![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/140568795/rectangle_large_type_2_7d2e8ef59558bb4a486a9e5b3bb01ca2.jpeg?width=800)
公園だもの・5月だもの 上手い写真を撮る人は「いい写真」を撮れる人だと思っていた
![](https://assets.st-note.com/img/1715655458592-ZKYxDHn1ia.jpg?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1715655459765-Ueh4iN1Ar2.jpg?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1715655458265-3Qht7BL0V7.jpg?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1715655460206-vwlws5SIpn.jpg?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1715655458165-bNycyOfmFP.jpg?width=800)
上手い写真を撮る人は「いい写真」を撮れる人だと思っていました。でも写真を表現と考えてやっていると「上手い」と「いい」は別のことであって、「いい写真」というのがどのような写真を指すのか曖昧で、よく分からなくなってきました。
いわゆる写真評論家と言われる人が「こういう作品が、いい写真なんですよ」というのが、自分には「どこが、いい写真なんやろう?」というふうに見えることが度々あったからです。そして、今もあるからです。
それは、自分に写真を見る目がなかなか養われないからなのですが、かと言って自分に写真を見る目が出来るのはいつのことになるやら分かりません。それで思うようになりました。自分がこの人ならと思える写真家を見つけることが、自分にとって写真を見る目への足掛かりになるのではないかと。
その写真家の撮った昔の写真だけではなく、これからも見てみたいと思える人の撮っている写真が、自分にとって「いい写真」なのだと思うようになったのです。もちろん、写真史という過去の写真家からも自分にとっての「いい写真」を見つけることもできます。
その中で自分がこの人ならと思える写真家を見つけられるか、そんなことが自分にとっての「いい写真」へ繋がってゆく気がしています。ただ、その写真家を崇拝してしまうのはマズいので、あくまで尊敬でありたいと思っています。
(2024年5月中旬・東大阪市、花園中央公園)