見出し画像

もしかして思いこみ

今日、お昼にテイクアウトの美味しいシュリンプマスタードのカレーを食べて、大好きなコーヒーを淹れていたら、ぼんやり浮かんだ。

家族に対して勝手に自分で責任を背負こみすぎている可能性。

ハッとした。

心配かけないようにとか、連絡しないと寂しい思いをさせるんじゃないかとか、外出自粛が続くなか、私がいなくて社会的つながりは大丈夫かとか、これもあれも助けないと、とか。これってもしかして、俗に言う思いこみ?頼まれたわけでもないのに気にかけすぎた結果、気が付けば身体中のいたる所に糸たる糸が絡み付いていて、まったくもって身動きがとれなくなってしまったようなどうにも窮屈な気分になり、「明日はLINEも一切開かないのでよろしく」と家族にメッセージを送った。思い起こせば何回も同じようなことを繰り返している気がする。勝手に注がれた期待をつくりあげて、なんとかそれに応えようとまやかしに向き合い、でも小さい頃からひとりの時間が好きだったわたしは結局途中からうまく息ができなくなって家族との物理的なつながりの一切を遮断する。で、黒い点みたいにちいさな罪の意識にひとりでうんうん唸る、以下エンドレスリピート。おお、神よ。


冷静に、ちょっと後ろ斜め45度くらいの位置から他人の目を借りて観てみることにした。

なんかこれ、自爆してません?私。

これはたぶん元来の「ひとが好きなくせしてひとりで過ごせる時間をコンスタントに取れないといつのまにかハゲそうになっている自分の特性」を許せていないというのが大きな原因のひとつなのかもしれない。すべての物理的つながりをほったらかしにして自分の海に深く潜ってしまう私をきっと家族は許してくれない、そんなわたしはもうこの世に生きている価値がないのよ、ええそうよ、わたしはこの世の循環の一切からつま弾きにされたダメ人間に違いないわ!ああ、なんて可哀想なわたし!神はなぜこのような試練をわたしにお与え賜うた!お、お……!みたいな。

こ、これは……。完全に悲劇のヒロインを拗らせまくっていないか?私。

「年齢とは、現代社会を簡便にするためだけにつくられたただの数字である」とは、いつかの時代の著名な哲学者が提示した言葉、ではなく日頃から私がひそかに胸に秘めている思いではあるが、そんな私もいよいよ四十路へのダンスステップを軽快に鳴らしはじめる1歩2歩手前の自立したいい大人である。それはもちろん家族だって同じで、むしろ相手は私よりも一馬身、いや、子育てを立派にやり遂げている点でもさらに二馬身三馬身も先を生きてきた人生の大先輩なのである。

たくましくいきられる人たちなのだ。

「あ、どうもこんにちは。ところで、拗らせたまま、思いこんだままあなたは笑って地球にさようならできます?」

大好きなのんびりタイムにやってきた突然の啓示。

それは、好きな食べものと飲みものランキングでも3本の指に入る大好きなカレーとコーヒーだったからかもしれない。

ありがとうね、カレーとコーヒー。いつか必ず恩返しするからね。

数々の勝手に背負い込んだ期待は、古より人々の信仰の対象とされた巨石のように重く、ただ残念なことに、私という存在は巨石でも信仰の対象でも何でもない。ささやかにテイクアウトの美味しいカレーによろこび、尊敬する先輩の焙煎したお豆でコーヒーを楽しむ、ただのそこらへんの人間である。

思いこみが形を伴い、私の目の前にペコちゃん人形みたいに(ぺコちゃんには最大の敬意を払いながら)姿を表したいま、それは跡形もなく消えてしまった。

「なーんだあ、そっかあ」

である。


何十年とぐるぐる悩み続けたことが、こんな形であっという間に雪みたいに溶けてなくなった。だからといって私はそれをとくに恨んだり悔やんだりすることはない。

だってまだ生きてる。生きてるうちに気づけてよかった。

まだまだこれからである。




もしよろしければ、サポートをお願いします☆これからもっと楽しんでいただけるように、磨きをかけるための力にさせていただきます!