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和歌や短歌で詠む「秋」 歌人が表現する“人それぞれの秋”の見事さ

 千年を経て愛される和歌と近現代の短歌。二首を比較しながら人々の変わらない心持ちや慣習に思いをはせ、三十一文字に詰まった小さくて大きな世界を鑑賞する『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』(あんの秀子著、朝日新聞出版)。特にガリ版で刷ったイラストは見ごたえ十分です。連載第2回は「秋の訪れ」をお届けします。

 藤原敏行は平安前期の歌人で、能書家としても知られ、紀貫之と親交があったようです。貫之より年上かと思われますので、歌人としても先輩格であったのかもしれません。「秋きぬと」は、『古今集』「秋歌」の冒頭に、「秋立つ日よめる」として置かれ、その次には貫之の歌があります。

河風(かわかぜ)のすゞしくもあるかうちよする
浪(なみ)とともにや秋は立つらむ

『古今集』一七〇

 賀茂(かも)川の川辺で貴族たちが遊ぶのにお供して、そこで感じた涼しさを詠んでいます。川を渡る涼しい風にまず注目、その風によって川に波が立ち、 そこから結句「秋は立つ」という言葉を呼び込んで秋の到来(立秋)を告げる。貫之らしい言葉の技がすぐに読み取れるのですが、敏行の歌には、そのような作為があまりないように思えます。秋が来たとは目にははっきり見えない、けれど風の音で秋だということに気づいたと、感覚の自然な流れに従いながら淡々としている。文脈をたどるだけで、歌の意味がすんなりと入ってきます。三句「見えねども」のあとに、少し間をおいて読んでみてください。目では確かめられなくても、風の音にはっとするのだと、歌人自らがその発見に突き動かされているようです。

「音」は「おとずれ」に通じます。誰かが近づいてくるのを私たちは、相手の声や呼びかけだけでなく、足音、衣ずれ、息づかい、あるいはもっと微細な空気の揺れのようなことで察知します。「風の音」とは耳で聞き取れる聴覚的な現象だけではなく、形容しがたい秋の気配、感触を含んだ言葉なのではないでしょうか。

 長塚節の歌では、「馬追虫(うまおい)」の髭(ひげ)(触角)が歌のはじめにあって、歌人はその小さな虫のかぼそい髭から、秋を感じ取っています。歌人の住む農家の庭先から、窓辺に入ってきたのでしょうか。君はまた来たのかい、今日は秋を連れてきたようだね――。

 髭の「そよろ」というかすかな動きとともに「そよろ」とやってきた秋。結句「想ひ見るべし」で、秋の到来を心の中に見ようではないかと提案し、「そよろ」という擬態語の持つ聴覚的なものから、視覚へと促していきます。「想ひ見る」秋ですから、人それぞれの秋があっていいのです。内面に秋を感じながら、全身を秋に向かって鋭くすることです。

 長塚節の歌では「風」という語は用いられていないのですが、「そよろ」から確かにそれを感じることができます。目に見えるものや耳に聞こえるもの以前に、季節をつかさどるものがある。『古今集』の歌人も近代の写生歌人も、それを「風」としてとらえたのです。




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