『川っぺりムコリッタ』 読んで
物語の始まりは母親から告げられた一言。
いつもの調子で眉間に皺を寄せ、邪魔なほど長い爪のついた指先で金色の財布のジッパーをおろして抜き出された一万円札二枚とともに冷たく差し出されたその言葉は当時まだ高校生だった僕に、なにがいま自分の身に起こっているのかを容易に理解させた。
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半年前に30歳の誕生日を刑務所で迎えた僕は二年の刑期を無事に終え、更生施設でお世話になった職員のつてを頼って、川があるこの北陸の街にやってきた。港のすぐそばに建つ、イカの塩辛を作る工場で雇ってもらえることになったのだ。
母親に捨てられるよりずっと前に、すでに父親からも捨てられていた。僕が2歳のときに父は家を出ていったきりだ。父と過ごした思い出はおろか、顔すらもはっきり覚えていない。
川べりに住みたい、と言ってみたら、社長は、丁度いい物件がある、という。
海を背にして、工場前の港から川に沿って歩く。コンクリートの地面はじきにすぐ草むらに代わり、教えられた通りに土手を進むと、昔ながらの二階建て木造アパートが建っていた。なかなかのボロ具合だ。
- ハイツ ムコリッタ 101号室 -
イカの塩辛工場へ勤め始めて二週間ほど経ったある日、帰宅するとチラシ類にまぎれて郵便箱に一通の手紙が入っていた。封筒には「市役所福祉課」と書いてある。嫌な予感がする。僕は居ても立ってもいられなくなって、役所に電話をかけてみた。
電話口の向こうで役所の福祉課の男性が、たたみかけるように発する高い声を耳にしながら、僕は混乱していた。急に息が苦しくなり、額から汗がどっと噴き出す。そして僕は思い切って言った。
初めての給料日の二日前。夏。持ち金は底を尽きた。あと二日待てば給料は入るが、家の中に食べ物はない。
腹が減って、腹が減って。あぁ、このまま死んでしまうのだろうか、とふと思う。誰にも知られず、声をあげることもなく、空腹のまま、まるで自分の中に何も残さずに、空っぽのまま死んでいくのか。
福祉課の男の言葉を思い出す。
僕の父親らしい男が孤独死した。遺体の状態が悪かったので、すぐにそのまま火葬を済ませたが、遺骨を保管しているので取りに来てほしい。
顔も覚えていないような父親の遺骨。
知らない。関係ない。関係なんてない。
空腹はみじめだ。涙が出てくる。いっそのこと早く死んでしまいたい。このまま死んでも誰も困らない。そうか、これが孤独死か。
父親と同じ運命か。笑える。
そのとき、そっと網戸が開き、ムコリッタの厚かましい隣人が、部屋の中に片膝をついて腕を伸ばし、僕の体を揺すってきた。
「え、大丈夫? おーい! なに、死んでるの?」
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関係なんかない、っていう関係、
気にしてたりって、もう愛だよね、
ご飯ってね、ひとりで食べるより、誰かと食べた方が美味しいの。
ムコリッタに生きる人たちの、
勝手気ままな不協和音が、少しずつ重なって、交差して、響き合っていく。
塩辛と遺骨、
粗大ごみの山と高価な墓石、
ピアニカと宇宙人、
そして、すき焼き。
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ある夜、台風がくる。
氾濫したらいいと思っていた川が、
本当に氾濫してしまう。
守りたいもの。
つつましくも愛らしい丁寧な生活。
今日も美味しくご飯が炊けた。
読書感想文2022 「川っぺりムコリッタ」 荻上直子
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