1』を手段としてプレイした絆のほうが勝利を収める。おそらく絆はこれから(少なくとも当面の間は)、莫大な財産と名声を得ることになるだろう。それは小さな出版社で働き、地道にクイズプレイヤーとして活動する玲央とは比べようもないほどの大きな差になるはずだ。
 真面目や努力が一番と言われながら、その実、ただ愚直に生きていても報われないことが往々にしてある。玲央と絆という二人の人間のクイズとの向き合い方からは、そんな残酷な事実が浮かび上がってくる。

観衆に向けられたクイズ

 では、我々観衆は玲央のような人物を、ただバカ真面目に生きる哀れな存在として切り捨ててよいのだろうか? 皆が絆のように要領よく立ち回ればいいのだろうか? それとも、玲央のような純粋さを憐れみながら、同時に礼賛もすればいいのだろうか。純粋に努力することの素晴らしさを讃える生贄として、まるで絆のネガとして。
 そうした思考を巡らせたとき、この眼差しが、玲央を囲んでいたSNS上の視聴者たちと何ら変わりないことに気が付かなければならない。勝手に考え、勝手な評価を下しているのだ。
 もし玲央が、既に持っていた人生の向き合い方に加えて、新たに手にしたものがあるとすれば、そんなものを弾き返す図太さだ。『君のクイズ』は、最後に玲央の独白によって幕を下ろす。

 頭の中に、「問題――」という声が聞こえる。
「ずばり、クイズとは何でしょう」
 僕はボタンを押して「クイズとは人生である」と答える。
「ピンポン」という音はいつまで経っても鳴らなかったが、正解だという確信があった。百パーセントの確信だった。

 これまでの議論を踏まえれば、最後に正解のベルが鳴らないことには二つの可能性がある。
 一つは、この解答が誤りである可能性。クイズとはそんな純粋な側面だけを持つのではない。絆のように、自らの人生に関わるものだけではなく、出題傾向を分析して、手段として利用する者もいる。つまり、これはあくまで玲央にとっての答えであり、一般的な答えではないから、ベルは鳴らない。
 そして、この「玲央にとっての答え」こそが、もう一つの可能性である。先述の通り、彼は常に他者の眼差しを気にしていた。だが、最後の独白では、彼の主観が奔流することになる。「彼(※絆)はもう、存在しない。」「僕はその思考(※メタな戦略)を」「前より少しだけ、強く。」(括弧内、傍点は引用者による)など、最後の独白は主観が畳みかけられる。それは誰からの期待も内面化せず、明確な根拠もないような、彼のむき出しの信念である。阿吽の呼吸への否定と言い換えてもいい。彼は社会に対してご機嫌を伺うことをやめたのだ。だから、正解のベルは外から鳴らされるものではなく、彼自身が鳴らすものになった。
 これがどのような結果を招くかは分からない。玲央が絆のようなメタな戦略やプレイを否定したことは事実だ。そして、世間は大きな話題を集めた絆に対して熱い視線を注ぎ、絆の引き立て役になった玲央のことを忘れていく可能性も高い。
 だが、玲央は確かな人生観を持っていることに加えて、観衆などを気にしない強い信念を手にしたことで、愚直にクイズに向き合うであろうこともまた事実だ。それに比べれば、絆の器用な生き方は、ただ膨大な知識を詰め込んでいるだけで、短期的なものに終わるかもしれない。
 ならば、一体どちらが真の「勝者」か?
 華々しい表舞台や短いタイムスパンで見た場合の勝者と、日の当たらない場所や長い目で見た場合の勝者とはまるで違う。いや、そもそもますます競争が激しくなっていく世界で、勝者と敗者は簡単に決められないし、そんな二分法自体が誤りなのかもしれない。
 だが、この手のクイズはこれからも、SNS上にうごめく極端な世論を形成しがちな観衆たちに対して、出題されつづけるだろう。そして、その観衆の中には、他ならぬ我々も含まれていることを忘れてはならない。我々は望むと望まざるとにかかわらず、常に社会を構成する一員であり、それは社会への評価を下す解答席に座っていることを意味するからだ。そのときに、変化の激しい時代に目をくらまされて短期的な答えを出してしまうのか。じっくりと自分の人生体験を踏まえ、ノイズに惑わされることなく、答えを出せるのか。その答えの一つを示してくれたのが「敗者」の玲央だ。
『君のクイズ』は、玲央という「敗者」の視点と独白を通して、知識や経験との向き合い方といった個人的な関心から、勝敗を決する社会の在り方、社会に対するゲームとプレイという大きな問題までを広く描いた傑作である。我々が常に直面させられている問題が、ここには息づいている。

【注釈】

[注1]デヴィッド・グレーバー(著)、酒井隆史(訳)『官僚制のユートピア』以文社、2017年。森田真生「遊びをめぐる断章」(「すばる」2022年11月号、集英社)を参考にした。
[注2]小川哲「栄光学園、ハンダノビッチ、そしてロラン・バルト」(「ユリイカ」2022年7月号、青土社)
[注3]「東浩紀と上田洋子に聞く 教養とは何か?②」ミライのアイデア:https://www.mirai-idea.jp/post/genron05
[注4]2020年4月20日の、テレビ朝日系列で放送されたクイズ番組『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』では、「第一回ノー」としか読まれていない問題に対して、クイズプレイヤーの山本祥彰は「レントゲン」と解答し、見事正解した。「第一回ノー」と言われれば、第一回ノーベル賞にまつわる問題(おそらく六部門の受賞者の誰か)であることを想像することは、そこまで難しくない。だが、そこから絞り込むためのヒントが全くない。山本はなぜ解答できたのか。
 ――同じくクイズプレイヤーの田村正資は、そのポイントを「『Qさま!!』という番組への「信頼」」だと分析する。『Qさま!!』はゴールデンタイムの番組であり、多くの視聴者が聞いたこともないような言葉を答えにするとは考えづらい。だから、誰しもが聞いたことのある「レントゲン」が答えに違いないと、山本は確信したのだという。これは正に番組の傾向というメタな視点を活用した正解である。
 ※以上は、田村正資「予感を飼いならす」(「ユリイカ」2020年7月号、青土社)による。

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