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一人(+犬)との生活

一人の生活が9日目になっています。子供たちとこんなに離れたことは、ここ4年半で一度もありませんでした。父の介護で毎月鹿児島に帰っていた時も、百貨店で個展をした時も、葬式の時もそうです。
子供が産まれる前からしても、8年前に岩手の国体文化事業に関わっていた時以来でしょうか・・。

一人になって、静かに生活をしています。アトリエから見える柿の木を見ながら、父を思い出します。父もこうやって静かに過ごしていたんだろうな。20年間も・・。

画家としてとてもお世話になっている方からも「あなたには孤独が必要だ」と言われてきました。(そんな無理を言って苦しめないでくれ。どうせ叶わないんだから)と思ってきました。

いま、一人です。愛犬がいるので、散歩や手作りご飯のルーティンがありますが、こんなに静かな気持ちは、思い出す限りありません。
ずっと魂を紙やすりで擦り続けらられたような日々でした。(それだけにつややかになりましたが笑)。

メールで、息子や娘の姿が見れます。懐かしく、愛らしいです。遠くで生活してるのは家族の方なのに、僕はまるでアマゾンの奥地からその写真をみているようです。なぜだろう。なぜこんなにも、いろいろなものが遠いのか。
あれだけ求めていた一人の時間は、もっと自由を謳歌したものだと思っていました。しかし、例え展覧会の準備がなかったとしても、僕は今のように淡々と日常を静かに過ごし、絵を描いていることでしょう。
ご飯を作るのも、風呂に入るのもだんだん億劫になり、生活はどんどん削られてシンプルになっていきます。趣味嗜好も、たまにラジオを聴くか、珈琲を飲むくらいです。
あとは、ただ展覧会のこと、絵のこと、みんなが楽しめる空間を作り上げることだけを考えてます。
そして、考えすぎたら散歩をして、無心になり、「歩く瞑想」をします。呼吸を整え、丁寧に歩き、自分の心に戻っていきます。
遠く離れた夢想から、自分の身体に。

佐々木閑教授の言う「出家的に生きる」とはこのことでしょう。とても豊かで満たされています。
そして、この時間は永遠に続くわけではありません。また「今の」使命を果たせば、「次の」使命のために、慌ただしい日常がやってくるのでしょう。

だけど、一年だった今でも、骨折をしていた3ヶ月がとても静かであったように、この経験も、またずっと心の支えになることなのでしょう。

ある若者が言っていました。「仕事と家族とどっちなの!?と言われたら、私は迷わず仕事と答える。なぜなら仕事をしている自分こそが自分なんだ」と。

仕事をしている自分や、家族と共にいる自分、それらを超えたもの。
自分であって自分でないもの。役割を全うしている人間。ただ、その感覚だけがあります。

人間は、やはり独りなんです。その時に、嘘をついていないか。本当に満足しているか。後悔はしていないか。自分との対話にごまかしはいりません。
無駄と思える時間にも敏感になることでしょう。そうやって、人は、自分と向き合い、生まれた意味を考えるのです。

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