ポップカルチャーと真相の新装

AI美空ひばりとその周辺に対してゴチャゴチャ言う企画第二弾です。

この話の結論:『真実はいつも一つじゃない』ということ。


なにはともあれAI美空ひばりを観て「違和感や罪悪感・背徳感に似た気持ちを生ずる」って人は、ツイッター見る限り私ひとりじゃない。その「なーんか違和感」をなんとか言葉にしてみようと試みました。そしたら「これってあの時の感覚と同じだなあ」って気付いた事案が2つあります。

1.『ボヘミアン・ラプソディ』のストーリーが嘘だらけなのに、映画が大ヒットしたのを見たとき。

2.最近ツイッターでバズり散らかしてたポケ剣盾の「原作未履修二次創作」で、「原作」と「二次創作」の本来の関係性の侵害を見たとき。

てなわけでこの記事では、「AI美空ひばりの倫理的失敗」「歴史映画・ドキュメンタリー映画の嘘」と「二次創作と原作の関係」を主に関連付けて喋っています。私がオタクなので”二次創作をするオタク言語”で書きました。

『ボヘミアン・ラプソディ→QUEENの映画で、めっちゃ流行った』と『ポケ剣盾エアプ二次創作→未プレイ勢のBLがバズった』程度のぼんやりとした前提知識があれば読めるとは思いますが、同人界隈に明るいオタクが一番読みやすい言語だと思います。悪しからず。


◎先ずは美空ひばりの尊厳について

美空ひばりに関して、例えば『こういう曲が美空ひばりの声で歌われたらきっとこんな感じじゃない…?』という妄想やその発表自体は別に良いと思います。発想自体は別に構わなかった。あれは「美空ひばりの二次創作」だと思うんです。でも何より彼女の尊厳を侵害しているのは、あの曲の発表のされ方途中の独白(「お久しぶりです。あなたのこと、ずっと見ていましたよ。頑張りましたね。・・・」)だったように思います。


・曲の発表のされ方

 『美空ひばりが歌ったらきっとこんな感じだと思う!』という、つまり『これはあくまで妄想です』的な表明を怠り、あたかも「美空ひばりは絶対こうやって歌います。これはもう本物同然。」みたいな態度で歌わせたことが問題。あくまで本物じゃないんですから『これは二次創作です、妄想です。原作とは異なります』って言わないとだめなのに、逆に『公式(遺族)に認知されてるので準公式も同然でゎ????』みたいな態度だったのがダメでした。あれでは原作を愛してるんじゃなくて、自分の「原作を元にしためっちゃエモい妄想」に溺れてるだけじゃないですか。原作を愛しているなら原作に敬意を払うもの。そしてその敬意とは、『これは単なる二次創作です』という表明に現れるもんじゃないの。愛してたら、愛する人を描くかも知れないが、その人に成り替わろうとはしないもの。お母さんが死んで悲しいからって、別の人が「息子さん公認でお母さんBot作りました!もう生き返ったも同然!寂しくないね!」っていうの、違うでしょ。そういう映画普通にありそうなんですけど。そういう意味で一歩引き逃した感じ。


・途中の独白

 独白を創作したことが問題。故人の意思を創作しちゃいけません。代わりに遺書書くのも同じことだぜマジで。どうしてそれが許されると思ってしまったんだ。


・所感(二次創作と原作の関係性と絡めて)

 「頑張りましたね」ってママに言ってほしかったからって美空ひばりにバブらせようという発想を悪びれずに実現してしまった辺りがピュアに気持ち悪い。それこそ、美空ひばりご本人がそういう「頑張りましたね」的なビデオレターを遺してたというのなら手放しで感動出来ますが、『そう言ってほしいからってその人の意思も顧みず、言ったことにする』ってのは、『ヤってないセックスの撮ってないハメ撮りを、その女の写真を使ってフォトショップ合成する』ようなもので、それは別にやりたきゃご自分の部屋でコソコソやるのは止められないし、そういうグレーな市場(二次創作の市場)で歓迎されうるのも分かる(実在の人物でエロ合成やって売っちゃ絶対ダメだよ)けど、せめてそれ相応の『非公式です。これは限りなくグレーです』って顔しなきゃいけない筈。『美〇ひ〇り二次創作』って書けまである。本当に二次創作と一緒なのよね。それを紅白歌合戦で堂々とやっちゃったじゃないですか。どんなに大手の二次創作でも、公式に認知されちゃダメでしょう。その”公式”とやらが、「9.25けもフレ事件」の『けものフレンズ』みたいに、たつき監督(この場合は美空ひばりご本人)を既に失っているなら尚更です。紅白歌合戦が「二次創作」的な所在の歌唱を認めるフィールドだという認知は存在しないのだし、そんなことはないと言いたいならば先ず初音ミクとかせめてカバーアーティストの台頭等で布石打つべきでしょう。

前回の記事では上記を<『俺の理想のひばりママ』を『美空ひばり』の実像に挿げ替えようとした、美空ひばりの自我を蔑ろにした非常に乱暴な動き>だとして批判しました。流石女の子たちの自我刈り込んで『俺の理想の女子』をマスプロデュースしてるだけあるよな。流石ですよ秋元さん。いい加減にしねえかな。



◎二次創作が原作に取って代わる?とかいう謎現象の問題の本質

 ここまで美空ひばりさんの尊厳を悼んで喋って来たけど、ここからは彼女の尊厳からは少し離れて、じゃあ社会にとっての『二次創作(AI美空ひばり)が原作(美空ひばり)の上に塗り重ねられること』の危険性って何なのってことについてちょっとだけ喋りたいと思います。

これに関しては先日呟いたこの140字が全てなんですが(前回の記事のまとめにもこのツイート使いました)


あんまりにも乱暴で分かりにくいので、何が言いたかったのかしばし釈明の余地を頂戴したいと思います。

ツイート補完・訳:
 誰かが死んだ後に作られる、その人を懐古する旨の芸術作品は、とりわけ「歴史映画」と名付けられる枠組みの中にあった。その名付け自体、それがフィクション(二次創作)であることの表明である。何故なら、「歴史映画」は、別の役者によって演じられるし、普通に考えてちょっとの嘘や独自解釈が入ってると誰もが分かっているから。
 <人の人生はよくできた物語じゃないんだから、現実は「歴史映画」に語られるほど都合の良いモノであった筈がない>というのは、映画を見る人間が有していることが当然のコンセンサスの一つである。つまり「歴史映画」は『諸説あるうちの、最もドラマチックなやつです。悪しからず』くらいの構えでいるべきなのだ。勿論作り手もそのつもりで映画を作ることが求められる。多少の脚色はスパイスだ、くらいの。
 しかし、最近それを忘れた「歴史映画」が増えてしまった。「この映画は真実を語っている」という、「この作品は○○の再現である」という、傲慢な「歴史映画」が増えた。自らを「フィクション」とか「二次創作」と表明できなくなった「歴史映画」は、最早歴史修正主義の一端でしかない。「二次創作が原作を塗り替える」現象である。『諸説あり。そのうちの1つを映画にしただけですよ。悪しからず』というコンセンサスのない「歴史映画」は、オリジナルに敬意を払わない。例えば、「我々一応二次創作ですけど、正確すぎてほぼ原作でしょう。」だなんて、原作に敬意のある作り手はそんなこと言わない。自らがオリジナルに上塗りしようとする「歴史映画」は、オリジナルに対しての敬意など端から抱いていない。
 つまり「AIで”よみがえる”美空ひばり」だなんて称してしまった時点で、AI美空ひばりには、オリジナル美空ひばりに対する敬意など欠片もないことが分かる。あれは「美空ひばりを蘇らせた僕たちすごい♡♡はあ僕たちすごい♡♡きもちい♡♡♡♡」ってなってただけじゃないですか。そういうナルシズム程、実像を過去においてけぼりにしてしまう。

 「二次創作」に過ぎない奴らが「準オリジナル」ぶる危険性。全国放送であの手のオナニーが受け入れられてしまう危険性。オリジナルを知らない我々世代には、「へえ美空ひばりってあんなんなんだ~」って思うやつがいるんだぞ。

例えば、あのポケ剣盾のエアプ二次創作がエアプ勢に広まって、しかもエアプ勢がその後誰もポケ剣盾を実際にプレイすることなく、エアプ勢の方がマジョリティ化したら怖いじゃないですか。だってポケ剣盾の本質がフェードアウトするでしょ。ポケ剣盾は多分そういう危険性は幸いにも少ないと思います。現行でゲームプレイしてる人沢山いるし、オリジナルの運営もまだ元気に動いてるし、エアプ二次創作のご本人がエアプを公言したお陰で問題提起もきちんとされたし(エアプ二次創作自体が自らエアプと表明するならばもうそこにあるのは仕方ないような)。エアプと言えど実況は見るみたいな人が多いから、『ミリしら(1ミリも知らない)勢』はカットできる可能性もあるし。でも美空ひばりはもう死んでるんですよ。若い世代(美空ひばりミリしら)の一番最新の記憶は『AI美空ひばり』なわけ。

オリジナルの美空ひばりを覚えている人が皆死んでこの世にいなくなったら、あのAI美空ひばりが、若い人たちの記憶の中に、美空ひばりの実像をそのまま映し出したような顔をして、悪びれずに『美空ひばりに関する一番新しい記録』として鎮座するんだぞ。そしてその『一番新しい記録』は、オリジナルの遺産をも侵食する。



上記の一切が突飛な危惧などではないっていう証明として、直近の最も分かりやすい例をご紹介したいと思います。


◎『ボヘミアン・ラプソディ』に見る「真相の新装」

映画『ボヘミアン・ラプソディ』。
伝説のロックバンド、Queenのノンフィクション、を装った「歴史映画」。オリジナルバンドメンバーのブライアン・メイが指揮に携わり、興行収入も物凄いことになってた。139億ドルだっけ。今の若い人たちの渦巻くエネルギーの最中にQueenの名曲の数々を蘇らせた功績は称えられるかも知れない。
更に、にわかQueenファンや後続世代からしてみれば、「オリジナルメンバーのブライアン・メイが携わってるから本格的(真実らしい)」と思い込むのも容易い。っていうか元々Queen世代じゃない若い人々にとってしてみれば、あの映画こそQueenの生きた真実になる。「Queenの歴史」というエキサイティングな教科書として、あの映画が機能するのだ。
これが「オリジナルの遺産の侵食」だ。
だってあの映画、実はフレディに関する嘘だらけなのに誰もそれを指摘せず愉しんでるんだもの。誰もそれを指摘しないルール違反なんて、そんなのルールがないのと一緒でしょう
インドの信号機見たことあります?
誰も気にかけない真実なんて、ありもしないのと変わらない。
こうやってオリジナルの歴史が上塗りされ、まるで見えなくなっていく。

斯く言う私も残念ながらQueen世代の人間ではないので、あんまり語る権利ないです。Queenの真実に興味がおありの方は是非「ボヘミアンラプソディ 嘘」とかでググってみられることだ。
私に出来ることとして、取り敢えずこちらの記事をご紹介させて頂き「真実」をかき乱しておこうと思います。


どうか「真実ぶった虚構」に、「オリジナルぶった二次創作」に、まるっきり騙されたりはしないでほしいと思います。
そして「真相の新装(新世代の大衆にとっての”真実らしい”デマ拡散)」を担うオリジナルを知らない若い人々が、『諸説有』というコンセンサスをどうかどうか、忘れてしまいませんように。最近のメディアってその辺の自己開示しないし。

「真相」というものは、特に現在に直接関わりの無い「歴史の真相」なんてものは、全然一つなんかじゃない。語り部によって変わるのが当たり前です(解釈違いが無数に存在するのと一緒ですね)。なのに「これが歴史の再現です(=これは最早公式も同然)!」みたいな顔した作品のいうことをまるきり信じて鵜呑みにして、且つ別視点の作品がまるきり目に入らなかったとき、我々は妄信し、異なる視点を持つ可能性を段々失っていきます。真実は一つじゃない。コナン君に盾突く気は無いけど。。。

『真実が一面的であるという勘違い』や『歴史が目の前で上塗りされていくことに気が付けない、妄信に基づく視野の狭さ』というのが、AI美空ひばりに違和感を覚えられないときに生じる社会としての問題だと思います。ここに警鐘を鳴らそう。


例えば

AI美空ひばりに皆が飽きて、AI美空ひばり批判を続けるのが怠くなって、本物の美空ひばりを覚えてる人が居なくなって、
AI美空ひばり対する批判の声が遠く聞こえなくなったその瞬間、AI美空ひばりは当たり前に、美空ひばりの実像を侵食する。

今は批判の声が、まだ大きく聞こえてる。この後どうなっちゃうのか、私は怖いです。誰も話題にしなくなったその時が怖い。

そしてその恐怖が『ボヘミアン・ラプソディー』によって全て現実になってしまった、あの映画の嘘を批判されることもなく、Queen世代と共に老いていくオリジナルのフレディ・マーキュリーとその記憶に捧ぐ:私はまだ、今少しうるさく私にあなたがたの実像を語り聞かせようとする爺さんをひとり知っております。大した良いニュースじゃ、無いかもしれないけど。でも若い私は少なくとも一筋縄で騙されてはいないと思うの。どうかあなたの尊厳が新しいペンキの下に影もないほど埋もれてしまったりしませんように。


◎おわりに(あとがきじみた駄弁り)

実はこの『歴史映画の嘘』っていうの
私が丁度一年前に書き終えた学士卒業論文のテーマなんですよね。


私の卒論は『歴史映画の嘘』について。例えば第二次世界大戦の映画なんか作るときに、勝った側はそれを「勝利の記録」としてロマンチックに描きたいわけですよね。それは戦士たちの傷を癒すかもしれないし、過去の行いを正当化するかもしれない。しかしそれと同時に、「記憶の上書き」という効果がある。学者がアカデミア言語に何を残すかに関わらず、時の大衆が「戦争とはあの映画のような物だったんだ」となんとなくでも思えば、それはもう『歴史的真相』が『大衆の思い込み』に上書きされ塗り替えられたと言って良い。
それが真相の新装です(指導教官と2人で考えたダジャレです)。
『大衆の思い込み』を防ぐのは、実は作り手側の「これは二次創作です。オリジナルとは別。あと諸説有だよ」っていう表明だった筈。それが段々不文律化して、挙句その不文律が読める人間がいなくなろうとしている。どっちの責任か。そりゃ勿論作り手のそれでしょうが、受け手たる大衆がその不文律を読むことが出来なければ、この責任問題は追及されることすらなく、デマは真実に成り替わる。二次創作は原作を侵食する。いくらでも。


「自分たちは二次創作です」って表明できる、たったそれだけの敬意を
「私達はオリジナルの意思とは関係のない場所でこれを作りました」って自己開示できる、たったそれだけの正直さを
「オリジナルが聖典、これは二次なので齟齬があったらオリジナルが正しいです」って言える、たったそれだけの、原作に対する真っ直ぐな愛情を

AI美空ひばりは何一つ持ち合わせちゃいなかった。



美空ひばりに、そしてフレディ・マーキュリーに
あなたがたをまるで知りもしない私から


どうか私が偉大なあなたがたを、まさか憐れまずに済みますように。


今はただ、ポップカルチャーの最中に、芸術家の尊厳を悼んで。
byさつき

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