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先日、国際協力の勉強会で、少し議論したことを、こちらにもシェアしておきます。これは、わたしの当日の発言について、後日、補足説明して投げかけたものです。

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みなさん、こんにちは。

昨日のおしゃべり会では、とても楽しいお話をありがとうございました。残念ながら最後の難民のお話しか、しっかり伺えなかったのですが、最後に一言だけ発言させていただきました。

こちらのイベントの説明(略)でも書きましたが、実は難民の当事者や援助機関だけではどうしようもならないのか、難民受け入れ国の法律というルールの存在です。わたしも、JICAやJBICの調査で、いろいろな国際機関や現地NGOのコミュニティ開発の評価をおこなってきましたが、結局、善意や熱意だけではどうにもならないことの一つが法律の問題です。

具体的な法律上の権利の問題として、土地の権利(テナントといいます)、働く権利(難民は経済活動をすることが許されていない場合が多い、これは法的な問題です)などが難民の生計活動に直結します。

一方、最低限の生存権や居住権は「難民キャンプ」という囲い込みで保証といいますか、ここに入るための条件と入った場合の制限事項をどっさりと詰め込んだルールによって、一部の人権を制限された状態で「生存と居住」が確保されている場合が多いです。

与件とされる条件にみたなくて入れなかったり、制限がいやで入らない人たちが、元から住んでいる住民との間で、さまざまな紛争を起こしながらも共存していかなくてはならない。

もう40年も50年も前のパキスタンのアフガン難民のための難民キャンプの井戸掘りによる給水案件を日本のODAで実施したことがありました。ところが、日本政府はいくら援助しようとしても、難民受け入れ国から長らく断られたという話を聞いたことがあります。

その理由として、難民の定住を恐れる受入国政府が、恒久的な家屋や給水施設などの恒常的な施設建設を渋ったとのことです。つまり、その土地に難民が住むことによって「既得権」や「居住権」を与えてしまうことになってしまうからです。

難民キャンプは、さすがに既存の街の真ん中につくられることは少ないと思いますが、どんなところであれ、そこには「土地の所有権=テナント」が存在します。

これは、「人道援助」とか「緊急援助」だから(難民を救うために何でもやってもいいとはいいませんが)、という視点から、もれがちな「国が管理している権利」と人間としての「基本的人権」との衝突のケースです。

わたしの発言のあとで、ある方が「難民」と「移民」の違いを強調されましたが、その違いよりもむしろ「国内避難民」も含めた、移動を余儀なくされた人たちが、移動先で、どこまで「人権」が保証されるのかということに、すべてとはいいませんが、多くがかかっていると思っています。

つまり「移動の自由」とか、「居住の自由」、「就労の自由」などが、ある程度、確保されていれば、移動先なりで、あらたな生計を営むことができますが、「近代資本主義国民国家」という現代世界の社会体制の中では、なかなかそうはいかないのです。

難民にかぎらず、多くの国の少数民族などは、役所への出生証明がないがために、国民としての権利が与えられていないことが多いです。国民として登録されていないがゆえに、そこに大昔から住んでいても、国の帳簿では「いない=存在」しないことになってしまっています。

さらにいうと、国籍のない人が、いくら土地の権利を主張しようとも、国民として存在していない人の土地は、「無主の土地=国の土地」という、われわれの考えでは想像もできない土地収用が、今でも平然とおこなわれている。さらにいうと、それは今だけのことではなく、植民地支配のあったアフリカやアジア、中南米で数多くおこわれてきたことは歴史が物語っています。

つまり、植民地政府によって「市民権」を与えられた「市民」、今日でいう「国民」に該当しない人は、いまでもたくさんあるわけで、「人間」だとカウントされていないので、「人間の権利=人権」が与えられなくて当然だというのが、近代法の考え方なのです。

この議論のポイントは、だから慣習法を尊重せよという議論にはならないということです。慣習法の考え方を、その国の法律に組み込むことは必要でしょう。しかし、21世紀のこんにちでは、国連システムの中での考え方、各種条約などを無視した国内法は、先進国でも開発途上国でも原則ありえません。(批准されていない状態が続く)

かなりざっくりと話しましたが、最後に話題になった「受け入れ先のコミュニティ」と「難民コミュティ」の両方を支援するというやり方は、確かに当座の対応として正しいし、有効であることはわたしも現場で見てきています。

ただし、そのような「善意」の援助機関の活動(プロジェクト)を実効的なものにするには、最低でも受け入れ先の当事国の法律的な制限にぶつからないのかの調整が必要となります。

これが、昨夜に話しかけていた「人権」の問題として取り上げる必要がありますよ、という指摘についての補足説明です。

ご意見、コメントをよろしくお願いいたします。
長文、失礼しました。

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