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出会えなかった魚の数だけ後悔する人生【毎日note】#71

明日死んでも後悔しないように生きる。これが私の生きる指針だ。だから「いつか」なんてできるだけ言いたくない。「いつか」と思うものは別に本当は望んでなどないのだ。

望むことはできるだけ早く叶える。叶えるための行動だけは起こす。明日死んでも、ここまでやったのだからあとは仕方ない、と思えるように。

今日、沖縄本島北部の大宜味村にある塩屋湾の、山に囲まれたまるで湖畔のように穏やかな夕暮れの海辺で、望む魚は回遊してこず、時折ルアーを投げながら、ただ夕日とさざ波を眺めていた。

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9月末頃から本気で狙い始めたチヌ(クロダイの仲間)とオニヒラアジがなかなか釣れず、ぼんやり海を眺めながら、今年は叶わないのだろうかと考えていた。

沖縄に強い北風と冷たい雨ばかりの本格的な冬が来ると、ルアーで魚は釣れなくなる。それはおそらく年が変わる頃だ。それまでに釣らなければと気持ちが急いている。だから休みの日は一日釣り歩き、時には平日の朝までも時間を割いている。

釣りは道具や技術、知識や観察力も大事だけれど、正直言って運による部分が大きい。相手は自然の生き物だ。釣れた時に、なぜ釣れたかは教えてくれない。目視で魚を確認して狙う時もあるけれど、たいていは水面を見つめながら、本当は目隠しされて釣りをしているようなものだ。魚がいるかもわからない場所でいつもルアーを投げるのだ。

英語を話せるようになりたいとか、組織に属さずにできる仕事を持ちたいとか、そういう夢は、一歩ずつ行動に移すことができる。いったいその一歩が、達成に対してどれほどの前進になっているのかはわからないけれど、進歩を感じながら積み重ねることができる。

けれど魚との出会いは、やはり運によるところが大きい。場所・水温・時間帯・風・潮位・潮流などのいくつもの要素が重なっていつも水辺のコンディションは複雑で、それに加え今沖縄で問題になっている軽石などの不測の出来事も加わる。

軽石が少し先に固まって流れている手前で釣りをしていた時、最初は釣れていたが、軽石が手前に押し寄せて波打ち際を覆ってしまうと、釣れなくなった。けれど、それが軽石のせいなのかは、わかりようがないのだ。

できることをやってそれで明日人生が終わるならそれでもいい。だけど、そうは言っても、私は明日死ぬなら、出会いたかったのに出会えずに終わった魚の数だけ、後悔が残るだろう。

Kindleエッセイ本の上の記事でも書いたように、しないと決めていた後悔を私に教えてくれるのは、いつだって海と、必死に生きる美しい魚たちなのだ。



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