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食べることは生きること。悲しいことがあって駅のホームで食べた真冬のアイスの味を覚えている

食べることは生きることだなあって、最近よく思う。

少し遠回りをして、ドラマの話をしよう。
ドラマ「MIU404」や「アンナチュラル」は食事のシーンがよく出てくるから好きだ。特に「アンナチュラル」でミコトがあんぱんを差し出す場面は名場面なので覚えている人も多いはず。それ以外にも、過酷な仕事の中でミコトは天丼だとか、肉だとか、そういうがっつりしたものをよく食べている。
他にも「エルピス」で、ずっとご飯を食べられなかったエナがタクローとならカレーが食べられるようになるのも印象的な場面だし、「こっち向いてよ、向井くん」では朝までファミレスでコウキちゃんが「卵に何をかける派」か話している。「アンメット」ではミヤビちゃんの一口がとても大きくて、あれは意図的な描写だなと思う。

わたしは悲しいことやストレスがあると食欲がなくなるタイプなのだけれど、本当に心がダメになってしまいそうだったとき、食べることに罪悪感さえあった。
だから食べることはとても前向きな行為だと、よくわかる。食べることを拒否し始めた心はだんだんと弱っていく。

毎日戦うには食べるしかない。食べなかったら強くいられない。だから食べることは生きることに直結するし、生きることそのものだから、誰と食べるか、どこで何を食べるか、は日々を作る上でとても大切なことだ。

だからわたしがこれから話すのは、食べ物にまつわる、生きることの話。

悲しくて駅のホームでアイスを食べたこと

わたしが全てを失ったように思われたのは、ある冬のことだった。
茫然自失で、食べることもすっかり忘れて、自分自身のことも忘れるかのようにアルバイトをし続けていたら10キロ以上痩せてしまっていた。
バイト帰りに電車に乗って、最寄駅でもなんでもない駅のホームに降りて、ベンチに座ってぼうっとしていると手足が凍るように寒くて、寒くて、だからわたしはコンビニでアイスを買った。
自分のことを暖めようとは思っていなかった。どん底まで落ちてしまえと自分で自分に呪いをかけていたから、アイスを買って、駅のホームに戻った。
世の中はクリスマスが近くて、遠くからクリスマスソングのメロディが聞こえたし、なんとなくみんなが浮き足立っていて、甘い空気がしていた。そんな中でわたしは真冬のホームでアイスを食べて、通り過ぎていくみんなの浮ついた背中を眺めていたのだった。
そんなだったから、アイスのことを嫌いになるかと思いきや、わたしは今もアイスが好きだ。あの時、アイスはわたしを拒んでいなかった。悲しい気持ちにスッと寄り添うように冷たくて甘かった。悲しさそのままだった。

わたしを空腹にさせてくれたひと

「人は、ひとつの不幸なら耐えられるが、同時にふたつの不幸を抱えると身体をこわす」。けれども、ふたつの不幸を抱え続けられるほど、人間は器用じゃない。沈没しそうな舟二艘に両足をかけたわたしは、どちらも見限って船底を強く蹴り、潔く深い川に飛び込むことにした。

くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい』「玉葱やかなしみに飽きなみだ無味」より

駅でアイスを食ってやさぐれていた頃、わたしはふらふらと彷徨うように池袋のジュンク堂書店に行った。書店はわたしにとって、唯一どんなときも居場所だった。
だけどその頃はどんな本も読むことができなくて、書店に行っても少しよそよそしくて、わたしはそわそわしながら一階から上がれずにいた。
でも、ジュンク堂の一階はすごい。
聳え立つような選書コーナーがわたしの姿を周りから隠してくれるし、なんでこの本がこんなところに?と思うような意外な本がひょこっと目に留まったりする。
くどうれいんの『わたしを空腹にしないほうがいい』もそのひとつだった。

食欲というものがすっぽんとこの世から消えてしまったかのように食べ物との縁がなくなったわたしは、空腹、という言葉とその本の小ささに惹かれた。

キャリーとリュックで定住地なくフラフラしていたわたしは、小さな本を一冊携えることにした。

その本の中にある「夕立が聞こえてくるだけの電話」という章題のついたエッセイで、角煮を食べていたら”ぜつぼー”した友だちから電話がかかってきたエピソードがあって、わたしはそれがとても好きだった。
絶望している友だちは泣いていて、角煮を食べている著者に雨の音を聴かせている。

わたしもよく、どうしようもない時に電話をする友だちがいた。そのひとはいつ、どんな時に電話をしても、変わらない様子で話に付き合ってくれるひとで、遠く離れた中国にいまは住んでいて、会うことはなかなか難しい。
そのころのわたしは電話をこちらからかける力さえなかったけれど、本当にどうしようもない危ういタイミングで不意に電話が鳴ると、大体そのひとからの着信だった。
そしてわたしはそのひとと電話をした日だけはほんの少しお腹が空いて、何かを食べようと思ったりもするのだった。

その時に気づいたのだけど、どんなにしんどくてお腹が空かなくても、このひととならご飯が食べられる、というひとが数人いた。
スープさえ残していたわたしが、このひととならご飯が完食できる、そういう相手がいることは救いに他ならず、その時にもやっぱり、ご飯を食べるというのは誰と食べるかが重要なんだなと思った。
遠く離れた友人とは、会えないけれど、声を聞くだけでお腹がちゃんと空くのだった。

一人暮らしは、自分で自分のお腹に入るものを決めるということ

いまは、かなしみのトンネルを超えてそれなりに朗らかに生きているが、地に足のついた一人暮らしをする上で、やっぱり食べることは大事だなと思っている。

わたしは、食べる専門家ではないから栄養とかは正直よくわからないし気にするところでもないし、だから、わたしの言う「食べることは大事」はなにもちゃんと食べようとかそういうことではなく、どんな気持ちで食べることができるか、という話なのだ。

一人暮らしは、もう、誰かに作ってもらう食事はない。
どこかに食べにいくのもいいし、質素なご飯を家で食べるのもよろしい。
カップ麺で終わらせてもいいし、ジャンクフードでしあわせになってもいい。
だけどそれらは全部、自分で選んだものを食べる、ということだから、自分で選んだもので身体ができて心ができて、日々ができて、人生になるというわけで、その日になにをどういう気持ちで選んだかは大切にしたほうがいいなと思うのだ。

誰かと食べるのも、とてもいい。
誰でもいいわけじゃない。
元気なときは誰といても毎日ご飯が食べられるからつい忘れてしまうけれど、わたしは知っている。元気じゃなくなったとき、食べられなくなったとき、このひととなら食べられるという相手がいたことを。
そういう相手と、元気なときも一緒にご飯を食べたい。
そういう相手が増えたら、それはとても健康で、しあわせな出来事だと思う。

この世でいちばんおいしい食べ物

最後に、おいしい食べ物の話をしよう。
好きな食べ物を聞かれたら、それなりに色々な答えがあると思う。
でも、いちばんおいしいものは、その時々で明確に変わる。

大学生のころ、この世でいちばん美味しいものはシクスバイオリエンタルのパンケーキだと思った。
ふわふわで、アイスが乗っていて、口の中に入れたらしあわせだなあと思うようなとろける甘さで。
でもそれはおそらく、当時好きだったひとが初めてそれっぽいおしゃれなお店に連れて行ってくれて食べたのがこのパンケーキだったからだ。べつにわたしはパンケーキは好きでもなんでもなかったし、パンケーキを食べ比べたわけでもない。
でも、この人とここで食べることに意味があって、その意味がしあわせだなあって味にしてくれていたのだと思う。


それと同じように、去年、わたしにとってこの世でいちばんおいしいのはテイクアウトで食べるすき家のおろしポン酢牛丼だった。恋人だったひとの家に持ち帰って、コンビニでパピコも買って、よくふたりですき家の牛丼を食べていた。それ以外なにもいらないと本気で思えて、すき家の袋をぶら下げて歩く道にしあわせってあったんだなと思った。

だれと、どんな時に食べるか。
きっとまた、この世でいちばんおいしい食べ物は変わっていくのだと思う。
そしてそれをわたしは楽しみに思う。

眠れない夜に、また更新します。
おいしいものを食べてね。


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