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諦めたらいい。空の教えより

仕事で疲労困憊後の、育児フル活動。
息子のケアに関しては完全ワンオペ。
三件先から聞こえて来るギャン泣き。走って帰路についてから、あれやこれやと追われて。21時半、寝つくまでサンタごっこ。無邪気に笑う息子に、救われているところもあり。楽しくもあり。

そうして改めて思う。
「夢を諦めたらいいじゃないか」。

もう、やりたかったことがあるから、苦しむんだ。描きたかった絵を描けないことで、自分を責めるのはやめたい。筆を持つ力すらない。それでも仕事をして、絵を教えて、仕事先で絵を描いて。求められてることに満足できればいいじゃないか。

骨折期間で終わったのだ。僕の挑戦は。
世界は無常、常に変化し続けるとブッダも言っている。ティクナットハン禅師も「空」の解釈をこう述べている。
「何もないのではなく、全てが共存している。それが無常なのだ」。

空からしてみれば、生と死もない。有も無もない。

一枚の紙があったとする。
それを燃やせば、紙は無になるかもしれないが、灰になり煙に変化したので、無くなったわけではない。だから、紙を無くすこともできないし、在り続けることもできない。

紙は、紙として存在してるわけではない。紙が出来るためには、木々が必要であり、育てる雨や雲、太陽が必要だ。そして木こりがいて、工場があって、紙が紙たるものになる。
つまり、一枚の紙には、同時に太陽や雲や雨やきこりを見ることが出来る。

父親から見る息子は、それぞれに単独の父親と息子ではない。父親にとっての息子にとって未来の産物であり、息子にとっての父親は、過去からの継承の産物だ。
つまり、父親の中に息子がいて、息子の中に父がいる。インタービューイング(相互存在)こそ、空、に通じるところがあるのだそうだ。

父親には、その両親とその昔の先祖代々・・。そして、未来に向ければ、子供や孫や子孫、血がつながらなかったとしても、累々たる変化の継続がある。これは、生と死で分けられるものではない。
生まれる時が自分自身の誕生なのか。いや、その前から、両親が存在する時点で自分のカケラはいる。
自分が死んだら終わりなのか。どう考えれば、生まれてから死ぬまでが、自分の人生だと分けられるのだ?それは非常に利己的で傲慢なんではないだろうか?
その家族や、親戚や、仲間や、友人の中に影響される存在があり続けるかぎり、個体としての自分を超えていく。

息子の成長に、絵画では描けなかった芸術性を見出すのかもしれない。骨折期間の静寂なひとときも、動き出せば失ってしまう。呼吸も忘れてしまう。しかしそれは無くなったわけではない。
紙が燃えて気体になり、やがて雲になるように。あの時の呼吸や静寂な時間は、僕の精神として、息子のギャン泣きを鎮めることに使われているのかもしれない。

諦めたっていい。
そもそも、僕はなにを目指してたんだろう。それすらも「空」なのだ。その本質を観察しなければ、実態すらあやふやなものだ。

「独立した存在ではない」。それが「空」。けっして空っぽ、ということではない。

夢は、夢であって夢でないもので成り立っている。
この身体は、この身体であってこの体でないもので成り立っている。

なんでも極端になるから苦しむ。煩悩とはそのようなもの。
諦めるという固定されたイメージが、日々の、瞬間循環の奇跡的な出来事から目を逸らさせている。
この世は無常なのだ。だから、今に集中し、呼吸に立ち戻れと禅師はいう。

諦めたって、諦めたことにはならない。悲しむ必要も、自分を責めることもない。
目の前に集中して。
今だからこそ初めて作り出せる呼吸をして。それがまた何かに変わり続ける。

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