hitorigoto

おかげさまで、25年この世界を生きた。それなりに恵まれた環境で、子の意思を尊重する親のもと、「だいぶ自由に」育った。けど、温め続けた夢を追うのは、なんとなくビビッてやめてしまって。週5で働き始めて2年が経ったいま、人生に対するもやもやが濃度を増している。

すべてを捧げてでも追いたい夢だった。ストイックな努力家の自分がかっこいいと思って、日常を見下し、友情や恋愛をスキップしてきた。そんな人生の説明を何度も自分に対してしてあげている今日この頃。目的のない休日に「偉大な夢の正体は、子供ながらの単純な虚栄心」だったことを暴いて、暇をつぶしている。

なんでも挑戦できる環境が与えられたのに、ごくごく平凡な社会人になってしまった現実にびっくりだ。もう、無茶はできないお年頃。このあとのルートでミスをするのが恐くて及び腰になっている。未だに交際経験はないが、結婚して子供を育てる以外の未来が描けない、描こうとしない自分。夢追いのギャンブラーから普通に生きる平凡な女へとシフトチェンジできそうな自分に、心のどこかで安堵しているのも事実だ。

今の自分を最も規制しているのは自分だ。無意識な規範をいつか後悔する日は来るのだろうか。来る、絶対来る、と本能アラートが告げている!大体私は理性と感覚の優先順位が偏ると失敗するのだから。

しかし私には自分の具体的な望みがわからない。幸福のパッケージを、それは大方欲望のパッケージであるのだが、他人と同じように追い求めることしか、思いつかないのだ。自分に眠る、コアとなる龍がいまだ目覚めない。そんな感じ。頼むから、20代真ん中のいま、いますぐに暴れ始めてくれよ。

自分の「スキ・キライ」さえわからなくてひきこもった季節を終えて、あの頃より少しばかり余裕がある今の私。周りを見渡す習慣ができた。そうして感じ取った25歳の他人の生き方は多分に性別に寄りかかっていると感じる。大きな野望でもない限り、友人たちの幸せが、いわゆる「女の幸せ」とイコールで結ばれているように見えるのだ。

性別ってそんなにラディカルだっけ?人生に対してそんなに影響を与えていい要素だっけ?という疑問が沸き上がる。私はまだ「女」ではなくて、そんなことを思うのかもしれない。そういえば初潮が来たのも17歳ギリギリと遅くて、それまでは自分の性別はもっとレアでスペシャルな何かなんだと期待していたっけ。

ジェンダーは王権神授説みたいだ。みんなが当たり前だと思っているけど、ほんとうは歴史の中でそう思い込まされてきただけなんだよ。ジンセイの意味もシアワセの定義も実質は無だ。自分が何を採用するか、ってだけだろう。「この世に価値あるものはない」そんな絶望に対抗するための手立てになるのが魅力というものだ。感性が私たちの命に意味を与えて輝かせてくれる。だから性的魅力を否定するつもりもない。なんせ私の憧れは峰不二子だし。しかし、セクシーという概念に肯定感が押下げられ、傷つけられる瞬間がある。本来命を輝かせてくれる「魅力」という概念が、これでは本末転倒なのではないかしら。

「性的な魅力」という言葉が、その人の身体と心と言葉を、セクシャリティとパーソナリティを絡ませた良さを表すものになればいい。合わない型にはめられるのは辛い。他人を引き付ける人間の「生」の魅力が新しいセクシーとして認められてほしい。

このような考え方をしているのだから、自分の幸せの形は自分で探さねばならない。この手で作らねばならない。人生に対する常識をぶっ壊して、物事を根本から考える姿勢を忘れずにいたいと思う。思考は判断から、判断は認識から、認識は感覚から決まるだろう。感覚を鋭くして生きてゆけ。他人と世界に対峙する際、いつも奇跡だと思おう。とりあえず明日起きたら世界の匂いを嗅ぐところから始めようか。



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