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水無月 始まり 道徳 カント

早いもので今年の暦もその半分を折り返してから幾週間が過ぎました。

今年の梅雨明けは例年にないほどの早さだったようで、つまりは夏の訪れもずいぶんと早いようで、なんだかめぐる季節をゆっくり楽しむ暇もなく、年々せかされているような気がしないでもないですが、遅かろうが早かろうがせっかく来てくれた季節を通年同じく楽しむほかはありません。

少し気になるのは、あまりの梅雨の短さから懸念される水不足くらいなものでしょうか。

もし水がない、なんてことになれば一大事だと思うのですが、日本で六月は「水無月」と呼ばれます。梅雨入りの季節だと言うのに、水が無いのでしょうか。気のせいか、水が無いと言われながらも、あるような、そんな響きが不思議です。どういうことなんでしょう。

調べてみると、水無月、その由来は大きく分けて、ふたつの説があるようですね。知りませんでした。

説のひとつは「6月は、水が無い月」。漢字そのままです。これは旧暦6月は現在の7月頃にあたりますので、梅雨も明けて暑さが増して、日照りが続いて田んぼが干上がる月、ということで、水が無い月で「水無月」と呼ばれたそうです。

そして説のもうひとつは「6月は、水の月」。この「の」という助詞が「な」に変化して無という漢字があてられたそうで、6月は田んぼに水を張る時期、そして梅雨の時期でもあるわけですから水の月、なので「水無月」というわけだそうです。

一方は水の無い月、もう一方は水の月。
まったく逆の言いようではあるものの、どちらもありえそうに思えます。

水はいったい、あるのか、ないのか。


あるのかないのか、なんて話をしていた人が昔いたなぁ、と、思い出した人がいました。
カントという、250年ほど前の人です。

この人はたとえば「世界に始まりはある」と「世界に始まりはない」という二つを並べて、あぁだこうだと考えていました。


世界に始まり? あるのでしょうか。


彼は、

「世界に始まりはあるよ。だって、もし世界に始まりがないのだとしたら、始まりも終わりもない無限の時間の中に、私たちは今いることになってしまうからね。でもそれはありえないでしょう。だって今、私たちは現在というひとつの到達点にいるわけだから。つまりゴールがあるなら、スタートもあったはずだよね。世界に始まりはあったんだよ。」

と言いつつ、

「世界に始まりなんかないよ。だって、もし世界に始まりがあったんだとしたら、その世界の始まり以前に世界はない、つまり完全に空虚な無だったってことになるよね。進む時間すらないような、まったくの無から、いきなり突然世界が始まるなんてことはありえない。世界に始まりなんてなかったんだよ。」

と言っていました。


実際のところどちらなの?というと、彼は「どちらとも言えない。だって世界は、、」という流れで、この解けない問いを導線にして、世界とは何ぞやを説いています。


カントは、自分が経験する現象の総合を世界と呼んでいました。その世界は新たな経験とともに拡張します。つまり世界の始まりや、世界の限界は、経験とともに相互作用的にその都度立ち現れるもので、あるとかないとかですらない、というのが彼の考えでした。

世界に始まりがあるとかないとかではない。

これは実は大問題でした。なぜか。

世界の始まりについて語ること。
それはつまり世界の創造主について語ることと同義です。

時代は近代の幕開け直前、神の存在の否定はいまだご法度の時代です。実際にカントは晩年の著作で有害図書指定を受け、それ以後、宗教や神について語ることを禁止されてしまいます。


実はカントに至るまでの長い思想史の中で、名だたる思想家たちが、神は確かに存在する、といった神の存在証明を行ってきており、それによって、多くの人は、あぁ、やっぱり神はいるのだなぁ、と納得することができました。

その代表的な論説は「神は存在を含む」説でした。

つまり、
「神とは最高の存在者である。つまり存在という概念をその内に含むものである。となるとそもそも存在という概念を含まないものは神ではない。よって、神である以上、当然その存在は絶対である。神は存在する」
といったような説です。

しかしカントは首を横に振ります。

「それ、間違ってるよ」と。

「それはね、例えば、『一万円札っていうのは、千円札10枚分の存在である。例えばそれが千円札8枚分では、そもそも1万円ではないわけだから、一万円が一万円である以上、それは確かに千円札10枚分の存在である』と言っているのと同じようなものだよ。

これは一見正しいように見えるけど、実は一万円札の存在証明にはなっていないよね。

だって、例えばそれと同じように、一万二百円札っていうのは、千円札10枚と百円玉2枚分の存在である、と言えてしまうもの。

でも実際には一万二百円札なんてものは存在しないよね。
要するに、存在という概念と現実的に存在することはまったく別なんだよ」と。

これによって、カントは神の存在を証明するどころか、神は確かにいる、としてきたこれまでの存在証明が誤りであったことを証明してしまいました。

しかし、このままでは当然終われないカントは、証明の最後にまさかのひねり大回転を加えて着地します。

「つまりこの絶対的な存在証明の不可能さ、その脅威、それこそが最高存在の証明なんだよ。」と。

要するに、神がいるとかいないとかではない、がゆえに神は神。
まさに人知を超えているのが神、というわけです。

神を人知の及ばない世界へ追いやったカントは、人間の自律した自由と道徳について語り、その考え方は近代という思考の大きな基盤の一つとなります。

カントには主著と言われる三冊の本がありますが、これらは三大批判書と呼ばれ、三冊それぞれが真・善・美(認識・道徳・美術)について語られています。

三冊目では、美と崇高について語っており、これが近代において、芸術とはなんぞやを規定し、美学という学問の基礎となりました。

ここにあるのは、われわれ人間に美しい世界を与えてくれた神様のお話ではなく、この世界を美しいと感じることのできる自律的な存在である我々人間についてのお話です。

神の存在を肯定しつつ、神の存在証明は不可能である、としたカントは人間の思想史に大きな思考の転換をもたらし、近代哲学の祖と呼ばれています。ちなみに歴史上で最初の哲学者は古代ギリシャのタレスという男で、「万物の始まりは水である」という説を唱えた人でした。



水、

そうでした。水でした。


話は六月、水無月に、水はあるのかないのか、でした。


田植えの季節、梅雨が訪れ、田に水がはられて、水無月と呼ばれる六月を通して、稲は育ち、やがて実り、そして収穫されます。その収穫された穀物を、神に感謝をして捧げる月が十月、つまり神無月です。


神無月、、

さて神無月に、神は















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