見出し画像

誰も責任を取らない世界では「知らない、どうでもいい。ノータッチ」で生きていかなければならないらしい【映画監督・石井裕也連載】

第8回「責任を取る人」

「責任を取る人が少なくなった」

 これは根拠のない僕の主観的な印象でしかないが、ここではそういうものを書いてみようと思う。今の素直な感覚を、忘れないうちに書いておく。

 2011年の東日本大震災、原発事故以降、この国の空気はじわりじわりと薄気味悪いものになっている。これに関しては多くの方々も同じ感覚を抱いていると思う。

 だが、よくよく思い返してみると、それ以前から「悪化」していたという感覚が僕にはある。震災前からかなり嫌な感じがあった。というより、僕の物心がついた1990年代前半から、社会の空気が良くなっているという感覚を得られた記憶が一切ない。社会が悪くなっているということは、すなわち人間自体が悪くなっているということに他ならない。

 ひょっとしたら僕の性格が悲観的なだけかもしれない。でも重ね重ねになるが、ここでは僕の感覚を素直に書くつもりだ。

「責任を取る人が少なくなった」のは、だから震災や原発事故だけが原因ではない。ただ、やはり2011年はもちろんエポックメイキングではあったのだろう。

 特に原発事故だ。あんな大事故が起きても、本当に過失責任を感じている人間がいるとは僕には到底思えないのだ。血の通った後悔、痛みを伴う反省というものは、多分ほとんどなかったのだと思う。

08責任を取る人

 結局どいつだ、誰なのだ。誰が悪いのだ。原発が安全だと根拠のないことを言ってこれまで推進してきた政治家か科学者か経済界の連中か。原発を誘致した住民か、原発のCMを撮った監督か。

 結局、「むにゃっ」として終わった。ただ全てが「むにゃっ」として、それでおしまいになった。全くおしまいになっていないのに、おしまいにされた。

 何だか気持ちの悪い、それでいて言葉にできないような不信感だけが我々に残った。福島第一原発は「アンダーコントロール」らしいが、そんなものを完全に信じている人はまずいないだろう。誰もが心の奥底で疑っているはずだ。

 それでも僕たちは生きていくしかない。決定的な不信感を抱えたまま、でもそれを大々的に言うのは憚られるし、言ってもどうせ無駄だから、そっと静かに生きていく。

 そのための方策として、なるべく物事を考えないようにしよう。都合の悪いことから目を背けよう。見ないようにしよう。それが一番楽だ。悪いのは自分ではない。いや、あいつのほうがよっぽどクソだ。知らない、どうでもいい。ノータッチ。

 どうやら、そうやって生きていかなければいけないらしい。そういう生き方を課せられたのが今の時代。

(連載第15回 AERA 2018年8月20日号)

第7回「顔面」 / はじめに / 第9回「約束」

↓↓↓記事一覧はこちら↓↓↓


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!