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【エッセイ#2】『痴人の愛』と遠い海鳴りの想い出

谷崎潤一郎の『痴人の愛』と言えば、何と言っても、海。こう言っても、あまり賛同は得られないかもしれません。でも、初めて読んだ時も印象的でしたし、何度か読み返しても、私の記憶に残るのは海辺での描写です。それだけでなく、作品全体から海の波音が響くノスタルジックな雰囲気を感じられるのです。
 
大正14年(1925年)に出版された『痴人の愛』は、文豪谷崎の代表作であり、彼の本領が発揮された、日本文学史上に残る名作と言えるでしょう。ごく真面目なサラリーマンの譲治が、カフェで出会った少女ナオミと結婚するも、想像を超えたナオミの奔放さに翻弄され、生活が破綻していくという物語は、良く知られているところです。

谷崎が持つマゾヒズムの性向と、ナオミの悪魔主義的な性の奔放さについて多く語られるこの作品は、また、素晴らしい大正時代の風俗描写を持った作品でもあります。そして、そこで出てくるのが海です。
 
カフェで見初めたナオミと同棲を始めた譲治は、ある日ナオミにねだられて、鎌倉に海水浴へ行きます。それまでナオミの生い立ちや、「小鳥を飼うような」と表現される、躾と従順な教育を伴う一軒家での同棲生活を淡々と描写していた物語は、一気にここで空間が広がります。

と言っても、雄大な海の水平線や砂浜の描写があるわけではありません。ここで物語に流れ込んでくるのは、海の音であり、声です。
 
「あたしどうしてもこの夏中に泳ぎを覚えてしまわなくちゃ」と言ってナオミが手足を振り回す「ぽちゃぽちゃ」という海水の音。借りた手漕ぎの舟で彼女が歌うナポリの舟歌『サンタ・ルチア』。それがいつしか『ローレライ』や『流浪の民』やらに変わって、夕闇の中に響いて消えていく・・・。

あるいは別の日、見事な海水服姿のナオミに「ナオミちゃん、ちょいとケラーマンの真似をして御覧」と、女性水泳選手のポーズをとらせる譲治や、「どう? 譲治さん、あたしの脚は曲がっていない?」と得意そうなナオミの声。こうした音や声が、まるで波音のように寄せては響き、物語を活気づけて彩っていきます。そうした音声が、読者にもかつてこのような想い出があったかのようなノスタルジックな雰囲気に誘ってくれるのです。
 
ところで、近代日本文学で海辺の描写をしたものはどれほどあるでしょうか。例えば鎌倉は「鎌倉文士」という言葉が生まれるくらい、沢山の文学者が住み、愛好した場所です。しかし、彼らが書いた作品で、例えば夏目漱石の『こころ』の冒頭の先生との出会いや、この『痴人の愛』の海辺ほど印象的な場面があるものは、どうでしょうか。

その谷崎がエッセイ『恋愛及び色情』で、鎌倉について、あんな生ぬるい汐風で着物がべっとり湿って、頭がのぼせてくるような場所に、避暑に行く気が知れない、という意味のことを書いているのは、面白いところです。湿気に満ちた汐風を嫌う谷崎が書いた海辺の場面が、こんなにも印象的なのはなぜでしょうか。
 
おそらく、それは描写ではなく、この作品の仕掛けによるものなのでしょう。鎌倉から帰った二人は、まるで海辺での思い出を反芻するかのように、盥にお湯を張って行水をするようになります。そこで譲治はナオミの肉体の魅力を改めて感じ、二人の仲は進展していくのですが、まさにこの物語は、水の周辺で転換し、進んでいきます。

ダンスのレッスンで遊び人の学生たちと知り合って、彼らとナオミと蒸し暑い雨の異様な一夜を過ごし、仲直りのために律儀にまた鎌倉に行けば、実は男と泊るための策略で、と二人が何度も水に浸ることで、物語は活気づいていきます。二人は離れては戻ってきてを繰り返して、クライマックスは当然、風呂に関係する場面となります。
 
こうした反復と、それを感じさせない水のイメージの変容によって、まるで幸福だった鎌倉の海辺の想い出の中に、二人が何度も無意識に潜り込もうとしているような、そんな錯覚を抱いてしまいます。そして、最後の静かな譲治の語りを読んでいると、書かれてもいないのに、男の乾いた独り言の背後から、遠い海鳴りが微かに響いて来るように毎回感じられるのです。
 
まあ、こんな変なことを考える読者はあまりいないのかもしれません。また、別に谷崎はこの海での思い出を「無垢な時代」の思い出として強調する意図はなかったのも確かでしょう。この作品には大正モダニズムやマゾヒズムだけでなく、女性崇拝と禁忌、西洋趣味と日本の関係、誘惑と被誘惑等、様々な読みが存在します。

多様な解釈ができるからこそ、豊かな作品と言えるわけですが、ただ、私個人としては、エロスや肉欲に溺れて破滅する男の半生、みたいな感じはそこまで受けません。
 
中学生の時に初めて読んだときはどきどきしていたのですが、年を取った今読むと、ナオミの行動に逐一翻弄されて、疑心暗鬼になっては舞い上がって、忙しく感情が上下する譲治の姿に、何とも微笑ましい気持ちにさせられます。

ナオミも、妖婦とか淫婦とかいうよりも、ちょっとわがままで、巧みに人を利用して騙して出し抜いているように見えて、実はあまりうまく生きられていない女の子、という印象です。そんな二人の他愛もない長い痴話喧嘩という風に読んでしまいます。

そう思ってしまうのは、現代にもっとどぎつい性的な話題や創作が溢れているからなのか、それとも、私が今まで味わってきた経験によるものなのか。それは分かりません。

ただ、何となく感じているのは、私はもう、彼らのような体験を味わうことはないだろうということ、そして、サンタ・ルチアの伸びやかな歌声が波音と共に甘くこだまする、遠い夏の日の想い出が、本当に美しいということです。想い出やノスタルジアは、決して後ろ向きなものではなく、その美しさで、人生を何度も彩っていくものなのでしょう。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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