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子育て、教育について考えたこと


私の子育てについていま思うこと


 ここでは,内田樹先生の子育て論をご紹介します。私自身の子育てについては「シミセンの子育て入門」で紹介させていただきました。そのときは、我が家の子どもたちが大学に入学したところまでのお話でした。いまは2人とも就職し、やっと経済的にも自立してくれるようになりました。もっとも、娘は同居しており、いままでと生活は変わりませんが。このあとは、結婚、出産(私にとっては孫)と人生の大イベントが続くのかどうかはわかりません。我が家の近所には同世代の家族が多いのですが、孫をかわいがる姿がちらほらと見られるようになりました。お隣でも赤ちゃんの泣き声が聞こえます。ちょっとうらやましい?かもしれません。さて我が家の子育てはどうだったのか。長男は一人暮らしをしていますが、ほとんど実家には帰ってきません。お正月に妻の実家(おじいちゃんの家)でいっしょに過ごすくらいです。それも、義父の認知症が進むからと頼んで来てもらっている感じです。長女はいっしょに暮らしていますが、ほとんど口をきいてくれません。母親とは盛んにおしゃべりをしていますが。私自身、受験の時期の2人には相当に厳しい接し方をしていたと思います。傷つけることも多かったと思います。取り返しのつかないことをしたのかもしれません。そして、その結果がいまなのだから、ちょっとさみしいですが仕方ないかなと思ったりもします。でも、小さい頃は本当にかわいかったのです。もう少し早くに、この内田先生のことばに出会っていれば良かったな、なんて思ったりします。ただ、それでも期待するのです。子どもたちが、自分の子育てをするようになったときに、初めて親の気持ちがわかってくれるのではないかと。私がどんな思いで自分たちに接していたのかということを。
 以下、私自身の自戒の念を込めて、内田先生の「あとがき」をまるまる引用させていただきます。(内田先生ならお許しいただけると信じて)


「気はやさしくて力持ち」内田樹×三砂ちづる(晶文社)からの引用


内田樹「あとがき」より
 子育てというのは、親自身が未熟な状態で始まります。そして、子育てを通じて親もしだいに成熟してゆく。そういう動的な過程です。未熟な親ですから、それと気づかぬうちに子どもを傷つけてしまうこともある。このことに例外はないと思います。
 僕は未熟な親として子育てをしてきて、ある時点で、「子どもを愛すること」と「子どもを傷つけないこと」では、「子どもを傷つけないこと」の方を優先させるべきではないかと考えるに至りました。「どうやって子どもを愛そうか」工夫するより、「どうやって子どもを傷つけないようにするか」を工夫する方がたいせつだと思うようになりました。
 というのは、「子どもを愛しているから」「子どものことを心配して」「子どもの将来のことを考えて」という理由で子どもを傷つける親が実に多いということを骨身にしみて知ったからです。「愛している」という感情的事実は、愛している当の相手を傷つけることを制御できない。それだったら、「愛している」ということにはあまり意味がないんじゃないか。そう思うようになりました。それだったら、むしろ「傷つけない」ことの方を気づかった方がいい。
 その結果、僕は子どもに対して「敬意を持つ」ことに決めました。この子の中には僕の理解や共感を絶した思念や感情がひそんでいる。そのことをすなおに認める。そして、無理をしてそれを理解したり、共感しようとしたりしない。
 無理なことはしない方がいい。相手が自分の大好きな子どもであっても、その子のために無理はしない方がいい。
 無理なことをすれば、それは親の子どもに対する心理的な「債権」になるからです。「私はこれだけ無理をして、想像力を発揮して、自分の価値判断を抑制して、あなたのことを理解し、共感し、受容しようと努力してきたのだ」というふうな言葉づかいで自分の「子どもに対する愛情」を(口に出さないまでも)語ってしまうと、その「努力」の分だけ親は子どもに対して「貸しがある」という気分になる。「貸し」があれば、どこかで「回収」したくなる。
 だから、「あなたのためにこれだけ努力してきたのだ」という言葉を親は決して子どもに向けるべきではないと思います。それは、子どもを傷つける度合いにおいては、「誰に食わせてもらっていると思っているんだ」という言葉とそれほど変わらない。
 今の世の中では「愛する」ということが人間の感情のあり方としては至上のもののように思いなされているようですけれども、ほんとうにそうなんでしょうか。僕はそれよりも「敬意を抱く」ことの方が感情生活においては、たいせつだし、困難なことではないかと思うのです。
 人間は他人から熱烈に愛されていても、それに気づかないということはあります。でも、他人から深い敬意を抱かれていて、それに気づかないということはまずありません。敬意にはどんな感情表現よりも強い伝達力があるからです。敬意は、愛情よりもはっきりと相手に伝わる。たぶん憎悪よりも、羨望や嫉妬よりも、はっきりと伝わる。「鬼神を敬して之を遠ざく」という言葉が『論語』にありますけれども、これはコミュニケーション不能の相手であるはずの「鬼神」でも、人間が示す敬意には反応するということを教えてくれているのではないでしょうか。
 なによりも、敬意には「これだけ敬意を示したのだから、見返りをよこせ」という「債権督促」メッセージが含まれていません。敬意はただの敬意です。何の底意もない。メッセージがあるとしたら、それは「私はあなたを傷つけたくない」ということに尽くされます。
 もちろん、それでも未熟な親が子どもを傷つけてしまうことは止められないでしょう。でも、かなり抑制することはできると思います。
 子どもに対して敬意を以て接すること。
 子育てについて語った言葉は無数にありますけれども、このことを最優先に語る人があまりいないようなので、子育てについて長々と書いて来た最後の一言として、ひとことだけ書きとめておきたいと思います。

榎本博明著「勉強ができる子は何が違うのか」を読んで、その後、考えたこと


 ということで、最初に読んだときはなるほど、その通りだと思って、保護者会の資料にも入れたのですが、でもな、と思う部分もあるにはありました。やっぱり、ダメなことはダメと言わないといけないし、受験生にも関わらず、あるいはテスト前なのに普段と変わらないダラダラした生活を送っていたら、少しは声を荒げて注意することもあるでしょう。あるいは、いくらほめることが大切とは言っても、簡単なことでも、何でもかんでもすぐにほめていたら、それ以上がんばらない人間になってしまうかもしれません。そんなこんなを、自分の子育てや教育に関わる仕事に取り組んできたことをいろいろ振り返りながら考えているときに出会ったのが、榎本博明著「勉強ができる子は何が違うのか」(ちくまプリマー新書)です。
 ということで、この本を紹介しながら、もう少し私自身が考えていることを書いていきます。本書の「はじめに」にも書かれていることですが、勉強ができるだけではダメかもしれませんが、勉強ができるようになりたいとは皆が思うことでしょう。そして、スポーツや芸術などとは少し違って、勉強は努力すればするほどできるようになるとも思えます。ただ、時間をかけてやっている割には点がとれない、なかなか覚えられない、なんていう人もいるでしょう。いったい、勉強がよくできる人と、そうではない人で何が違うのでしょうか。そこで本書では3つの能力に注目して話が進められていきます。いわゆる学力そのものとしての認知能力。それから、なかなかはっきりと目には見えない非認知能力。さらに、自分の認知能力を上から眺めるメタ認知知能力。これらの3つを順に見ていきます。
 認知能力とはいわゆるIQなどで測ることのできる知的能力のことです。ある程度までは遺伝で決まってしまうところもあると思います。しかし、何でもそうですが、遺伝半分、環境半分くらいに考えておくのが良いと思います。そして、認知能力は鍛えることができます。繰り返し、繰り返し取り組むのが基本です。IQテストにしても、似たような問題に繰り返し取り組んでいれば得点が上がるのは間違いありません。ただ、ここで、繰り返し取り組むことができるかというのが問題になります。それが非認知能力です。
 非認知能力とは自分をやる気にさせる力や忍耐強く物事に取り組む力、集中力、我慢する力、自分の感情をコントロールする力など、学力のような知的能力に直接含まれない能力のことをいいます。かなり多岐にわたる力ですが、いわゆる目に見える学力の土台になる部分のことで、本当はここが一番大事なのだと思います。そして、これもまた鍛えることができるということです。ただし、本書にはどうすれば非認知能力が鍛えられるのかは書かれていなかったように思います。私は、子どもの非認知能力を育てるには、ときには厳しく接していかないといけないこともあるだろうと思っています。言い方をちょっと間違うと傷つけてしまう場合だってきっとあるでしょう。しかし、それを怖れて何も言わないというのはちょっと違うような気がしています。子どもたちはその場しのぎで、しんどい道と楽な道があれば、楽な道の方を選ぶことが多いでしょう。よく理科の授業でいうことですが、並列回路で抵抗が小さい道と大きい道があったらどちらにより多く流れるか。もちろん抵抗が小さい方です。そして、そういう選択をする子が多いと感じます。けれど、しんどいことを乗り超えていかないと見えないものがあるのも事実です。私の数少ない体験からですが、山登りにたとえると、しんどい思いをして頂上まで行って初めて見える景色があるはずです。それを子どもたちには伝えたいと思っています。「目標を持とう、目標に向かって努力しよう」と伝えているのはそのためです。しかし、ふと思うことはあるのです。将来のためにと我慢を強いるのは本当に正しいことなのだろうかと。楽しいことは続けられるし、楽しいことは伝染します。勉強にしろ、スポーツにしろ、どうせするのならば楽しい方がいいに決まっています。しんどいけれども楽しくはありたい。「苦(くる)楽(たの)しい」ということばは遠藤周作だったかが書いていました。算数の時間に「難(むず)楽(たの)しい」と言ってくれた当時小5の生徒もいました。苦しいこと、難しいこととワクワクすること、楽しいことは両立できるはずだと思うのです。ただ単に将来の目的のためにいまを犠牲にするというのではなく、いまやっていることそのものを楽しむ(コンサマトリー)ということがきっとできると思います。それがベストなのだと思うのです。
 さて皆さんはマシュマロテストを御存じでしょうか。今すぐ食べると1個しか食べられないが、何分間か我慢していれば2個食べることができる。そういうことを幼児に伝えます。年齢にもよるようですが、我慢できずにすぐ食べてしまう子と、そうでない子がいます。そしてこのテストを受けた子どもを追跡調査すると、テストで我慢できた子どもたちの方が、大人になったとき健康で幸せな生活が送れていたというのです。それはきっとそうなのでしょう。自己コントロールできる力というのは相当に大切なものなのだと思います。それを育てるには、幼いころからある程度我慢させることも必要なのでしょう。本人にとっていやなことつらいことでも我慢してさせるのと、子どもの欲望にあわせて楽しく行動させるのと、しんどいことと楽しいことと、きっと両立させてより良いものにしていくこと(アウフヘーベン)は可能なのだと思います。そのことをよくよく分かった上で、ほどほどに、良いさじ加減で子どもへの声かけ、子育て・教育を行なっていくべきなのだろうと思います。
 それから、メタ認知について、こちらも非常に重要な概念だと思います。いままで気づいてはいたのですが言語化できていませんでした。よくあることですが「全部できた」「全部埋めた」などと言う生徒はたいがいできていません。自分が、何が分かっていて、何が分かっていないのか、そのこと自体が分かっていないのだろうと思います。「最後の問題がよく分からなかった」「〇番でミスをしてしまった」などと言える生徒はだいたい高得点をとって来ます。これは入試でも同じことです。自分を俯瞰し、どういう状況に置かれているかを認識できるというのは非常に大事な能力であると思います。こういう力は「メンタルローテーション」(頭の中で文字や立体を回転させます)とつながっているということを池谷裕二先生が書いていました。そして、この力はパズルなどを通しても鍛えることができます。自分はいまこの話を理解できているとか、もう少しで解けそうなところまで来ているとかそういう状況把握ができることが大切です。あるいは、自分は理解できていない、分かっていないということ、それ自体が分かっているかどうか、そこが大切です。分かっていないと分かれば、すぐに質問する、友だちに聞く、帰って復習するなどと対処することができます。
 本書の最終章では読書の大切さについても書かれています。ほとんどの場合、ことばの意味を知らないために文章全体の内容が把握できなくなっています。たくさん読むことで、たくさんのことばの意味を覚えていけると良いでしょう。語彙力は、やはり認知能力の土台になるものでしょう。
 学ぶこと自体を楽しみながら、非認知能力を育てること、メタ認知を常に意識することを肝に銘じて、ふだんの学習に取り組んでいってください。そして、子どもたちにはぜひ幸せな将来を迎えてほしいと思います。

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