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第2回

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 映画の神様がふっと息を吹きかけたかのように、シアターの中の暗闇が晴れていく。天からぶら下がる光の蕾(つぼみ)がその花びらを開くと同時に、赤い座席の上で小さくたたんでいた体にじっくりと血液が巡りはじめる。

 一本の映画を観終わり、シアターの電気が点いたとき、尚吾はいつも、ドラえもんやのび太がタイムスリップをしたあとはこんな感じなんじゃないかな、なんて考える。今ここにある時空とは別の時空に没入していた分の現実が、全身に一気に流れ込んでくる感覚。本来は三で割ることのできない一つの体が、疲労と快感と興奮で、きれいに三等分されているような感覚。体育の授業でマラソンのゴールテープを切ったあのときより、遠足で登山をしたあのときより、いつだって映画を観終えたときのほうが、自分の肉体が何かに達しているような気がする。それは子どものころから変わらない。

「最高」

 隣の座席から、紘の声が聞こえる。

「めっちゃくちゃかっこよかった、最高だわ」

 未(いま)だ背もたれに体を預けたままそう呟(つぶや)く紘の表情を見て、尚吾は何だか誇らしくなる。大学四年生の三月、社会に出る直前のこのタイミングで『門出』の特別上映を行ってくれるなんて、やっぱりここの支配人はわかっている。尚吾は、この映画の存在を教えてくれた祖父の存在まで紘に褒められたような気がして、どんどん嬉しくなる。

「だろ?」

「喫煙所行こ、喫煙所」

 バネのように体を起こすと、紘はその細い体躯(たいく)でするすると座席の間を移動していく。あまりにも軽やかな後ろ姿を見ながら、尚吾は、いつしか紘に見せてもらった、紘の地元の島を囲む海の映像を思い出していた。紘が高校生のころ携帯電話で撮影したというその映像には、透明度の高い海水の中、大きな岩や揺れる海藻を器用に避けながら画面を横切っていく無数の魚たちが映っていた。そんな、スケールの大きな自由さが、紘の背中には宿っているように見える。


「あんなに表情一つで人相変わるの、ほんとすげえよな。やっぱ龍川清之(りゆうかわきよゆき)ってエグいんだな」

 紘は喫煙所に入るなりアイコスをくわえると、目を細め、ガラスの向こう側のロビーを見つめた。紘の視線の先には、B1サイズのポスターいっぱいに拡大されている、日本映画界の大スター・龍川清之の顔面がある。

 日中戦争時の上海を舞台に、日本人兵士と中国の人々との心の交流を描いた映画『門出』は、今は亡き日本映画界の巨匠・行田領(ぎようだりよう)監督と、若くして飛行機事故で亡くなった伝説の映画スター・龍川清之のタッグが楽しめるいくつかの作品の中でも、最高峰の出来だと謳(うた)われている。広島、長崎への原爆投下後、日本へ引き揚げることになった龍川と中国人俳優との別れのシーンはあまりにも有名だ。

「台詞がないシーンでも表情だけであんなに気持ちの変化がわかるっていうのがすごいよな。本物の俳優、って感じ」

 そりゃポスターもあんなデザインにしたくなるわ、と煙を吐く紘の表情は、やっと完成した念願のマイホームでも眺めているかのようだ。

「俳優陣も勿論(もちろん)すごいけど」尚吾は、ポスターの中にある監督名に焦点を合わせる。「その魅力をちゃんと画面で爆発させる監督も、やっぱすごいよな。あんな名演技されたら、演出も編集もひよりそう。何も手加えないほうがいい、とか思うかもしれない、俺だったら」

 尚吾はそう言いながら、実際、紘と二人で作品を撮っていたときはそういう瞬間があったなと思う。

 ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞した『身体』は、自主制作界隈によくいる「演技に興味があります」程度の大学生ではなく、紘が見つけてきたボクサーを主役に据えた。下手に見た目が良くてプライドだけ高い素人よりも、演技に興味がなくても一心不乱に何かに打ち込んでいる人のほうが被写体として美しいような気がする――紘の意見は大当たりで、自らの身体を苛(いじ)め抜き、ただ目の前の敵を倒すことだけを考えて自らの肉体を動かすボクサーの姿は、それだけで大きなスクリーンに堪えうる何かを内包していた。尚吾は、そのボクサーにできるだけ演技をさせないで済むような脚本をどうにか編み出し、撮影したボクサーの姿がフィクションの中にきちんと織り込まれるよう編集を工夫した。そんな作り方をしたのは初めてで、当時は様々な局面でたくさん揉(も)めたが、今となってはそんな日々も貴重な財産だ。

 何より、あの作品のおかげで、自分自身も想像していなかったような門出を迎えられることになったのだ。

「あんな俳優が目の前にいたら、俺、どう撮るかな」

 おもちゃを見つけた子どものような顔で、なんて表現は飽きるほどよく目にするが、ポスターに写る龍川清之を眺める紘を見ていると、その表現が廃(すた)れない理由がよくわかる。尚吾も、そのポスターに視線を戻す。

 ただ、尚吾が見つめているのは龍川の表情ではなく、ポスターの端に記載されているクレジットのほうだった。キャストの名前は勿論、監督、スタッフ、配給会社、その映画を作り上げた様々な人たち、団体の名前がずらりと並んでいる。これから、それらが全くの別世界ではなくなるという事実に、心が震える。

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