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地獄の窯の底

前回の記事で話した不安障害を
本格的に発症した中学1年よりも前の話。

小さい頃、事の善悪についても
まだわかってない就学前後の話から。
親の気分次第で晩御飯が出てきたり
出てこなかったりするのが日常だった。

父の稼ぎでまだそれなりに裕福だったけど
自分が着たい服や食べたいものは
滅多に買ってもらえなかった。

一度買い与えた物も母の機嫌の善し悪しで
まとめて捨てられたり壊されたりした。
特に母は主に娯楽や漫画やゲームについて
目の敵にしており、何か気に入らない事があると
突発的に捨てたり、何でもかんでも
禁止するというのが常套手段だった。

憑りつかれたように習い事をさせられた。
ピアノ、バレエから、プール、囲碁、
そろばんとか習字とか変な塾とか色々。
恐らく親が幼少期にやりたかった事柄で
私を大成させる事に過剰に執着していた。
自分の人生でやりたいができなかった事の、
コンプレックスのリベンジのための
駒にされたような気持ちだった。
トロフィーチャイルドも欲しかったんだと思う。

長子はそういう重い期待を背負わされ
本人の意思を無視して色々と挑戦させられがちだ。

そうこうしているうちに自分が小四の頃に
父がガンで亡くなり、それまで住んでた
そこそこ大きな借家から引っ越し、
それまでやってた習い事全てを
急に辞めさせられる。

母が生活費を夜職で稼ぐようになって
朝帰りが続いてると、登校前の朝ごはんも
自分で作らないといけなくなった。

といっても料理を教えてもらった
経験なんて殆どなかったから、見様見真似で
胡椒を振った炒り卵を作ったり、
生パンにケチャップ塗ったり、
その上にチーズとソーセージを盛り付け
申し訳程度にピザパンにしたものを
弟と妹の分を連日作らされた。

作らないでいると
あなたは一番上なんだから
それくらい気を利かせてやりなさい
本当に使えない!
」と怒られた。

誰もいないから私がやらないといけなかった。
時折菓子パンやインスタントラーメンが
備蓄入れに入ってるだけで
明日は自分が作らなくて済む」とホッとした。

ある日、弟が担任に食事状態について聞かれ、
ありのままの状態を話し、その担任から
親に口頭注意が入ったらしく、家事の
世話係が改めて一人雇われるまでそれが続いた。

育児放棄が極まってた時期の話だ。
父がガンで死に、近所に住んでた
父方の祖母も地元に帰り、
これまでは雇っていて毎日のように
入れ替わり立ち替わりいたハウスキーパーや
ベビーシッターの人達が急に来なくなった。

今思えば収入が大幅に減り
雇用代が払えなくなったのだろう。

生活の質がガタ落ちしたのは当時
小4だった私の目からも明らかだった。
今までの生活が夢だったかのような
環境の荒廃ぶりに唖然とした。

挙句の果てに転校先では転校初日から
一週間程度で転入生歓迎ムードから一転して
先生もクラスメイトも忘れ物の多い
自分を問題児として扱い始め、
粗を探しては晒し恥をかかせて
いじめるのを楽しむようになっていた。

人に貸した教科書が返ってこない。
休み時間に話せる人が一人もいない。
自分の席で大人しく絵を描いてるだけで
なぜかノートを覗き込んできて内容を馬鹿にされる。
すれ違いざまに殴られて驚く様を馬鹿にされる。
ランドセルにつけてたマスコットの
キーホルダーを盗んで便所に投げ込まれる。


そんな問題があっても誰にどうSOSを
出したら解決するか判らなかった。
問題であると自覚するのに時間がかかった。
いじめられている自覚すらなかった。

感覚を麻痺させ解離で意識を飛ばして
その場を凌ぐのが精一杯だった。
音の出る玩具や実験体の猿みたいに
扱われてひたすら惨めな日々だった。

それでも世間体ばかりを気にする親は
不登校を頭ごなしに否定し許してはくれなかった。
味方も助けもどこにもなかった。

居心地の最悪な学生生活をしばらく過ごして
転校先で初めて参加した三者面談の時、
課題をせず忘れ物が多く授業態度が悪く
落書きばかりしている私について担任は嬉々として
親に報告し、親は私について
「交流が苦手で、そういう子なんです」
などとフォローしていたが、それに対しても
担任は悪びれる様子もなく
そういう子だって分かってたら
いじめなかったのに~、ねえ?
」と
笑顔で加害を自白していた。理解不能だった。

見下し、嘲笑、罵倒、マウントが
コミュニケーションの柱である親に
辛さを打ち明けても「自分はもっと大変だった
あなただけが苦労していると思ったら大間違い
という説教を延々とされ自分の辛さを
「たいしたことない」と矮小化されるだけだった。

まともなコミュニケーションが
どういうものか家で学ぶ機会に恵まれなかった。
他人への相談のしかたも、
助けを求める方法もわからなかった。

元々一人遊びが好きだったが、
本格的に人と話せなくなった。
そしてやがて中学に上がると
不安障害が酷くなり、教室に入れなくなった。
他人の笑い声が全て自分への悪口に
聞こえるようになった。いつの間にか
「幽霊ちゃん」というあだ名がついていた。
本当に死んで消えられたらどんなにか、と思った。

いつからか連日どう死ぬか考えていた。
自分にとって家も学校も檻で、
懲罰房で、地獄の窯の底だった。

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