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悩みの異世界転生で物語が生まれる

 日中は完全に春、という陽気になったかと思えば、夜になって急に雪が降ったりしている。もうなにもわからない。こちらなにもわかりまセンターです。お掛けになった電話番号が正しいのかどうかもわかりません。  
 かろうじてわかるのは、蕎麦が美味いということだけ。美味しすぎて最近は蕎麦ばっかり食べている。アダムが思わず食べちゃった知恵の果実というのは、実は蕎麦のことだと思う。蕎麦は果実ではないけれど、果実を果実と呼称する知恵さえなかったとすれば、十分ありえる。アダムは初めて蕎麦を啜った人間なのだ。きっとそうだ。それにしても、この意味のわからない天候もズルズルと続きそうだ。


 先日、演劇を鑑賞しに行った。演劇界隈は特にコロナで大打撃を受けているから、随分久しぶりのイベントだった。まだ完全に事態が収集していない中、なんとか糸口を探り、2日間の公演を走り切ったのはとても素晴らしいことだと思う。お疲れ様でした、と素直に賞賛の言葉を送りたい。本当にお疲れ様でした。
 感染対策の都合上、座席が上下左右確実に1席は空いている環境での観劇だったけど、これがめちゃくちゃ観やすい。左右に人がいないって凄い快適。思わず吹き出すのも、頭抱えるのも自由だ。めちゃ良い。観客動員数のことを考えると申し訳ないが、ずっとこうだったらとさえ思う。

 久しぶりに舞台に魅了されていた時間は、とても楽しかった。作品の出来はさておき、誰かがウンウン言いながら作った物を見るのが堪らなく好きなんだということを再認識できた。僕は生産者の顔が見える農協の野菜をいっぱい食べたいのだ。これが私の文化に対する素直な欲求。そして、食べるからには、私の血となり肉となり、アイデアになって欲しいと願う。僕の脳はタダで僕に作品を観せてはくれないらしい。


 「私は私が一番嫌い」劇中、主人公の女の子は大きな声で言い放った。周りには友だちが3人、親友の女性からは大切な友達だと言われ、恋人の男性からは好きだと言い寄られ、恋人の男友達からは笑顔が可愛いと褒められた。その返答がこれだ。彼女は自分が嫌いだから、みんなの好意に素直に喜べない。「なんでみんな、こんな私のことが好きなの?」と。
 なんとも傲慢な返答だ。彼女はみんなに好きになってもらう権利がないらしい。嫌いになってもらう権利もないだろうに。

 彼女が欲しいのは”理由”なんだ。”なぜ”私のことが好きなのか、という。ただ闇雲に向けられる好意が怖い。なぜなら根本的に自信がないのだから。拒む自信も受け入れる自信もない。上手な訪問販売員はこの心理を逆手にとるのだが、友達連中にそんな技術はない。頼れるのは彼女自身の心だけだった。
 人間が理由を求める時は自信がない時だと相場が決まっている。根拠のない自信がある時に理由なんか要らないはずだ。なんたって理由=自信なんだから。そして理由は「許し」になる。醜い自分を肯定するための。

 人間はなんと自分勝手な生き物だろうか。肉体の外から肯定してもらうだけでは、自分という精神を保つことができない。他の精神が良しと判定しても、自らの精神が良しと判定を下すわけではない。これとそれは別なんだ。私も蕎麦は好きだが、うどんも好きなわけではない。これは…ちょっと違うか…
 でも、この自分で自分を許せないというシステムは、同時に、最終防衛のラインの設定が上手い位置にあるとも受け取れる。最終防衛のラインが他者からの判定に依存するならば、人から悪い評価を受け取った瞬間、精神が粉々になってしまう。これじゃだめだ。自分は自分で律するものだという深層心理が人間にはある。だから人間は一人で悩む。

 まあ、一人で悩むことが正義だとすれば、他人に打ち明けられる悩みなんて大したことないとも捉えられる。観測の仕方で定義なんて間単に変わる。人はそういう流れの中に生きている。物語とは、そういう流れを観客に観せることだ、と僕は思う。流れの中にあるのは、人の意思だったり、感情だったり、”全部”だったりする。
 私たちは悩みながら、悩みと言う名の物語を生み出す。その悩みはまた新たな悩みを生む。それは文章になり世の中に出る(この文章もそう)。そういう流れの中に私たちはいる。流れが物語なら、物語とは人生だ。人生は流れている。多くの悩みとともに。

 あえて、ここでは僕が(観た劇が)提示した問いに答えを出さない。問いといっているのは「私は私のこと嫌いなんだけど、私のこと好きっていうあんたらは何?どういうこと?」という先日観た劇の主人公のやつ。大きい問いはね。
 なんだか。ここで僕が簡単に答えを言ってしまうことは、劇に対する冒涜だと思った。ということで、今日はこの辺で。


またね。

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