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◆怖い体験 備忘録╱第15話 黒い犬

20代前半でしたか、一時期社長秘書として商社にいたことがあります。
事務員から引き抜きに合い、6年ほど勤めていました。
その会社は雑居ビルの2階にあり、応接セットと事務机が5つ、会議テーブルがひとつ、それに小さな社長室がひとつという、大変奥ゆかしい事務所でありました。

建物はかなり古かったのですが、内装はリフォームがかけられていて、それなりに綺麗でした。
ただ働き出してからしばらくして、わたしはひとつの不思議に気がついたのです。

夕方17時過ぎになると、その事務所の東側の角から、何か黒い影が出てきて、まっすぐ対角線上の角に消えてゆくのです。
怖いのでしばらく直視は避けていましたが、終業間近のその時間になると、机に向かって仕事をしているわたしの視界の端、とにかく小さな黒い影がコロコロと転がるように動いていく。

ある日、意を決して サッと目だけでその影を見てみたら、ぼんやりはしているものの、それはどうやら黒くて小さな犬のようでした。

犬だと気づいてからというもの、わたしはそれとは気づかれないように、そっと直視を避けた視界の端でそれを見るようになりました。
わたしは無類の犬好きです。
例えそれが実体の犬でなくとも、何か急ぎの用事でもあるかのようにトコトコと毎日決まった方向に歩いていく姿には、何度も和まされました。
もちろん仕事が忙しくて気づかない日も多々ありましたが、多分あいつはわたしが見ていない日でも、必ずあの道を通っていたように思うのです。

それがどれほど続いたでしょうか。
黒くて小さな犬は、雨の日も雪の日も関係なしにうちの事務所を横切っていました。

そして、ある初夏のこと。
その年に入ったばかりの新入社員の女の子が、キッチンで洗い物をしていたわたしに、遠慮がちに「ちょっといいですか?」と話しかけてきました。
敢えて二人きりの時に話しかけて来たからには、きっと他の人には言いづらい話に違いないと思い、わたしは彼女に向き直って「なあに?どうしたの?」と尋ねました。
彼女は少し強張った顔をわたしに近づけると、小声で「先輩って、霊感あるんですよね」と言ってきました。

この頃には、わたしはもう常にお清め用の塩を車やバッグに持って歩き、嫌な気配を感じる場所には何としてでも近寄らないようにしていました。
変に思われるのは嫌なので、人にはあまり言いたくありませんでしたが、避けられない都合で車に誰かが乗った時などは「その塩、なあに?」などと聞かれることもしばしばだったので、取り立てて喧伝するわけでもないけれど、聞かれれば隠すわけでもないというスタンスを採っていたのです。

「霊感…って言えるほどでもないけど…少しだけ、感じる方かなあ」
そんな風に返答したかと思います。
すると彼女は更にわたしに顔を近づけて、潜めた声で言いました。

「あの…この事務所…犬、通りません?」

それは初めて、おそらく他人がわたしとほとんど同じ『この世ならざるもの』が見えている場合がある、というケースが立証された瞬間でありました。

それから、わたしと彼女はそこを通る犬について話をしました。
結果、やはりそれが黒くて小さな犬であること、トコトコと歩いて通り過ぎる以外は特に今のところ害はないこと、多分毎日決まった時間くらいに同じ方向からやってきて、同じ方向へ消えていくことなどを確認しました。

それまでは、自分にだけ見えている事象があまりにも多くて、本当にどうかしているんじゃないかと悩んだこともありました。
でも日常生活にめちゃくちゃ差し支えるほどでもなかったので、特に受診などはせずにいたのです。
しかしこの時、初めて同じものが見える人に出会って、わたしは「やっぱりこの世ならざるものは存在しているんだ」と確信するに至りました。
その後も彼女とは何度か同じと思われるものを目撃しましたが、その話はまた後日。

ともあれ、それからもその事務所が閉鎖になって私たちが退職するまで、その犬はずっと変わらずに同じ道を、ほぼ同じ時間に通っていたように思います。

いつも後輩の女の子と言っていた疑問は、ただひとつ。

ところであの犬は、帰りはどこを通ってるんだろうね?
でした。

それでは、このたびはこの辺で。


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