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雨が止むのを待ちわびて

今朝、テレビをつけると来週に梅雨明けの可能性も…と流れてきて、少し嬉しくなった。雨だと傘で手が塞がるのが億劫だ。それに、狭い道で人とぶつかってしまいそうになるのも地味に嫌だ。

傘に代わるもの、例えばワンタッチで薄い防水の膜のようなモノが、バリケードのように張られたら楽かもしれない。人ひとり分の見通しが良い、透明な…しまう時は昔の掃除機のコードみたいに、メジャーみたいに、巻き取り式でコンパクトに収納され、手も濡れることがない。いや、でもそれ頭につけるのか…?色々と無理があるな。それにしても雨の日は、屋根のある商店街の有り難みをより感じるものだな。

そんな事を考えながら、手が塞がるのが嫌ならレインコートを着ればいいのでは…と思ったが、電車に乗ることを考えると、やっぱり傘が現在の一番最適な形なのかもしれない、と結論づいた。

今日は休みで、まずは溜まった洗濯物の山を片付けた。洗濯をする時ほど晴れた日が恋しくなることはない。カラッと晴れて風になびく洋服たちを眺めるのが好きだ。

次は掃除機をかける。いつも決まった順番に隅からかけていく。綺麗になり、スッキリする。

家計簿をつける。アナログ人間なのと、手書きで文字を書くことが好きなので、百均で購入した家計簿にちまちま鉛筆で記入していく。

ストレッチしながら、録画していたドラマを観る。一通り観終わったら、プライムビデオで「生きてるだけで、愛。」を観る。

本谷有希子の同名小説を趣里の主演で映画化。過眠症で引きこもり気味、現在無職の寧子は、ゴシップ雑誌の編集者である恋人・津奈木の部屋で同棲生活を送っている。自分でうまく感情をコントロールできない自分に嫌気がさしていた寧子は、どうすることもできずに津奈木に当たり散らしていた。ある日突然、寧子の目の前に津奈木の元恋人・安堂が現れる。津奈木とヨリを戻したい安堂は、寧子を自立させて津奈木の部屋から追い出すため、寧子に無理矢理カフェバーのアルバイトを決めてしまう。趣里が主人公・寧子役を演じるほか、津奈木役を菅田将暉、安堂役を仲里依紗がそれぞれ演じる。数々のCMやAKB48、Mr.ChildrenなどのMVなどを手がけ、カンヌ国際広告祭でグランプリなどを受賞した関根光才の長編劇映画初監督作品。

主人公は双極性障害(躁鬱病)である。恋人に「私と別れられていいなぁ」と泣きながら話す姿は少し辛い。全体的に重く、暗い画面が続く。ブレーカーが落ちる場面が何度か出てきて、躁と鬱のスイッチを表現しているのかな?となんとなく感じた。

高校生の頃、初めて短編小説を描いた。それを出版社に持ち込みした。軽躁状態の衝動での行動だったが、後日丁寧に書評を送ってくださった。今も取ってある。通常だったら出来ないような(やらないような)事もやれてしまう。後悔も多い中、この件は大人になってみれば良い経験だったなぁと思える。その時の小説のタイトルが「スイッチ」だった。そんなことを思い出した。

本当に症状がひどかった時のことは出来ることなら思い出したくないし、書くことがまだ出来ない。というより、詳細が記憶から消えている部分もあるから書けないという方が正しいかもしれない。都合の良い脳。でもどんなに消えて欲しいと望んでも、烙印のように消えない記憶だってもちろんある。そういうものを抱えて皆きっと生きている。

そういえば、医師と相談し薬を飲むのをやめて1ヶ月が経過した。今のところ、特に困り事はない。このままこの状態が続けばいいなと思う。

私の場合、学生時代に発症した訳だが、歳を取るにつれ気分の波の激しさが減少してきたように感じる。躁と鬱を繰り返すことで、対処法を知ったという事も大きいが、繊細さや敏感さが薄まり、昔に比べ随分と鈍感になってきたからではないかと思っている。気付いてしまい、気付かないフリをするのは辛いが、気付かないならそれまでだ。だけど周りの大切な人たちの辛さには、気付けるようにしたいものだ。


前に観たドラマで、人には空洞があって、それを埋める為に生きている、というような台詞があった。それ以来、何かを楽しいと思った時、いま自分の中の空洞が満たされているのかな、なんて考えるようになった。

記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。