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地味すぎるのに強烈な一枚 〜シンプルを突き詰めた究極の芸術〜

先日、東京国立博物館で開催されている展覧会に行ってきました。


「国宝 東京国立博物館のすべて」
その名のとおり、同館が所蔵する国宝がすべて公開されています。
まさに夢のような展覧会!
何となく知ってるけど見たことない、そんな作品たちと会える貴重なチャンスです。

名品だらけの展覧会ですが、入り口を入ってすぐ、1作目から超目玉の有名作品が登場します!


初めてその絵を前にしたときの衝撃たるや。
あの瞬間を忘れることはないでしょう。
絵を見ているというより、絵の中に吸い込まれていくかのよう
しばらく絵の前から一歩も動けませんでした。
展示室を進んでは戻り、何度も絵の前を往復しては、絵の世界に没頭。

今まで様々な展覧会で様々な絵を見てきましたが、ここまで心をぐわっと掴まれた絵はありません。


その作品とは、ずばり
長谷川等伯の「松林図屛風」です。

長谷川等伯「松林図屛風」
霧がかる松林と雪山を描いた作品。
描いた動機や目的は未だに分かっていません。
下書きだという説もあります。
(今回の展覧会では10月30日まで公開されています。)

長谷川等伯は安土桃山時代に活躍した絵師です。
豊臣秀吉にも重用され、数々の名作を残しています。
中でも「松林図屏風」は水墨画の最高峰といわれる、傑作中の傑作です。

正直、地味な絵です。あまりにも地味です。
スマホ画面で見ても何の感動もないかもしれません。
(絵を直接見た人の中でも「期待してたけど実際は大したことなかった」という意見が少なからずあります。)

描かれているのは、まばらな松と雪山だけ。
色はモノクロですし、画面は余白だらけです。
華やかさは1ミリもありません。


それなのになぜ、この超絶地味な絵に惹きこまれてしまうのか。

それは、松林に漂う大気そのものが見事に表現されているからです。

その迫真性は墨だけで描いたとは思えないほど!

霧の中のひんやりとした空気を思い浮かべてみてください。
「松林図屛風」を見ていると、その感覚が自然と呼び起こされます。
こちらが必死に想像力を働かせるまでもなく、ぴんと張り詰めた静かな空気が絵から溢れ出てくるのです。


水墨画なので色は黒だけですが
黒一色とはいっても、その濃淡の度合いは実に多様です。
1本の木の中でも意外と複雑な濃淡の違いがあり、見ていて飽きません。

墨が濃い箇所は近く、薄い箇所は遠くに見え、空間の広がりまで感じられます。
余白だらけの画面において、墨の濃淡だけでメリハリを効かせているのがすごすぎます!

筆致はかなり簡素です。
近くで見ると、何かの形というより煤そのものに見えます。
枝は線をシャシャッと引いただけですし、
葉は墨を歯ブラシでこすったかのよう。
抽象画かと思うような曖昧さです。

一部拡大

しかし全体を俯瞰すると、途端に形が立ち現れてきます。
松が風に揺れて残像を残しているようにも、霧のベールがかかって霞んでいるようにも見えてくるのです。
形を鮮明にしないことで、霧に包まれる松林の様子がかえってリアルに感じられます。

(余談ですが、こうした表現は後世のモネを想起させます。モネの絵については過去に記事を書いているのでよかったらどうぞ。)


絵で大気を表現すること自体は、それほど珍しいことではありません。
実際、中国の水墨画にはそうした表現が多々ありますし、後世の印象派の画家たちも然りです。
(実際、等伯は宋の水墨画家、牧谿の影響を強く受けていると言われています。)

しかし等伯のすごいところは、それをこれほど簡素な画面でやってのけたことです。
牧谿だってモネだって、ここまで潔くはなかったでしょう。
(もちろん牧谿もモネも素晴らしい画家です。)

シンプルイズベストとは言うものの、シンプルをベストにするのはとても難しいことです。

空間があれば埋めたくなるのが人間の性。
減らすより増やしたくなるのが人間の性。

しかし等伯は
余白を埋めず、色も塗らず、背景すら描きこまず
墨の濃淡と曖昧な線だけですべてを表現してしまいました。

余計なものが極限まで削ぎ落とされた「松林図屛風」。
その静謐な世界は、屏風の画面を超えて無限に広がっています。

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