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フィンセント・ファン・ゴッホ 1

カラス舞う麦畑、最後に男はピストルで自分の胸を撃ち抜きます。

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フィンセントと名付けられたその男の子は、オランダにあるズンデルトという小さな村に生まれました。ファン・ゴッホ家は祖父の代からの牧師の家庭で、キリスト教の戒律を守る厳格な父親と優しい母親の元、フィンセントは6人兄妹の長男として育ちます。

小さいころのフィンセントは内向的な少年でしたが、小学校へ入るとクラスのほかの子供たちとのケンカが増え、すぐに小学校は辞めてしまいます。仕方なく両親は家庭教師を雇い、フィンセントは家で勉強を続けます。

13歳になるとフィンセントは、地元でとても優秀な王立中学校へ進学します。ここでフィンセントはさまざまな学問を学びますが、とくに英語、フランス語、ドイツ語などの語学において優秀な成績を収めています。またこの学校では絵を描く授業が週に4回もありました。

美術の先生のコンスタント・ホイスマン先生は、風景画や農民の絵を得意とし、オランダの王様にも絵を購入されるような有名な画家であるだけでなく、画家としての研究やその成果をまとめた絵画技法書を出版するような理論家でもありました。のちにフィンセントにとって、とても重要な絵のモチーフとなる「農民の絵」を、彼はこの中学校ではじめて描いています。

画商として活躍

当時のオランダでは中学校を卒業すると、家の仕事の手伝いや会社に入って仕事を始めるのが一般的でした。フィンセントの叔父さんは画商をしており、この叔父さんの紹介でフィンセントは国際美術商グーピル商会という会社のハーグ支店で働き始めます。ハーグというのは大きな港を持つオランダの中心都市です。

地方から都会へ出てきたフィンセントはここで一生懸命に働きます。上司からの評価も高く、少なくとも最初の数年間はとてもうまくいっているように見えました。フィンセントが働いていたこのグーピル商会は当時パリに本店を構え、ニューヨークやロンドンなど欧米の各主要都市に支店を持ち、世界中の美術品を売り買いするようなとても大きな会社でした。ここでフィンセントは多くの素晴らしい芸術作品を見て、自分の目を鍛えていきます。

20歳のとき、フィンセントはハーグよりもさらに大きな国際都市であるイギリスのロンドン支店へ移ります。フィンセントはここロンドンで大英博物館やナショナルギャラリーなどの大きな美術館へ足しげく通い、また当時の美術の新しい流れであったフランソワ・ミレーやジュール・ブルトンなどの画家たちに心酔します。

その当時は電気やガス灯が発明され、線路が敷かれて機関車が走り、工業化がものすごい速さで進んでいるその最中です。国中の人々が仕事を求めて都会へ集中し、都市は人で溢れていました。しかしミレーやブルトンは、あえてそんな都会を離れ、森や田舎の村へ出かけ、素朴な田園風景や現実に汗を流して働く農民たちの姿をリアルに描いた画家たちでした。彼らが描いた人間の純粋でたくましい姿を見てフィンセントは感動します。

The Winnower, Jean-François Millet


またフィンセントは大都市ロンドンで、ありとあらゆる詩や文学やカタログなどを読み漁り、最新の芸術にも強く関心を持ち始めます。実際にフィンセントが画商としてグーピル商会で働いて得た6年間の知識と経験は、その後たびたび起こったほかの画家との議論で、彼を優位に立たせました。彼はどの絵が時代の先をいっているかを知っていたのです。

しかしロンドンでの生活は楽しいばかりではありませんでした。フィンセントはこのころ自分の住むアパートの大家の娘さんに恋をしますが、ふられてしまいます。その女性が大好きだったフィンセントは深く傷つき、その後何年ものあいだ悲しい気持ちを引きづることになります。

孤独と宗教

22歳になったフィンセントは今度はパリの支店へ移ります。オランダの田舎から出てきて、ハーグ、ロンドン、そしてパリにまで来たのですから、一見仕事はとても順調のように思えます。しかしパリでのフィンセントは遠く故郷を離れたさみしさや失恋の痛手から強く孤独を感じて、宗教にのめりこんでいきます。聖書や宗教関連の本しか読まなくなり、偽善を嫌い、自分がよくないと思う絵を買おうとするお客さんに「こんな絵は全然よくないから買わない方がいい!」とまで言い出してしまいました。

グーピル商会は当時大変流行していた古典主義絵画を多く取り扱って大金を稼ぎ、最新で先鋭的な作品を遠ざけていました。フィンセントは、自分が素晴らしいとは思えない作品を他人に勧めなければならない、そんな商売にうんざりしていたのです。23歳のクリスマスの日、上司に無断でふるさとへ帰ったことがきっかけで、フィンセントはとうとう仕事をクビになってしまいます。

その後しばらくの間、フィンセントは先生として子供たちに語学などを教えて暮らします。しかし宗教に傾倒していたフィンセントの心の中で「伝道師になって労働者や貧しい人たちを助けたい」という夢は日ごとに大きくなっていきます。伝道師になるためにフィンセントは神学校へ通おうとしますが、受験勉強は大変に過酷で、今度は神学校自体がひどく欺瞞にあふれていると考えるようになってしまいます。

それでもなんとか神学校から仮免許というかたちで、試験的に伝道師としての立場を得たフィンセントは、25歳の時にベルギーのボリナージュという鉱山で働く労働者たちのもとへ伝道師としておもむきます。そこでフィンセントは炭鉱労働者たちと同じようにとても貧しい生活をし始めます。兵舎に住み、わらの上で寝ます。彼はまた炭鉱労働者でもないのに、700メートルの深さの炭鉱にまで降りています。次第にフィンセントは炭鉱労働者と自分を深く重ね合わせ、ぼろきれのような衣服をまとい、極貧の生活をおくるようになりました。しかし、それはとても奇妙なもので、フィンセントはどれだけ彼らに同情しても、炭鉱労働者からは部外者だと思われていました。また教会からも、その身なりと行動が牧師としてふさわしくない、と判断されて、仮免許ははく奪されてしまいます。

たったひとりの大切な友達

フィンセントはとても孤独でしたが、たった一人だけ、なんでも話せる友人がいました。それが弟のテオです。フィンセントは19歳のころからテオと文通を続けており、生涯でやりとりをした手紙の数はおよそ1000通ほどもあります。フィンセントがベルギーの炭鉱にいるころ、テオは以前フィンセントが勤めていたグーピル商会のパリ支店でフィンセントの代わりに働いていました。テオは上司と衝突しながらも、モネやゴーギャンなどの最先端で前衛的な画家たちの作品をギャラリーに展示して、お客さんにその絵の素晴らしさを伝えていました。

そんな中、26歳のフィンセントは突発的に着の身着のままで一週間歩き続け、フランス北部へ70キロほどの旅に出ます。彼はそこで尊敬するバルビゾン派の画家ジュール・ブルトンに会いたかったのです。ロンドンに住んでいたころから大好きだった美しい農民の絵を描くあの画家です。フィンセントはブルトンの家のドアの前までなんとかたどり着きましたが、ノックはしませんでした。画家が家にいたのかもわかりません。ただフィンセントは家の周りをじっくりと観察し、その様子をテオへの手紙で書き綴っています。

帰り道、フィンセントは麦畑の上を舞うカラスたちの群れを見ました。ミレーやブルトンの絵の中で何度も見てきた、麦畑を舞うカラスたちの光景です。

手紙の中で、フィンセントはテオへ経済的な支援をお願いし、兄を助けたかったテオはそれを了承しました。このテオから兄への毎月の仕送りはフィンセントが死ぬまで続くことになります。そうしてついに1880年、27歳のフィンセントは画家として生きていくことを決めました。

つづく


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