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花嫁の船出2

イサベル女王がようやくラレード港にやってきたのは、その日の午後遅くになってからだった。

「フアナ、待たせたわね!」女王は両腕を大きく広げて、愛娘の船室に入ってくる。「ごめんなさい、遅くなって。今日の出発は明日まで延期することにしたわ。今夜は二人きりで最後の夜を過ごしましょう。これまで忙しすぎて、ちゃんと折り入ってお話しする時間ももてなかったことだし…」
フアナは黙ってうなずく。

豪華に内装された船室には、さっそくアペリティフやワインなどが運ばれてくる。その支度が整うまで、母娘は沈黙したまま船窓の外を眺めていた。最新の艤装を施した船がぎっしりと集うさまは、まさに壮観そのものだった。
「どう?すごいでしょう?」イサベルが娘を振り返って同意を求める。「あなたが嫁いでゆくブルゴーニュ公国は、我が国をもしのぐほどの豊かな国だけれど、これだけの艦隊を編成するほどの力はないはず」
「はい、お母さま」フアナは素直にうなずく。

「いいこと? これからフランドルまでこの大艦隊を率いていくのは、他でもないフアナ、あなたなのよ」母親は念を押すように言う。「あなたに付き添う貴族や司祭や兵士等の総指揮官をつとめるエンリーケス提督も、あなたの右腕として忠実に命令に従うことを約束してくれています」
「はい、お母さま」

「そもそもこの婚姻は、我が国とブルゴーニュ、イギリス、ヴェネツィアとの対フランス同盟を強固にするものとして取り決められたもので、あなたもご存知のように、入れ代わりにフアン王子に嫁いでくるブルゴーニュのマルガレーテを乗せて帰ることになっています。ですから、あなた付きの選りすぐりの女官たちだけではなく、マルガレーテ王女付きの数十名の女官も乗船させているし、戦艦も付き添わせているの。つまり、往きも返りも対仏同盟としての示威行為であり、折あらばフランスを急襲することも辞さない―このことを、よくわきまえておいてね」
「はい、お母さま」

「ああ…、この娘はほんとうにわかっているのかしら…」母親はため息交じりに独り言ち、また気を取り直して続ける。「特にドーヴァー海峡を通過するときには、フランス領土に接近することになるから気を付けなさい。それでなくても、敵はいつどんな形で襲ってくるかわからないし、人間だけじゃなく、自然の猛威の嵐や大時化だって…」

「お母さま、わたし、こわい…」娘は子供のように震えだす。
「おお…」イサベルは、悲し気な笑みを浮かべて頭を振りながら、立ち上がって娘の方へと歩みより、抱擁する。「ごめんなさい。不安にさせるようなことばかり言って…。大丈夫よ。あなたは本当は芯の強い娘だってことは、お母さまが一番よく知っているのだから」
「ほんと?」くりくりっとした緑の目をぱちくりさせながら、母親を見つめるフアナは人形のような愛らしさだった。
「ええ、ほんとよ」母親は娘をぎゅっと抱きしめて頬ずりする。「神様だってご存知だわ。あなたが凛としていれば、神様はいつもあなたに味方してくださるわ」
「お母さま、私、いつも凛としてるようにする」娘は、それまでとは打って変わったしっかりした口調で誓う。
「それでこそ、私の娘よ」母親は音を立てて娘の頬にキスをする。「必ず無事にフランドルに着いて、幸せな結婚生活を送れるようになるわ。さ、お腹が空いたでしょう? 食べましょう」
「はい、お母さま」

イサベルは自席に戻ってグラスの水を一口飲み、またもや長いため息をつく。
目の前の豪華な食卓は、彼女の趣味に合うものではなかった。普段の生活はむしろ質素で、節約にこそ美徳を覚える彼女だっただけに、我ながら違和感を覚える光景だった。
だが、これからヨーロッパ世界の表舞台に立とうとしているスペインという新興国にとって、これは必要不可欠な道具立ての一つだったのだ。それは夫フェルナンドもよく理解しており、二人はこれまで蓄積してきた富と人材とを一気に放出せんばかりの勢いで、歴史に残る見事な嫁入り支度を整えたのだった。

そこには、人目を避けるようにして質素な結婚式を挙げたカトリック両王の、子供たちにはあんな思いはさせたくないという願いも込められていたかもしれない。
だが、皮肉なことに、この場に居合わせないフェルナンドはもちろんのこと、イサベルも、そしてフアナ自身も、それぞれこの壮麗な嫁入り舞台にはほとんど関心もなく、今後の不安を抱えたまま、船出のときをできるだけ引き延ばそうとしているのだった。

映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。