見出し画像

なりたい自分を思い浮かべる

生まれてはじめて、お洒落を始めました。

と言っても、たぶん客観的にはぜんぜん、お洒落のうちに入らないと思うけど、

どんな服が着たいか考えて、服を買いにいって。(コンサル:夫)
ちゃんとした下着屋さんでサイズを測ってもらって買って。
服に合わせて靴も買った。(コンサル:夫)
お風呂あがりにパックなんかもしている。(効果があるのかは不明)

世の人々は、当たり前にこういうことをしているんだろうけど、
26年もの間これまでずっと、お洒落が苦手で、避けてきたので、

わたしにとってこれは、かなりの、大冒険です。

今のところの感想としては、

次の日に何を着るか考えるのが楽しい。(義務感じゃない)
周りの人と自分を比べて落ち込むことが少なくなった。
ちょっと仕事ができる人の気分になれる。

反対に、

朝の支度に時間がかかる
ちゃんとした下着は、ものすごく肩がこる
ぺたんこ靴じゃないので信号が変わりそうなときも走れない

といったこともわかってきたけど。

どんな格好をしたいかを考えることは、すなわち、どんな自分でありたいかを考えることでした。

これまでお洒落への苦手意識を自分なりに分析したところでは、

知識がない
センスがない
体型がコンプレックス
子供の頃アトピーがひどかった
自分の身体の女性性を受け入れられない

などが原因だろうと思っていました。

でも、わたしはそれよりずっと前の段階で躓いていたことがわかりました。

それは、
なりたい自分を思い浮かべることが苦手
というかむしろ
なりたい自分を思い浮かべようとすること自体を肯定できない
ことでした。

考えていくと、わたしのなりたい自分の要素は、

落ち着いていること
自分のテンポで歩けること
知的であること
女性性を誇示することも隠すこともなく居られること

などでした。

これらは、今思えばまったく、実現不可能な野望というわけではなかったのです。

自分がどうなりたいかを考えることそのものに、思考のストッパーがかかっていたのだと思います。

振り返ってみると中学や高校の授業での「人生設計」みたいなものも、
○歳で結婚、○歳で子供を持つ
みたいなことを70か80歳まで埋めるようなシートに
何ひとつ思い浮かばなくて、1文字も書きませんでした。

そもそも、このあと何十年も生きていくことがイメージできなかったのと、
叶わないであろうことを思い描くことに意義を見出せなかったのだと思います。

それは、叶えられなかったときに自分に失望したくなかったからかもしれないし
手近な目標を達成することでしか自分の価値を信じられなかったからかもしれません。

「夢を諦めないで」
とはよく言われますが、

「叶わないかもしれない夢を持つ」
ことそのものも、自己評価の低い人間にはけっこう一大事業だったりするのです。

最近になってやっと、何十年というスパンで人生を捉えられるようになってきました。

いま、積み重なった自己否定の負債を少しずつ返済している途中なんだと思います。

たぶんこれからも、自己肯定と自己否定の波を繰り返しながら、生きていくんでしょう。

でもいま少し、生きていることが楽しいなと思っている。

これから先、反動でまったくお洒落したくないと思うこともあるかもしれないけど、それは逆戻りじゃない、と信じたいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?