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さよなら、おばさん!


これは春の頃のはなし。叔母が亡くなり、わたしたちがふるさとにさよならした顛末です。


ゴールデンウィーク過ぎたら、故郷もすこしは暖かくなるのです。

わたしは神奈川の自宅から、妹は都内からとそれぞれが東京駅へ。

駅では、京都から母と弟が先に着いて待ってました。

わたしたち4人は、昨年暮れに亡くなった母の姉の弔いに向かったのです。

京都の母は高齢でありコロナもさかんだったので、わたしたちは暮れの葬式には出席しませんでした。

暖かくなり青葉が山々を覆う5月に行こう、と決めていた。

その頃には、落ち着いているだろうと。

母に姉妹はひとりだけ。姉は特別なひとでした。


関東から北上し清水トンネルを新潟側に抜けると、山々がぐっと手前に迫って来て圧倒されます。

鮮やかな青葉と濃いダークな緑から成るマダラのパッチ風景に変わるのです。

雪深い土地で、5月なら山々の上の方にはまだ残雪がいっぱいあります。

もう何度もこのトンネルを超えてきたのですが、このトンネルはいつも2つに世界を分ける。

ふるさとに再び帰って来たとからだが言う。懐かしく、深い安堵を覚えます。


実は、わたしの叔母が亡くなるにあたって、かなり苦しい話があったのです。

叔母は、息子とそのお嫁さんに反目していました。

最初はちょっとした言葉のやり取りから始まったでしょう。

「そんなら、わたしゃ、お前たちの用意する食事はとらない!、世話になんかならないっ!」と気丈な叔母はいい、

息子と嫁は、「だったらじぶんで勝手にしろっ!」みたいなことがあったはずです。

叔母は近くの生協から肉やら魚やらを買っては自分で料理したようです。

いえ、年寄りだから、そんなたいしたモノは買わないのです。野菜は自分の畑で作っていました。

嫁さんからは店番に出ることさえ拒否されました。「もう、出ないでっ!」と。

家族団らんには加わらず、ひとりぽつんと叔母は部屋にこもり続けたのです。

それが1年ほど続きました。

最後の頃、弱った叔母はちゃんと食事をしていたのでしょうか?


わたしの母は、姉がみじめに孤立してるんならと京都にこさせようとしました。

その母をみているわたしの弟も、そうだねと叔母を引き取ろうとした。

でも、電話すると叔母は言ったそうです。

「ここはわたしの家だ。わたしゃ、ここを出ない」。

もちろん、世間体もあるだろうし、それに異世界の京都にいっても今更辛いのです。

ちょっとした冗談を言い、たわいもない挨拶を交わす日常がそこにはない。

息子夫婦とのわだかまりから逃れることはできるでしょうが、誰も知り合いはいないのです。

それは思う以上に辛いことなのです。居場所が無くなるのですから。

妹がいるとは言っても、京都に行けば自分の生きて来た世界がげっそり削がれてしまう。

確実に、自分の死に水をとらせてしまう。妹に迷惑はかけれない。

きっと叔母の胸にはそんな想いがあったとおもいます。


わたしの母と違って、姉はものすごく気が強い人でした。

しかも、よく他者を見ています。気分なんかで判断しません。

叔母は店を出し、ずっと気丈に家計を支えてきたのです。

婿養子に入った叔父を尻に敷いて、がりがりと生き延びて来た。まあ、気性は男なんです。

弱音は見せない。断固と判断する人でした。

叔母の息子(わたしの従弟)は、そのような強い母親と気の弱い父親の元に育ちました。

いつしか、息子はそういう母親を「正」としたでしょう。男は強くなければならない!

彼はいつも父をバカにしました。

彼も、自分の内面の”弱さ”を他人に見せません。

実は、俺も悩んでいるんだとか、心配なんだとかいう発言は、叔母とその息子には存在しませんでした。


やがて、叔母が生計から退き、体が不自由になってゆくにつれ、代替わりした息子夫婦が主人となっていったのです。

しかし、強烈な母親も、強気の息子もお互い本音を言い合わず、やがて引っ込みの付かない言い争いが起こったのだと思う。

「そんなら、わたしゃ、お前たちの用意する食事はとらない!、世話になんかならないっ」と気丈な叔母はいい、

息子と嫁は、「だったらじぶんで勝手にしろっ!」みたいな流れに。。

この手の話はよく聞きます。

叔母ほどではないにしろ、息子夫婦と反目し老いた母親が孤立して行く、、というような話を。



叔母が亡くなった朝、息子(従弟)はわたしに電話してきました。

「母が亡くなったよ・・・」とぽつり。

もう虚脱していて、声は別人のようでした。

運転があぶなさそうなので、停車して話そうとわたしは促しました。彼は路肩にクルマを止めました。

深いショック状態にいました。電話でも、それがわたしに伝わって来ました。

どんなに気に入らないといっても、相手は死んでしまえば”仏”になってしまうので、恨み言を言う対象ではなくなります。

おぎゃーと生まれてから育ててもらった恩も息子のこころからは消えないのです。

母ちゃん。

あれほどお前は母を嫌ってたんだろ!とは、さすがにわたしもからかえなかった。

病院からの帰りの息子は、呆然自失といった感じでした。


今回、姉の墓に参るにあたって、わたしの母は姉の息子夫婦が姉にした仕打ちを骨髄、恨んでいました。

絶対、許さないっ!

母は姉の話を一方的に信じ、それを膨らませていた。

わたしは、同い年、同じクラスにもなった従弟にも何か止むを得ないことがあっただろうと思っていました。

でも、とりなしても、母は頑として怒りと恨みを離そうとはしません。

実家の仏壇に線香1本あげたら、店の前に待たせておいたタクシーでさっさとまた新幹線に戻るっ、という手はずでした。。


ところが、行く直前、人を介してこんな話が母に伝わってきました。

息子の嫁さんが、「わたしがお母さんを殺してしまったのかもしれない・・」と言ったと。

嫁さんは、きっと叔母をいじめたのです。

惨めな底に姑を突き落としたでしょう。ふん、いい気味だわっ。

そんなシーンがあったでしょうか。

けれど、「わたしがお母さんを殺してしまったのかもしれない」と本人が言ってしまうと、今度は話が変わってくるのです。

そのしたであろう罪が帳消しになってしまう。

ちょうど殺人犯がおのが罪を認めてしまった時のように、それを聞かされた者はもう当の罪人を罰することができなくなるのです。

わたしのせいですと言う者をもう誰も鞭打てない。


いよいよ5月に入り、姉の息子が、「叔母さん、食事を用意したよ、一緒に食べよう。1泊していってくれよ」といいだした。

彼は自分の母を亡くし、その面影を重ねている叔母(わたしの母)とも、これを逃がしたら生涯会うことがなくなってしまう。

嫁さんの話を伝え聞いた母の態度も、一変していました。

あれほど、怒っていた母だったのに、母は喜んでそれを了解した。よし、泊まろう。

あの骨髄の恨みはどこにいった?

葬儀という儀式を経ていない母は、姉の死を怒りで無くしていました。

ほんとは、甥っ子と手を取りあい泣きたいでしょう。

そうやってようやく、姉にさよならって言いたかったでしょう。


そう、叔母は叔母の事情で、息子は息子の事情で、嫁さんは嫁さんの事情で生きていた。

それぞれに事情があったのですが、わたしの母は叔母の電話だけを「正」として、自分を正当化したかったということです。

嫁さんにだって辛いことがあったはずです。

息子にだって言い分はあったでしょう。

それぞれが相手の話の断片だけを取り上げて非難しあっていたのです。

誰も本音を話さない空間では、こんなふうになってしまう。

本音を話すというのは、自己の良いところも悪い所も至らぬ所も誠実に仲間に伝えるということです。

人にバカにされてはならない、一人前の人間にならないといけない。そういう土地柄だったと思うのです。

全員が、表面的に強気を装うだけだったのかもしれない。

わたしは、そんな人たちのエゴが住む田舎というものが嫌いでした。

でも、たしかにわたしのふるさとでもありました。


実は、強気の従弟はよく涙しました。

叔母にそっくりなその息子は、あしらっていた祖母が死んだとき、わんわんと泣きました。

気の利かない父親が死んだ時も、わんわんと泣いた。

いつも強気な彼が、人前はばからずにわんわん泣く。

そんなに情があったのなら、生きている時、かれらに優しくしてあげればよかったのに。。。

彼の父が死んだとき、葬式に出た後、わたしは言いました。

「ぼくたち男はプライドの生き物なんだよ。

そうして、ほんとは言わないといけないことをずっと隠し続けてしまうんだ。逃げるんだよ」と。

どうぞ、彼にこの真意が伝わりますようにと、あの時わたしは願ったのです。

やはり、5月の新緑が燃え立つ日でした。


彼の偽りの仮面は、毎回別れのシーンでバッサリ剥ぎ取られました。

だから、きっと、今回の母親の死に際しても、彼はまたわんわんと泣いたのでしょう。

そんなに泣くほど情があるんだったら・・・。

凝りもせず、また息子は、絶対に他者に見せることなどあり得ない素顔を晒してしまったでしょう。


県境を越え、新潟に入ると、新幹線は停車します。

姉が、駅にわたしたちを向かいに来てくれていました。

従弟には姉さんがいるのです。たったふたりきりの兄弟です。

でも、彼は父親似の姉を始終バカにして来ました。毛嫌いという言葉の方がふさわしいでしょう。

もとより、姉さんの忠告なぞ聞きません。

でも、今回、わたしたち4人が来るというので、彼は自分の姉に駅から実家までの送り迎えを頼んだのでした。

「頼む」と。

たぶん、弟は初めて姉に頭を下げたのでした。

母のからだを病院まで迎えに行く際、そして帰りにわたしに電話してきた際も、姉さんがそばに寄り添っていました。


わたしたちは、迎えに来てくれたクルマで叔母が眠るお墓へ行きました。

緑が燃え、気温が上昇していました。

息子夫婦も同席しました。

わたしの母は、水を掛けてもらった墓石の表面を掌で何度も撫でました。

ゆっくり、指が石の表面を滑って行く。

母ももう90歳近いのです。

じぶんたちが生まれ育ったところ、じぶんたちの母が既に入ってるところ。

じぶんたちの春夏秋冬、水、風、雨、稲の匂い、夏祭りの賑わい、咲く桜、深い雪。

中学を出ると行かされた紡績工場も、不本意だった結婚も、辛い農作業も。。

そういうすべてがそこに入ってる。

そして、わたしの母はもう2度とここに来ることは無いのです。

姉の入る墓とも、その息子とも嫁さんとも2度と会うことはないのです。

母は、何度もなんども撫でました。


実は、叔母はわたしにはとても優しかったのです。

行けばかならず店に出しているお酒の一番いいのをわたしに持たせようとしました。要らないといくら言っても、持って行けを譲りませんでした。

わたしが成人してからも、なるべくわたしにお金をもたせようとした。

叔母はまた妹(わたしの母)をとことんかばいました。

一家の大黒柱はまた、庇護する人でもありました。

墓石をなでながら、妹は、こころでなんと言ったのでしょうか?

ねえちゃん、ご苦労様。わたしももうすぐ行くから。待っててね。。。



母と姉は、幼少期ひどく惨めな生活をおくったといいます。

自分たちの父親が若くして戦死してしまいした。

そして、夫の親(彼女たちの祖父母)が君臨し続けた。

夫の分まで、かれらの母親は働かせられ、いつも叱られていた。

(当時、村ではきつい日雇いの土方仕事がありました。それに出させられた。村でそれをするのは男だけだったのですが、そこにひとり、自分たちの母親が混じって働いた)

子どもであったかれらは、祖父母の機嫌が悪くなるので遠慮して母に近づくこともできなかったといいます。

ひっそりと声も立てずに暮らしたといいます。

お母さん、お母さんと声掛けできなかった彼女たちの母親は、小さな頃から苦労し続けた人でもありました。

「おしん」なんてものじゃなかったんだと、彼女たちは自分たちの母親のことを、よくそう話しました。

彼女たちの母親は、母が早くに死に次に来た継母にいじめられたそうです。

ある日、背負って子守していた妹を不注意で死なせてしまいます。

5歳ぐらいの時だったでしょうか。ずっとそれを抱えました。

家から追い出されるように嫁いだ先でした。夫は若くして大工の棟梁でした。今度こそ。。

叔母とわたしの母がする会話の最後はいつも決まっていました。

何があっても仕方ないけど、戦争だけはいけないと、結びました。


人はどんなに苦しくとも生きないとならないし、お金を稼がないとならない。

なんとか居場所を仲間のために作らねばなりません。

母の姉は、妹を守り、自分の母を守り、店を守ったのです。

厳しい生活の中で、”強気”を保たねばならなかったでしょう。

そして、それが息子に伝播し、それはきっと息子の嫁さんにインパクト与えた。

嫁さんこそが嫁ぎ先で孤立していたのかもしれない。

だから、嫁さんも良い顔ばかりはしていられない。

わたしの母は、苦労した姉をまた守りたかった。

そんなふうにお互いが抱える想いが、負の連鎖を引き起こしたのかもしれません。


お墓にお参りしたあと、息子と嫁さんはわたしたちをこころからもてなしました。

丁寧に料理を作ってくれた。

かれらも、もう二度と相まみえることの無い、最後の挨拶を交わしたのです。


泊まる母たちより先に、わたしはひとり先に帰りました。

帰りの新幹線の車窓から、風景を見ました。

山々の上の方にはまだ残雪がいっぱいありました。

鮮やかな青葉と濃いダークな緑から成るマダラのパッチ風景がどんどん後ろに飛び去って行きます。

そして長いトンネルに入る。

トンネル底を出ると、そこはもうわたしのこころの世界ではありません。

血の繋がりでこころが葛藤するということがない世界です。わたしが望んでいた都会のある世界。

どんどんふるさとが過ぎ去って行く。

どんどん、トンネルから離れるほど、どんどん東京に近づく。

わたしたちのそんな過去、そんな血の葛藤があったなんてとうてい信じられなくなってゆく。

昭和。あれは夢だったのかもしれないとも思う。

車窓に向かって、こころの中で言いました。

「ありがとう。さよなら、叔母さん」


今年の春はそんなことがありました。

つぎつぎとさよならを重ねている年です。ひどく暑い年です。

話が長くなってしまいました。

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