イラン行き国際列車が9時間遅れて絶起した話

絶起とは

「絶望の起床」の略語で、つまり寝坊したということを指す。2017年『ギャル流行語大賞』8位。
大切な予定があるにもかかわらず寝坊してしまい、確実に間に合わない……そんな絶望的な起床をしてしまったときに使用される、いわゆるJK語である。

Transasya Ekspresi

かつてイスタンブルのアジア側ターミナル「ハイダルパシャ」から、トルコを横断し、遠くイラン・テヘランシリア・ダマスカスイラク・バグダッドへ至る列車が運転されていたことを知ったのは多分高2ぐらいのとき。当然ながらイラク、シリア方面の鉄道は度重なる戦争で破壊され、トルコ本国との関係悪化もあって運転再開の見通しはまるで無い。

ところがつい最近、2015年だかになって、トルコ・イラン間の国際列車が、週1便、アンカラ始発になって復活したことを知った。その名も「Transasya Ekspresi」。トルコ語で、直訳すると「アジア横断急行」。実態としては"小アジア横断急行"ってところか。以下、日本風に、「トランスアジヤ急行」と書く。(アジアってのは現在のトルコ西部におけるローマ属州の名前だったので、案外間違ってはいない)

なぜかこの列車、トルコ国鉄の公式サイトにも掲載されていない。Uluslararası Trenler-国際列車のページには、イスタンブルからブルガリア、ルーマニア方面に向かう列車しか記載が無い。なんといい加減な

http://www.tcddtasimacilik.gov.tr/trenler/uluslararasi-trenler/

毎週水曜日、昼間にアンカラ在来線駅(アンカラには昔からある在来線駅と中国の借款で作られた高速線駅がある、両駅は一応通路で繋がっている)を出て、57時間かけて、金曜日の深夜日付が変わるか変わらないかぐらいの時刻(実際、ほとんどの場合到着は0時を回って土曜日になる)にイランの首都・テヘランに到着する。

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アンカラ高速鉄道駅。無駄にでかい中国建築

チケットの手配

私はトルコ国内の旅行会社でチケットを確保した。

週1便だけあって、この列車の座席確保は私が行った2月でも2週間以上前に行わなければならなかった。トルコ側は割とすっからかんなのだが、トルコ東部のヴァンから多数のイラン人がこれに乗車する。ごく普通の家族、年齢も幼児から老夫婦まで、千差万別に利用されている。観光客は私だけだったので、おそらくハイシーズン・オフシーズンといった概念は無いんじゃないかな。夏に行けば、ヨーロッパ人が乗ってるかもしれない。

チケットは4ページになっていて、これはあとで説明するが、通しの乗車券1枚と指定席寝台券2枚にフェリー乗船券が1枚だ。私の乗車したアンカラ〜タブリーズ間の運賃は1人約45ユーロ、6000円しない。なんと安いことか。

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実際にもらったチケット。「Transasya Ekspresi」「ANKARA→TATVAN」「VAN→TEBRIZ」と印字されている

この旅行会社に連絡すると、メフメト君という若そうな人物からメールが来て、手続きを進めてくれる。正規運賃は45ユーロだが、まぁ現地会社に頼むだけあって、マージンは等倍・90ユーロ。しかし、トルコ国鉄TCDDは国際列車を予約だけ確保することはできず、前述の通り売り切れが早いため必要経費と割り切った。日本からのクレジットカード払いには対応しておらず、WesternUnionを使って送金する。初めて聞く人は、ちゃんとggって準備をしないと送金してくれるまで様々な認証プロセスを踏まされるので注意するべし。

乗車当日の昼、彼らのお仲間であるおっちゃんがアンカラ在来線駅にチケットを届けてくれる。私の時は、ガイドブックにチケットを挟んで渡してくれたのだが、そのガイドブックに別の博物館の入場券が挟まっており、最初にそっちを見つけた私は一瞬詐欺かと思ったが、ちゃんとあった。持ってきたおっちゃん、英語がまるで喋れず、にんまり笑顔で「オッケー?」と連呼するだけだったので、かなりビビった。

乗車

チケットの受け渡しの時に、当該列車は既に来ていた。米国製のめちゃくちゃ駆動音がやかましいディーゼル機関車に、白地に赤青の線が敷かれたトルコ国鉄の標準新台客車。外国の鉄道にはよくあることだが、行先とか出発時刻を示す電光掲示板なんかあったもんじゃないから、戸惑う。特にこの列車の場合、行先が「Tehran」ではなく「Tatvan」と書いてあるから尚更だ。Tatvan-タトヴァンは、トルコ東部、ヴァン湖の西岸にある小さな街。テヘラン行きではなかったのか?

Transasya Ekspresiというのは、言わばルートの総称。その実は、トルコ国鉄TCDDにより運転されるアンカラ〜タトヴァン間の寝台列車、TCDDフェリー部門により運転されるタトヴァン〜ヴァン間の湖上フェリー、そしてイラン国鉄RAJAが運転するヴァン〜テヘラン間の寝台列車の3つに分割されている。そのため、実態としては2回の乗り換えを経る、青函連絡船時代に上野から札幌に行くような形になっている。チケットが4枚と言ったのは、これが理由だ。

一応、アンカラからタトヴァンに至る列車はVan Gölü Ekspresi(ヴァン湖急行)という名前で別途存在しており、週2便、アンカラ発は火曜日と日曜日に設定されている。そのため、水曜日にアンカラを出るトランスアジヤ急行はこの便のためだけに用意されているわけではあるのだが、アンカラ〜タトヴァン間のような区間乗車もできるらしい。従ってアンカラ〜タトヴァン間には実質週3往復の運転があることになるが、なにせトランスアジヤ急行の方は大して知られてもいないようで、えらく長いように感じた編成に乗っていた乗客は中型バス1台分といったところだった。

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ちょっとボロいが、寝台客車は住めば都。

ホームで自分の割り当てられた車両を探していると、コーヒーマグを持ったMrビーン似のおっちゃんが寄ってきて、何やらトルコ語で訴えかけてくる。彼はこの列車の車掌だった。困惑していると、同い年ぐらいの若い青年が同じくチケットを片手に困惑していた。彼はトルコ語を話したので意思疎通してもらうと、どうやら「部屋番号はとりあえず無視して手前の部屋から順に埋めてけ」と言っているらしい。ゆる〜〜〜〜〜い!多分、タトヴァンまでの乗車はそこまで無いので、指定席通りに客が分散して各車両に乗られると検察とか見回りがめんどいから、なるべく1車両にまとめちまえ、という考えなのだろう。なんとおおらかなことか。

出発

アンカラを出たのは14時半ぐらいだった気がする。アンカラを出ると、欧州道路E88号線に沿ってクルッカレ、イェレキェイに至り、そこから国道沿いを離れてトルコの地理的中心カイセリに至る。有名なカッパドキアはこのカイセリから西南西に少し行ったところだ。カイセリには20時過ぎぐらいだったかに到着した。まともな都市と言えるのはここが最後だ。

発車してしばらくすると、さっきの車掌(以後、Mrビーン)が、えらく背の高い青年を連れて、枕やシーツ等のリネンを配って回っている。彼の名前はタハといい、イラン人で、トルコの大学に通っていたが、中退して帰国することにしたらしい。英語はほぼ話せなかったのでGoogle翻訳頼りだが、学費と差別に耐えられなくなったと言っていた。トルコ語とファールス語(イランのペルシヤ語)がネイティブ並に発話できる彼は有望な人材であろうに。そして彼は我々と同じ一般の乗客だと言う。おん…?どうやらMrビーンが暇そうにしていたタハを見つけ、リネン配りを手伝ってくれと頼んだようだ。ゆるいなぁ、トルコ国鉄。

カイセリを出た頃、食堂車に遊びに行った。旅の楽しみは食堂車にあり。メニューはごくわずかで、既製品をレンチンして作る代物だったが、住めば都。うまいもんさ。食堂車にはアンカラ駅でMrビーンと意思疎通してくれた若い青年が居た。その時聞いた名前はアフメト君だそうだ。そしてもう1人、20代後半ぐらいと思われる青年が居て、彼はどうやら厨房を仕切っているようだった。しかし、TCDDの社章をつけてるわけでも、ましてやシェフらしい姿をしているわけでもない。なんとなく察しがついたが、おそらく彼も一般客で、Mrビーンに厨房役を任されたんだと思われる。いや、ゆるいなぁ。とてもゆるい。トルコやイランの寝台列車には、各車両に1人車掌が付くのが普通だが、この列車にはMrビーン1人しかいない。彼にしてみれば、端から「1人全役なんてやってられねえ」ということかもしれない。厨房係はヤセル君といった。

飯もそこそこに、歳が近い我々は雑談を始めた。私は英語こそ喋れるがトルコ語やファールス語はさっぱり。タハ君はトルコ語とファールス語にほんの僅かな英語。アフメト君はトルコ語、ファールス語、パシュトゥー語に若干の英語。ヤセル君はトルコ語のみ。トルコでは市街地を離れると携帯電話回線が国道沿いにしか来ないため、悪戦苦闘しながら意思疎通をする。黒船来航のとき、幕府はオランダ商館の人物を呼んで日蘭翻訳と英蘭翻訳で中継して意思疎通したそうだが、そんな調子だ。

聞くと、アフメト君はアフガニスタン人で、西部ヘラート近郊に住んでいたがイランに逃れてきたのだと言う。今はイラン市民権を得てテヘランに住んでいるが、パスポートには「Islamic Republic of Afghanistan」と書いてあった。滅多にお目にかかれない代物だ。このパスポートで査証なし入国できる国は一体いくつあるんだろう。群青金菊紋のJAPAN PASSPORTはありがたい存在だ。さっき「パシュトゥー語」と書いたのは、これがいわゆるペルシヤ語のアフガニスタン方言的な存在らしい。そのため、ほとんど意思疎通は可能なのだと言う。無論、テヘランに住んでいたというアフメト君はファールス語(イランのペルシヤ語)も喋れるのだろう。

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ISLAMIC REPUBLIC OF AFGHANISTAN PASSPORT

そのうちMrビーン車掌もやってきて、どこから来たんだ?おぉ〜ジャポンヤ!などという、クラシックなトルコ人のおっさんらしいやりとりをした。中国人だと思っていたそうだ。この当時コロナウイルスは中国本土や韓国等の周辺国、次いでイタリアやスペインにやっと伝播したあたりで、トルコ含む中東域で発症者はまだ出ていなかった

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左奥がタハ、右の黒服がヤセル、ベージュがアフメト。食堂車にて

列車はカイセリを出て北東に進路を取り、シヴァスの町に着く前、22時頃になって入眠した。

2日目

列車はエラズーの街を過ぎて、どこかの駅を出発した揺れで目が覚めた。時間にして朝8時ぐらいだったか。私がここを訪れる直前、1月末ぐらいに、エラズーでかなり大きい地震が発生した。建物が倒壊する被害が出ていて、鉄道にも支障があるのかと思ったが、平気だった。随分ぐっすり寝られた覚えがある。

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野犬がうろついていた

このあたりは完全に雪原で、列車内に雪が吹き込んでいた。途中ゲンヂ駅に止まって、動き出したかと思いきやすぐに列車は止まり、バック走で駅に戻って行った。なんだか、駅員が慌てて走り出した列車を止めたみたいな雰囲気だった。しばらくすると、反対方向から、アンカラ行きのヴァン湖急行がやってきた。木曜早朝にタトヴァンを出たヴァン湖急行はここで行き違いをするようだ。いや、冒進事故じゃないかやべえやべえwwwみたいなノリでバックで帰ってきていた。いやほんとゆるいな、トルコ国鉄。この辺りでは携帯電話回線がほとんど来ず、待ちぼうけしていた覚えがある。

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ゲンヂで行き交ったヴァン湖急行

終点タトヴァンの1つ手前、ムーシュを1時間半遅れで出発した。いつの間にか車掌はMrビーンから別の人物に変わっていた。マラティヤあたりで交代したのだろう。終点が近づくと、車掌は早々にリネンを引き上げていく。と同時に、ヴァン湖フェリーは運航しないから代行バスに乗るという話を聞いた。この時、トルコ東部の気候はというと、猛吹雪。こんなに降ることがあるんかというぐらい、吹雪いていた。ヴァン湖フェリーは旅客だけでなくイラン行きの貨物なんかも載せるが、強風と視界不良で運航は困難という判断だろう。メフメト君曰く、フェリーからの眺めは素晴らしいから残念だとのこと。しかしまぁ、この吹雪ではどのみち景色どころじゃないだろう。

最終的に1時間ちょっとの遅延をもって、トルコ国鉄側の終点タトヴァンに到着した。ここから代行バスで、トルコ東部の町ヴァンに向かう。

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湖上フェリーはこの区間を8時間かけて航走するスケジュールになっている。そんな大した距離ではないが、とはいえ鉄道でも2、3時間かかりそうな距離だ。貨物なんかも積み込むので、のんびり客室で待たされる前提だったのだろう。ところが代行バスに変わってしまったので、この区間をわずか2時間ちょっとで走破してしまった。なるほど、トルコでは鉄道よりバスの方が優勢なのだが、実態としては鉄道より高速道路を走ったほうが速度が出るんだろう。そんなわけで、辺りに何も無いヴァン駅に、予定よりも4時間早く着いてしまった。

トルコ・イラン国際列車事情

ヴァン駅は、旧駅舎なのであろう、セントラルヒーティングの効いた小さな待合室の建物と、中国の借款で最近できたのであろう、無駄に屋根が高く暖房が効かない寒々とした新駅舎がくっついている、というか増築されている作りだ。トルコ国鉄は最終的にこのヴァンまで高速鉄道線を持ってくるつもりらしい。アンカラ・イスタンブル高速線もせいぜい1日10往復しかなく、こっちに至っては在来線の電化すらしていないのに、高速線なんて敷いたところで需要は見えてると思うんだがなぁ…。南部のメルスィン、アダナ、ガズィアンテプあたりに伸ばしたほうがまだ採算が良さそうなものだ。そういえば、アンカラ〜カイセリ高速鉄道の建設現場を昨日車内から目撃した。

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屋根が無駄に高いせいで暖房がまるで効かない…。

さて、イラン国鉄の列車はよく遅れる。単純に、イランの鉄道整備事情があんまり良くなかったり、単線のくせに需要が多過ぎて列車をギリギリまで増発した結果少しの遅延が波及しやすくなったり、厳しめの国境審査があったりといろいろ理由があるが、それに加えヴァンは猛吹雪だ。チケットをとってくれたメフメト君も、ここの乗り換えは時間通り行くことはまずないと言っていた。そのため2〜3時間は遅れても不思議ではないと思っていた。ヴァンに4時間早着したこともあって、6時間待ち程度は覚悟していた

最初は中型バスで間に合うぐらいの、アンカラから来た乗客数十名だったが、数時間のうちにぞくぞくと集まってくる。皆イラン人だ。荷物にはヴァン空港までの航空タグがついているものもあれば、どこぞのバス会社のものと思しきタグもあった。イラン国内で女性は厳格に頭髪を隠すことを義務付けられているが、ヴァン駅の時点では、隠している人、いない人、半分ぐらいだった。そんなの人の勝手でしょ、といった具合か。イスラーム革命前の世俗政府時代を知っているおばちゃんなんかは、特にそんな調子だ。

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雪に埋もれた暗闇のホームで、トルコ国鉄の機関車が入れ替え作業をするばかり

さて、早着した分の4時間はとうに経ち、2時間、3時間、4時間と過ぎたが、待てど待てどもイラン側の列車が来ない。来ない。来ない。しかし誰一人動じない「なに、4時間程度の遅れ、イランでは平常運転さ」という具合。トルコ人の駅員ものんびり構えてヤニをキメている。どんな不便も、それが日常であれば大して苦ではない…これは間違いないだろう。ヴァンの電力事情があまりよくないのか、無駄にでかい駅を温めるヒーターが電気食いなのか、待っている最中幾度か停電した。その度に駅員がぶつぶつ言いながら配電盤を弄っていた。

本来の出発時刻から遅れること、5時間、6時間…。列車はまだ来ない。いい加減力尽きて、待合室で寝落ちしてしまった。この時、時間にして深夜2時。気づいたら寝ていたという感じだ。アフメト君に起こされてみると、なんてこった、列車だ!

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なんてこった!列車が来やがった!!!

遅延7時間をもって、イラン側のヴァン行き列車が到着した。もう来ないかと思った…。日本でも寝台列車は途中なんらかの理由で進めなくなった場合、新幹線に振り替えて運転を取りやめることがある。ところがこっちでは、何時間遅れようととにかく終点まで走りきらなきゃならない。なぜなら道中はひたすら何もない荒野で、代替交通手段はおよそ皆無だからだ!列車が目の前に居ることに大変感動しながら、イラン側車掌の乗車許可を待つ。折り返し運転のための準備を、各車両ここまで乗務してきた車掌がするのだ。ちゃんと乗る前に整えるあたりは、トルコ国鉄よりしっかりしてるかも。

定刻より遅れること、なんと9時間。トランスアジヤ急行の後半戦、イラン国鉄RAJA運転の列車に乗り込み、動き出した…。時間にして午前5時。この間眠れたのはわずかに1時間だけ、ほぼオールだ。しかもこの後、国境審査のため全員列車を降りなければならないから、まだ眠れない。寒いヴァン駅で確実に風邪も引いただろう。前途多難である…。

イラン側の列車は完全に満席と言った具合だった。とはいえ、イラン国内法で家族以外の男女は同じコンパートメントにしてはいけない法律があるので、全ての寝台が埋まっているわけではなく、各個室が埋まっているという具合だ。今回は、指定席がまともに指定されていた。アフメト君と、60〜70とおぼしき爺さんと同じコンパートメントに落ち着いた。全部で10両ぐらいの客車と、先頭ではドイツのシーメンスからノックダウン生産ライセンスを得てイラン国内で量産したディーゼル機関車「Iranrunner」が引っ張っている。トルコ側より全体的に設備は新しい。オバマが一度止めた経済制裁をトランプが再開したため国内経済はボロボロだが、今まで核開発疑惑払拭のために協力した姿勢を評価したEU諸国が、いくらかイランの産業支援をしている。真新しいドイツ生まれイラン製の機関車が引っ張っているのはそういうわけ。

「キャプキョイ・イラン国境」「鉄道出境」

シェンゲンスタンプというものがある。EU各国の入国、出国の際には、国コード、審査場所、日付、移動方法(航空機、自動車など)が簡潔に記された、まるで面白味のないスタンプが押される。トルコはEUでもシェンゲンでもないのだが、スタンプはこれを採用している。

トルコとイランの陸路国境は3か所、北部のギュルブラク、中部のキャプキョイ、南部のエセンデレだ。鉄道は中部キャプキョイを通過するが、高速道路は南北の2か所のほうがよく整備されている。午前9時頃、キャプキョイ国境でトルコの出国審査を受ける。アフメト君と一緒に並んだ。トルコの審査官は、「おい、日本人にアフガニスタン人だぜ!」と興奮した様子だった。そりゃそうだ。私の知る限りでは、この国境を鉄道で超える日本人は「私が初めて」だもの。

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「キャプキョイ」「鉄道出境(蒸気機関車マーク)」のスタンプが押される。シェンゲンスタンプの中でも極めて押印難易度が高い珍品だ。

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出国が済んだら列車に戻り、再び10分ほど進み、今度はイラン側のラズィー国境駅に停まる。ここでもまた全員が降ろされ、今度は荷物も持って出る。当然ながら、ラズィー国境駅でも「日本人!?なんでこんなところに!?」という反応だ。中国人すら見たことないぞ、という。確かにこの施設はボロいし、中国資本の息はまだかかっていなさそうだ。

ラズィー国境には、コロナウイルスに関する警戒情報が届いており、体温検査による簡易検疫が行われていた。風邪をひいていた私はかなりビビっていたが、「37.2℃…普通だな!」と通された。十分微熱を出しているが、連中は基礎体温が高い。普通なのだ。陽気なイラン人国境審査官は「おい、写真撮ろうぜ!」「お前の名前なんて読むんだ?アルファベットも読み慣れねえ!」といった具合で和気藹々。ちょっとした驚きだったのが、国境審査官、つまりは政府の役人である彼らが、Google翻訳を平気で使う。いや、なんらかの翻訳機は使うだろうと思っていたが、中国のBaiduやロシアのYandexではなく、ストレートに敵国製のGoogle翻訳を使っているんだなぁ、役人が。警察も。十二イマーム制イスラーム共和国とかいう事実上のファシズム国家だが、思いの外このへんはゆるいんだなぁ。

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荷物も持って出るように言われたが、まるで調べはされなかった。アフメト君は部族に伝わってそうな感じのサーベル(剣)をこっそり持っていたが、普通に隠し通せていた。いやいや、それ大丈夫かよ?国境審査が済み、全員が列車に戻ったことが確認されると、再び列車は走り出した。昼12時、昼食が支給され、おいしくいただく。腹を膨らましたところで、ふっと気を失うように寝落ちしてしまった…。

絶起、乗り過ごし、下車

ガクンと列車が動く衝撃で目が覚めた。アフメト君も爺さんも皆眠っている。ここはどこだ…?イラン側ではトルコで買ったSIMカードが機能しないので、ネットが見れない。オフライン翻訳が頼りだ。それにしてもずいぶん大きな駅を出ている。ここは………タブリーズ……!?!?

冒頭を振り返っていただければわかるとおり、私の目的地はタブリーズ。イラン北東部にあり、世界遺産の巨大バザールを擁するイラン屈指の都市だ。タブリーズ中央駅は中国資本が建てた至極立派な駅。私は慌てて二人を起こし尋ねる。「いや、あれはタブリーズじゃないと思うよ」「本当か?にしては駅が立派過ぎないか?」「確かに…あれタブリーズだ」「俺、タブリーズで降りなきゃいけないんだけど…!」

とても心臓の鼓動が早くなる。状況を整理しよう。私はイランの寝台列車で絶起した。インターネットは使えない、オフライン翻訳のみ。周りにまともに英語を喋れる人物は、車掌を含めていない次の駅なぞ知らない。私はタブリーズでSIMカードを用意して待ってくれているおっちゃんと合流し、今晩は市内に宿を確保してある。無情にも列車はタブリーズを出て、着々とテヘランに向かっている

今まで、寝坊した、電車を乗り過ごしたということは幾度となくしてきた。しかし、これ以上「絶望の起床 略して 絶起」が相応しい起床があっただろうか。

状況をかろうじて理解したアフメト君が、車掌になんとか状況を説明してくれた。車掌と会話を交わし、どうしたらよいか尋ねる。車掌は「次の駅で降りて、反対方向のタブリーズ行き列車に乗れるように手配しよう。大丈夫」と言ったようだ。いやはや、ヴァン駅で眠れなかった分疲れ過ぎてたんだという言い分を彼は理解してくれて、すぐさま次のマラーゲ駅係員と連絡を取る。

また彼はテザリングで回線を貸してくれた。実はトルコのメフメトに紹介された、シーラというイラン人女性ガイドの連絡先を持っている。What'sAppで彼女に電話を飛ばし、繋がった。遅延の話は逐一連絡していたので、状況を理解した彼女は、改めて事細かに車掌と相談してくれた。彼女は英語が大変堪能なお嬢さんだ。おばちゃんだと思っていたが、その実20代後半と大変若く、欧州へ旅行に行った経験もある、イランでは富裕な家庭の娘らしい。彼女を通じて、次の駅で反対方向の列車に乗り換えることを確認した。

親切なものである。私の慌てぶりを察して、大丈夫だ、落ち着け、俺がなんとかするからと何度も言ってくれた、英語がまるで堪能でないアフメト君。状況を理解し、9時間も列車を遅らせた我々にも責任がある、乗り越し区間の運賃は求めないから、必要な相手に連絡しろと言ってくれた車掌、そして遠隔ながら事態を完全に把握し、車掌と交渉し、待ち合わせ予定だったおっちゃんや今夜泊まるホテルにも電話を飛ばしてくれたシーラ。旅人を歓待し親切にする気風は、紀元前の文明発生以来、東は中国、西はモロッコの隊商とオアシスで語り合ってきた、ペルシヤ人の魂のなせることだ。

イランの片田舎からキャンプ地タブリーズへ

タブリーズを出て1時間半ほどで、次の停車駅マラーゲに到着した。事態収拾に協力してくれたアフガニスタン人のアフメト君、後から状況を聞き来てくれたタハ君と硬い握手を交わし、車掌に連れられてマラーゲ駅のカウンターに向かった。カウンターの女性係員は少しだが英語を話せた。時刻にして18時頃で、次のタブリーズ行き列車は22時にマラーゲを出るという。タブリーズ到着は24時か…。席は確保してあるが、急ぐなら駅前に屯してる白タクに、タブリーズまで行けるか交渉するといいと言ってくれた。

しかしまぁ、交渉するにも言語が通じない。まずはSIMカードが必要だ。カウンターの女性に大まかな位置を教わり、イランの町に繰り出す。手元のオフラインGoogle翻訳に、SIMが無くて困っている、携帯ショップを探しているとの文言を保存して。そこらしき場所に着いたところで、改めて住民に画面を見せて尋ねる。案内されたのは修理屋だった。修理屋にいた30後半ぐらいと思しきおっちゃんは少し英語を話せたので相談すると、向かいの店でSIMを売ってるけど、今日は金曜日でしょ?金曜日はイランだと休日なんだ、と説明された。事実、多くの店が閉まっている。時間も時間である。なんならイランの通貨は持っていないに等しい。そりゃ数倍積めばドル払いで売ってくれるだろうが…。仕方ないので、駅に戻る。

親切なイラン人とはいえ商魂は一丁前だ。タブリーズまで30$でどうだと言う。30$がいくらかというと、彼らの月収の半分ぐらいだ。あとで知ったことだが、イラン版Uberとも言うべき白タク配車アプリSnappでは、相場は2$ちょっとと表示される。さすがにそんなのに付き合ってはいられない。

駅に戻り途方に暮れていると、隣のベンチに大学生ぐらいの青年を連れた家族が座った。なんとかならんかと思い、相談してみる。青年は英語を話せた。「24時にタブリーズじゃあ随分遅いな、今から車で行けば21時には着く。私たちはテヘランに向かうから一緒に行くことはできないけど、Snappで白タクが捕まえられるかやってみよう」と言ってくれた。そこで相場を知り、連中の商魂に感心しつつ、捕まるのを待つ。捕まった!

青年は自分の口座から相場運賃を支払ってくれた。ドルしか持ち合わせがない我々を思って、相場の2$ちょっとをくれればいいと言ってくれた。いやもう、君には何ドルでもあげたいぐらいだ。5$札を渡すと、「これじゃ多いよ」と言う。「いやいや、君は大変親切だ、タブリーズに深夜到着することには不安があった、ありがとう、君のおかげだ」と押し切り、たった5$、スタバのトールサイズ1杯分でなくなってしまうだけの金を渡し、白タクのもとへ向かう。注釈すると、マラーゲからタブリーズまでは140km。ガソリンがほぼ無料で手に入り、失業率が高く人件費がべらぼうに安いイランでは、この距離をタクシーで走って、せいぜい300円なのである。

青年は別れ際、運転手に、「彼らは私の友達だ、言葉が通じないからって何とか言って追加のお駄賃をねだるんじゃないぞ」と釘をさしてくれる親切ぶりだった。ここには親切な人物しかいないのか?

白タクは高速道路を140km/hに迫る速さでぶっ飛ばし、所々ある減速バンプ(広くて直線なイランの道路はこいつみたいに爆走する輩が多いので、道路に凹凸を作って速度を下げさせている)に揺られながら、21時、タブリーズ駅に回送された。ああ、私は6時間前ここにいたんだ。

アッラーは偉大なり

タブリーズ駅はもう1便の到着を残しているものの、駅施設は施錠されていた。うーん困った、ホテル行きとリクエストすればよかった…。途方に暮れて、改めて白タクを捕まえるかと思い、そこらの露店に話しかけにいったところ…

「日本人ですか?」「آره(はい)…へっ!?日本語!?」「ああ、俺、日本に居たことがある」「ファッ!?」「ちょっと待ってて、いま友達に車出させるから」

アッラーの加護は信教を差別をしないのだ。露店で屯していた初老の男性は、日本に住んだことがあるという。「娘が名古屋に住んでる」「奥さんが日本人なのよ」「ホテルどこ?アザディー?おっけー」「ホテル決まってないならうちに泊まっていってもらおうかと思ってた」「SIMカード要る?こっちじゃ安いから買ってあげるよ」と、何と言うか全ての言葉がパワーワードに聞こえる。なにせここはイランだ、言葉も通じない、通貨も持ってない、深夜の、タブリーズなんだから!

結局、名古屋に住んでいたという男性は、足代まで払って、途中で降りていった。その後無事ホテルまで配送された…。いわく、「外国人だろ?もっと金取らせろよ!」「バカ、日本人には親切にしろ!俺が払うから!」というやりとりがあったそうだ…。

怒涛の「「「イラン」」」に気圧されながら、タブリーズの中心街にあるアザディーホテルに到着した。雪で汚れた足を綺麗な絨毯で拭かせてもらって、不釣り合いに高級なフロントへ…。ボーイは、「お待ちしておりました。ハミディネジャード様(シーラの姓)から電話を預かっております」と電話を繋いで、シーラに無事ホテルに到着した旨、合流予定だったおっちゃんとは明日改めて会う旨報告した。シーラは「車掌から話を聞いたときは泣きそうだったわ」「無事に着いたみたいで安心した」「ゆっくり休むのよ」と慰労を受けた。

アザディーホテルはタブリーズでも高級な部類のホテルらしい。実際、ヒルトンとかそのあたりの、シティーホテルは軽く超えている、高級感が際立つホテルだった。気になるのはその宿泊料金。驚くなかれ、なんと朝食付き3000円である!先述の人件費安に加えて通貨イランリアルの価値暴落に伴うハイパーインフレの影響か、日本であれば1泊ウン万円しそうなホテルに、ビックリドッキリ3000円!とても「イラン」である。

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翌朝撮影した、タブリーズのグランドバザールに住む市場猫

部屋に入り、Wi-Fiに繋ぎ、日本との交信を図る。これが、件のFacebook「生存報告」Twitter「絶起報告」に至るまでの詳細な経緯である。名も知らぬ日本人のために心を痛め、できることなら何でも尽くし、協力してくれたイラン人、アフガニスタン人に感謝する。

なお後日談、シーラはイラン中南部の都市シーラーズ近郊に家族と住居を構えており、後の道中で泊まらせてもらった。電話の声色からなんとなくわかっていたが、ちょっと意外なほど若く、小柄で、かわいらしい感じのお嬢さんだった。彼女にはイランの道中、宿やバスの手配で毎度協力してもらった。イラン旅の最後は、若干体調を崩し、コロナウイルスから逃げるような出国だった。後の旅程をキャンセルするか決断するにあたっても相談にのってくれたし、イスタンブルの空港ホテルで休んでいる最中も、アブダビのトランジットも、成田について帰宅を報告するまで、始終私の様子を気にかけてくれた。イラン人は出国するにも極めて高額な税金を取られるそうで、トルコから比較的安価に飛べる欧州はともかく、日本行きは夢のまた夢だと言う。いつか私が十分な収入を得るようになったら、必ずや彼女を我が国に招待したいと思う。

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