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まるっきりの別人になりたい

年末になると、今年やり残したことはー?とか来年やりたいことはー?という質問がテレビや周囲で飛び交う。

他者を巻き込む心残りは、どうやって解消すべきなんだろう。
プラスの内容ならまだしもマイナスのときは一生抱えて生きていくんだろうか。

もう、「ごめんね」じゃどうにもならなくて、何を言っても「私がすっきりした」という事実しか残らなさそうなそんなもやもや。
っていうかごめんねじゃどうにもならないこと多くないか?これが大人になるっていうことなのか?

かの愛くるしいビーグル犬は言う。自分のことを嫌いな人のために時間は割けない。自分を愛してくれる人のための時間で忙しいから。と。

そんなふうに生きていきたい。
でも、明らかな自分の失態とか、お互いのほんの少しの勘違いがこんがらがって、こんな結果が生まれたのだとしたら、それを解くための時間は、「忙しい時間」に入りはしないのだろうか。
「元愛してくれた人」にはどんなふうに接するべきなんだろう。恋愛でも友愛でも。

きっとこんなふうに悩んでいるのは私だけで、向こうはとっくに私を嫌う気持ちすらも消え、私という存在を抹消して暮らしているに違いない。
かくいう私だって、毎日毎夜、思い出してくよくよしているわけじゃない。
心身ともに弱った夜に、ふと思い出して悶える。
連絡してしまおうか、とメッセージアプリを開くも、ろくな文章も組み立てられずにまた閉じる。
今思いの丈を綴って、すっきりしたとしてそれで解決するわけじゃない。表面上は何もなかったことになっても、そこからまた時間を共にして、再構築していくわけじゃないから、結局新たなもやもやが生まれるんだろうな。

共通というのはやっかいで、共通に過ごした時間やそこから生まれた共通の友人たちの存在が完全に忘れさせてはくれない。私を忘れてほしいとか、忘れたいとかそんな感情がぐるぐるになる。
たまに腹も立つ。どこから吹いてきたかわからない風の噂で漏れ聞く言い分に時空を飛び越えて反論したくなる。
できないから余計にもやもやして、そしてまた眠れない夜が来る。いつだって語る方が正義なんだ。それなら時間も空間も飛び越えて反論すべきなんだろうか。

きっとこの先も、後悔はたくさん積み上がっていくんだろう。人間関係だけじゃなくていろんな選択で。その度にこうして思い出したくない思い出が増えるなら、顔も名前もまるっきり別人になりたい。まっさらの記憶で歩き出せたらどんなにいいか。
だからって誰かの何かを背負うだけの覚悟も気概もないから、今からぽんと生まれ出る誰かになりたい。
そんなことできやしない。
え、それってほんとに私の言動ですか?
と言いたくなるような過去。
もはや別人に思えるくらい遠い昔の自分。
他人のエピソードとして聞いても自分だと思い出せないくらいの自分を抱えて引きずって、手放して忘れて思い出して抱えて、
それが生きていくってことなのか。
辛すぎやしないか。

弱ってるときや長すぎる夜、止められない記憶を止める術を知りたい。
記憶の箱やバケツをひっくり返したみたい、とかよく言うけど
ひっくり返した記憶もないのに。
引き出しだって開けた覚えはない。そもそも引き出しにしまった覚えもない。

嫌な思い出もいい思い出も全部ひっくるめて、今の私だし、そんな私を愛してくれる人もたくさんいて、たしかにその人たちを大事にしていれば、時間なんてあっという間だ。
そんなことは、重々承知で、それでもこぼれてしまった人やこぼしてしまった人に目がいくのはなんでなんだろう。

自分の中に残す記憶を選べないなら、いっそ毎日の夕飯のメニューだけで記憶がいっぱいになってしまえばいい。

こうやっていろいろ考えて、私は楽しくしたり幸せになったりする資格がないんじゃないかと思う。
そんなことをため息くらい小さく呟いた夜更けに友人が言った。
「後悔の分も全力で幸せになるしかないんだよ。」

そうか。
そうかもしれない。
それだってすごく難しくてできるかわからないけど。
言われて嫌だったことばかり記憶にたまりがちだし、見つけがちだから
これはちゃんと覚えていよう。



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