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つながる短歌

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千年を経て愛される和歌と近現代の短歌。二首を比較しながら人々の変わらない心持ちや慣習に思いをはせ、三十一文字に詰まった小さくて大きな世界を鑑賞する『つながる短歌100 人々が心を…
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#連載

紫式部と清少納言が詠んだ「夜と友」

 11世紀初めの平安時代中期、王朝文化の盛期を彩る2人。日本文学の物語と随筆の分野を代表する、紫式部と清少納言が、宮仕えの合間の友との交わりを詠んでいます。  紫式部はあるとき、長いこと会っていなかった幼なじみと宮中で行き合います。その女友達も誰かに仕えている身だったのでしょう。彼女は慌ただしく去ってしまいます。本当にその人なのかどうかもわからない短い間のことでした。  その友を、雲に隠れてしまう夜中の月にたとえています。「めぐり逢ひて」という初句がまず人のことを思わせま

石川啄木の「はたらけど」誕生の背景と「ぢつと手を見る」の妙味

 5番目の勅撰集『金葉集』は、白河上皇の命により、1120年代に成立しました。「憂かりける」の歌人・源俊頼がその撰者。和歌に新風を吹き込んだとされていますが、上皇からのダメ出しが何度かあっての完成で、ニューウェーブとはそんなに簡単なものではないようです。 『後拾遺集』までは『古今集』の圧倒的な影響下にあり、いわば地続きでした。しかし、『金葉集』が編纂されたのは50年ほどのブランクののち。院政期がいよいよ最盛期に入る時期と重なる、12世紀のまさにポスト王朝時代なのです。歌集に

岡本太郎の母・かの子が詠んだ「多摩川」 歌と訣別してもなおその根底には歌が

 人間は「どこか」で生まれ、「どこか」に居ながら生きていくもので、土地や場所との結びつきを抜きにして過ごすことはない、と言ってもいいでしょう。その場に居ながらにして世界中とのやり取りが可能な時代に生きる私たちは、しばしばそのことを忘れそうになりますが、この身が「どこか」にあることに変わりはありません。『万葉集』の時代から、歌に地名がさまざまに詠み込まれてきたのは、根源的なことなのです。  歌に詠まれた名所は「歌枕」と呼ばれ、時代を超えて歌い継がれていきます。  歌枕は、都

在原業平の「都鳥」と若山牧水の「白鳥」 旅が育んだ歌の深み

 在原業平の生きた時代は9世紀(生没年825~880)。『古今集』の成立(905年頃)前夜といった感があります。漢詩が優先された時代に、業平は和歌を盛んに詠み、『伊勢物語』では東下り(関東地方への旅)をしています。立身出世に背を向けて都を離れ、仕事とは縁のない漂泊の旅を続けて、さまざまな恋愛経験を積む。ほかの人にはできないようなことができた特別な身分でもあったわけですが、生まれとか立場とかそういうものから自らを遠ざけて、業平は一人の歌詠みであろうとしたのではないかと思えます。

与謝野晶子の真骨頂 「金色のちひさき鳥」で表現する“秋の発見”

 歌の世界では、季節を表す新しい風物は、誰かに見いだされて詠まれ、それに伴って言葉もまた磨かれていきます。 「夕されば」の歌の「門田の稲葉」「蘆のまろ屋」には、“田園の発見”と言ってもいいような新しい感覚が込められています。源経信が、京の西、梅津の里にあった源師賢の山荘を歌人たちと訪れたときに「田家秋風」という題で詠みました。 「夕されば」は、夕方になると、という意味です。秋の夕べがやってくるのを、歌人は感覚を鋭くして待っているようです。  家の門の近くに田んぼがあって

目の病を抱えた三条院と北原白秋が生きる証として残した「月」の歌

 三条院は藤原道長が全盛期を迎えようという時代、1011年に天皇として即位しました。三条の母は藤原兼家の娘・超子。道長は兼家の子、超子は道長の同母のきょうだいですから、道長にとって三条は甥にあたるのです。しかし、兼家はすでに亡くなっており、道長は自らが外祖父として権勢を振るうべく皇太子を立て、三条は在位中、道長にずっと圧迫されていました。  詞書に「例ならずおはしまして」とあり、三条は重い目の病にかかっていたといわれています。三句の「ながらへば」、つまり、もし生きながらえた

「秋ぐさ」で詠む“恋の歌” 花に話しかけ、花の言葉を聞く歌人の想い

 僧正遍照は『古今集』「仮名序(かなじょ)」で、六歌仙(ろっかせん)の一人に挙げられている有名歌人。『古今集』が成立する少し前の九世紀を生きた人で、小野小町との贈答歌もあります。桓武(かんむ)天皇の孫で、良岑宗貞(よしみねのむねさだ)として仁明(にんみょう)天皇に仕え、天皇崩御ののちは僧侶になって確固とした地位を築いたエリート。ですが私はむしろ、出自のよさや安定した身分から自由になり、歌に対する評価にとらわれずにくつろいで詠もうとした歌人、という印象を持っています。  百人

和歌や短歌で詠む「秋」 歌人が表現する“人それぞれの秋”の見事さ

 藤原敏行は平安前期の歌人で、能書家としても知られ、紀貫之と親交があったようです。貫之より年上かと思われますので、歌人としても先輩格であったのかもしれません。「秋きぬと」は、『古今集』「秋歌」の冒頭に、「秋立つ日よめる」として置かれ、その次には貫之の歌があります。  賀茂(かも)川の川辺で貴族たちが遊ぶのにお供して、そこで感じた涼しさを詠んでいます。川を渡る涼しい風にまず注目、その風によって川に波が立ち、 そこから結句「秋は立つ」という言葉を呼び込んで秋の到来(立秋)を告げ

和歌と短歌で詠まれた「黒髪」 与謝野晶子が表現した新しい世界とは

 黒髪は、王朝時代の女性の美の象徴。物語では女性の姿をとらえるときに、歌では心を託すものとして、多彩に表現されてきました。  待賢門院堀河は、院政期(平安時代後期)の女房歌人の一人。百人一首にも入るこの歌は、後朝(きぬぎぬ)の心境を、黒髪の「長さ」と「乱れ」でたどります。  初句「長からむ」が相手の気持ちの定かでないことを心配する気持ちを表し、「黒髪」を縁語(えんご)として下(しも)の句(四句と結句の七・七)を引き出します。歌の意味の中心は下の句なのですが、上(かみ)の句

『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』の立ち読み

■はじめに 百人一首かるたのブームが続いています。人の声を通して読みあげられる「うた」の魅力はまたひとしおですが、その百首が、万葉時代から鎌倉時代前期までのおよそ六百年にわたる歌の連なりだということにも、驚きを覚えます。五・七・五・七・七の「三十一文字」(みそひともじ)は、大和(やまと)言葉にずいぶんと根づいているのだな、と感じ入ってしまいます。  日本では『万葉集』以来、数多(あまた)の「うた(和歌)」が詠まれ、文字のかたちで残されてきました。さらにこのリズムは、近代以降