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愛の動機

事務仕事の傍らヨガレッスンを始めて数ヶ月経った頃、仕事やら何やら色々大変なことが続いて(おそらく全部自分の無意識が引き寄せていたのだろうと思うのですが)、レッスンを続けることができなくなりました。ちょうど北陸に何十年ぶりかの大雪が訪れた頃でした。

その時の私の頭の中は……、

大変な時に、頑張って無理してまでヨガを続けなければならないのか。レッスンを続けていく意味は何なのか。本当にこれは私のやりたいことなのか。そもそも私はやっていて楽しいのか。人のためというより、まずは自分がやりたくて自分のためにやるべきではないのか……などなど。

頭(思考)ばかりが働いて、疑念のようなものが溢れて止まらない状態に陥っていました。

そもそもヨガレッスンを始めようと思ったのは、コロちゃん騒動がきっかけでした。衣食住に関して「消費」ばかりして何も「生産」していない自分、インプットするばかりでアウトプットしていない自分を変えたいと思ったことや、雇われるスタイルではなく、自分で人に何かを提供して(自立して)、それを糧に生きられるようになりたいと心底思ったからでした。そのために一体私に何ができるんだ?と思い巡らせて、ほとんどできそうもないことが浮かんだり、何もできなさそうな気もしたのですが、結局は、今まで自分がやってきたことや今の自分にできることをできる範囲で、まずは「好き嫌い、向き不向き、それで食べていけるかどうか」等あれこれと考えずに、とにかくやってみようと思ったからなのです。

たまたまヨガは好きだったし、自分の健康のために15年以上続けてきていたし、数年前にインストラクターの資格をとっていました。(それまではずっと自信がなくて、レッスンは1~2回お遊び程度に友人を誘ってやっただけでした。)

人前に立つとかなり緊張する性分なので、相変わらず自信はありませんでしたが、怖れや恥じる気持ちは手放して(統合して)、とにかく始めたのでした。

大雪に見舞われた冬を悶々と過ごし、春先までずっとどうしてもレッスンを再開する気になれなかったのですが、何か一つ引っかかると納得できるまで立ち止まって考えて、前に進めない、という私の性質が出てしまったのだろうなと思い返しています。

悶々とする日々の中、ある方とお話をしたことや、ふと読んだネットの記事等いくつかのきっかけがあり、また新たな純粋な気持ちで始めようと決めました。

また始めようと思えた理由は、「何のためにするのか」という「動機」の部分が少しスッキリしたからでした。ヨガレッスンをするのは、人のためなのか、自分のためなのか、人を癒すためなのか、はたまた何かに取り組んでいる自分を人に評価してもらうためなのか、お金を稼げる自分になるためなのか、自分の得てきたものを人に伝えるためなのか、そのどれもが私の中にあるような気もしたし、どれもが嘘のようにも感じました。

正直、上に書いたどれもがその時の私の中にあった思いの小さなひとつひとつだったのだと思います。今も、そのいくつかがぼんやりと浮かび上がってくることもありますし、それはそれで、そのままでいいのかなと思っています。

ある方と話をしていて、自分が人にどう見られるかをひどく気にしていることに気付きました。やるからには人前で上手に完璧に誘導できるインストラクターにならなければ、と失敗を許さない自分や、かっこよくありたい自分がいたり。社会に向けて、何かしら活動をしている自分でありたいとか評価されたいという欲も確かにありましたし、何もできていない自分を責めているような気持ちもありました。

それらは全て、私のエゴの部分がわめいている声でした。

エゴだけでは、もっと言えばエゴが優勢な状態では、この活動を続けることはできないなと直感的に感じていました。事務仕事(いわゆる本業)をしながら、二足のワラジとしてヨガを続けていくのは、ただ事務の仕事をしているだけよりも負担は確実に増えるのですから。(もちろんそれを負担と捉えるならば、ですが。)

エゴの対極にあるのは愛ですよね。

大袈裟に言えば「使命」とか言う場合もあるのでしょうけれど、何か「与えられた仕事」のようなものをする時は、究極的には「全託(全てを宇宙の采配に託す)」という在り方でなければできないような気がしていました。その場合は、たぶん「エゴ」ではなくて「愛」が動機にないと続けられないのだろうなと。

とはいえ、その愛って何なの?とモヤモヤしていた時に、

kaiさんという方のブログに「Q&Aコーナー/そもそも愛ってなに?エゴってなに?」という記事があって、この記事を読んだ時、本当にすーーっと腑に落ちたのです。

詳しくはこの素敵で面白いkaiさんの記事を読んでいただければいいのですが、説明のためにざっくりと書かせていただくと、「愛」には外へ向けて「放射する」性質があって、人がその「放射する愛」の状態になる時というのは、例えば「美味しそうな小豆をもらった時に、これでおはぎをつくってあんこ好きのKちゃんにあげたいと思って、実際につくってプレゼントをする」というような時。「いい人に思われたい」とか「感謝されたい」とか自分向きのベクトルが全くなくて、ただおはぎを渡したいという自分から外(Kちゃん)へ向けた純粋な動機があるだけの状態なのだ、という表現をされていました。

純粋な動機。愛の動機。

ヨガレッスンをする時、私の中にその「動機」はあるのか。

その問いに思いを馳せた時、意外にもあっさりと、そして確かに、私の中にその動機があることに気付きました。

20代の時に心と身体を壊してから、健やかな自分を取り戻すためにヨガや自力整体に(その他にも色々ありましたが)私はかなり助けてもらいました。そのことへの純粋な感謝が私の中にあって、その感謝を外へ向けて返したいとか、その時の私のようにヨガを必要としている人がいるなら届けたいという、とってもピュアな動機がありました。

それが愛の動機と言えるのかどうかは分かりませんが、とにかくその純粋な原動力のようなものを忘れずに、いつも捉えていることができれば、続けていけるかもなと思えたのです。

そうして、またレッスンを再開しました。

その動機が「純粋」なものになるかどうかは、とにもかくにも自分の心と身体で体験(体感)したかどうかに尽きるのかもしれません。体験ができたからこそ、それを本当にピュアに望むことができるので。

そう思うと、自分に与えられた経験、今の私の場合は「20代で心と身体を壊した経験」というのは「ギフト」だったのだなぁとつくづく思います。その時(その年月)は、とてもじゃないけど「ギフト」だなんて思えませんが。どうして自分だけがこんなことに…と苦しんだこと、決して自ら経験したくてしたわけじゃないこと、自分の力では避けることができなかった出来事というのは、与えられた「ギフト」だったのだと。自分で「選べなかった」経験というのは、自分が「選ばれていた」経験だったのかもなと思うのです。

そしたらもう全ての経験は感謝に変わる可能性があります。

だから今、どうしてこうなるんだ?って思っている出来事も、いつかはその全部が感謝に変わる瞬間が来るのかもしれません。

というか、たぶん感謝に変わるのです、いつかは。


ヨガについては、今後また気持ちが変わってくるかもしれないし、もっと違う愛の動機が見つかるかもしれないですが、それはその時々で変わっていけばいいよなと思っています。むしろその変化も大事にしたいです。

そして、ヨガを続けていく間は(別のことをする時もですが)、それをやることで負担になる部分よりも、自分自身が癒されていたり、楽しんでいたり、学んでいる部分を大切に見ていきたいなと思っていますし、レッスン前の緊張感よりも、レッスンをした後の何か魂が喜んでいるような感覚の方にフォーカスを当てていきたいなと思っています。

そもそも、あれこれ考えずにとにかく始めようということで始めたことですし、何か目標をつくって、そこを目指して進んでいくという方法はこれからの時代にはあまりマッチしていない気もするので、その時々で、どこに向かうか分からないままにでもいいからやっていってみようと思います。


自分が忘れずにいるために、このことをどこかに書きとめておきたかったので、ここに記しました。

読んで下さって、ありがとうございました。


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