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逃げるは恥だが道は開ける

「逃げ」

重要な選択をする時、やたらとつきまとってくるこの言葉。

どうして「逃げ」というワードにこんなにも嫌悪感を抱いてしまうのだろうか。

辛いこと、不得意なこと、義務感があること、もうやりたくないこと。そんなものからはどうしても逃げたくなる。

でも、どうにかして「逃げ」ではない選択をしたい自分がいる。逃げを避けたいだけなんだ。

だって逃げる自分なんて情けないから。

逃げているつもりじゃなくても、周りから「それは逃げだよ」と言われそうで。そして「逃げてるわけじゃないんだけどな」と言い聞かせる自分にも嫌気がさす。

今の自分の状況から逃げ出すための道具に他のことを利用すると、この先しんどいことが起きるたびに、一生「別の何か」を追い求めることになりそうで、逃げるのが怖い。

正直何かから逃げるのは一瞬の出来事。

そこまでの道のりと、それからが長い。

その決断に至るまでの葛藤と、決断した後の揺らぎ、後悔、無力感。

これをどう対処しようか。

こうやって考えることさえもめんどくさくなって、もういっそのこと「全部白紙にしようか」と思えてくる。

本当は「逃げるが勝ち」なんじゃない??

人生にはやり直しが効かないと聞くけど、本当にそうだろうか?

挑戦は怖いし、失敗も怖い。始めるのも終わるのも。

でも、新たなスタートを切るのに、遅いなんてことはない。絶対に。

決断したその時が、「最も早い」時だから。

また、「本当にやりたいのか」「本当にやめたいのか」という判断は正直難しい。

だれも、本当や真実なんて知らないからだ。

だから「やりたいことの原動力が一体何なのか」ということを考えるべきだ。

「好きだから」「得意だから」「お金が欲しいから」「親を安心させたいから」「自分を変えたいから」「こんな自分が好きだから」

人によって原動力はそれぞれだが、その原動力に自分が納得しているかどうかが大事。どれだけそれに突き動かされているのかが。

原動力を考えた時に、どんな時でも何度でも燃え上がる気持ちになるのなら、それは良い原動力だ。でも、そこで冷静になって冷え切ってしまうのなら少し立ち止まって考えた方が良いのかもしれない。

やりたいことのためには、嫌なことも多少ついてくるのが当然だ。

しかし、その嫌なことがやりたいことを超えてしまった時、そこからさらに頑張るのは簡単なことじゃない。

私は、中高生の時、走り高跳びに意味が分からないほど熱中していた。毎日毎秒高跳びのことだけを考え、練習に打ち込んだ。

高跳びに繋がることならどんな辛いことでもできた。勉強は嫌いな方だったが、高跳びのせいで勉強が疎かになっていると思われるのは悔しいから、勉強も必死でやった。

高跳びの練習では、バーを跳ぶ練習は大好きだったが、地味で反復的な基礎練習は嫌いだった。しかし、1センチでも高く跳べるのならそれも頑張れた。

私の原動力は「お世話になった顧問に良い成績を出すことで恩返しがしたい」という所にあり、その原動力はどんな辛い状況でも燃え尽きることはなく、どれだけ冷静になっても「自分のためじゃなくて人のためにやってんのおかしくない?」などと考えたことは一度もなかった。

私にとって、どんな時でも心から納得できる原動力だったからこそ、最後まで諦めずに踏ん張り続けることができたのだと思う。


「逃げ」

逃げることは、別の道が始まることを意味する。

逃げは、挑戦すること。決断すること。

逃げない先には同じ道やはたまた予想外な道が続くが、あいにく逃げた先でも道は続く。

生きている限り、100%安全で予想通りの道はないし、100%危険だと決められた道もない。

何かを終えること、そして始めること。それが、逃げるということ。

情けないことなんかじゃない。むしろ、強くなれる瞬間かもしれない。







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