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「まゆげ犬」と、家族のこととか、その他諸々。

(今回の記事はほとんど無料です。後半だけ、マガジン読者限定のメッセージです)

このnoteの中で、

当時は近所にもたくさん「ノラ犬」がいた、と書いた。

今は日本で野良犬を見かける事はまずないが、アジアに旅行すると、ノラ犬がたくさんいる。しかし、外国の犬は基本的に大人しく、ぐうたら寝てばかりだ。

あまり知られていないが、日本犬はDNA的には「凶暴」な犬種だ。柴犬なんかも、躾をしなければよく吠える。そんな血を引いた犬がノラ犬だと危ないだろう。だから日本犬は番犬向きと言える。

しかし、オレはロッキーのおかげで犬が好きだったから、ノラ犬を怖いと思った事はなく、むしろ番犬のような飼い犬が犬が建物の影からいきなり吠えかかって来たり、そういう方が怖かった。

小学生の頃、不思議なノラ犬に出くわした。

なんと、「まゆ毛」があるのだ!

ご存知の通り、犬は顔中が毛なので、まゆ毛はない。しかし、まゆ毛のある犬を見つけたのだ。その衝撃や、子供ながらにかなりのインパクトだった。

友達の間でも、「まゆ毛犬がいるぞ」と、都市伝説的な噂になった。他にもオレのように数人の目撃例があったのだ。

ノラ犬は広いエリアを縄張りに持ち、神出鬼没なので、なかなか見つけられなかったが、俺たちはついにある時、探していた「まゆ毛犬」を見つけた。そっと近寄り、エサで釣って近くに呼んでみると、なんと白い毛に、まゆ毛部分だけが見事に黒い模様だったという事が判明した。

つまり、眉毛があったわけではなく、毛の模様として、眉毛のように見えた、ということだ。

しかし、想像してみてほしい。例えばソフトバンクのCMの白い犬。まゆ毛部分が黒かったら、どんな様相か?





想像できただろうか?

いや、なかなか想像するのは難しいかもしれない。とにかく、犬の顔にまゆ毛があるって、とても奇妙奇天烈で、滑稽かつ、喜劇的を通り過ぎて、何故か哀愁が漂うのだ。

でぇーい!君にも実物を見せてやりたい!


そう思って、画像加工してみた。

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………。

うーん、ちょっと違うなぁ…。でも、こんな風に、ぶっとい眉毛だった。伝わっただろうか?

しかし、無事に見つけ、毛の模様とだと理解した以上、「か、変わった毛の犬だなぁ…」ということで、友達と笑い合ってその時は終わり、謎の眉毛犬の都市伝説は「ホントにいたよ。でもただの毛の色だったんだ」と、終わりを告げた。

本当は、もっと「トイレの花子さん」とか「口裂け女」「人面犬」くらいのミステリーを想像していたので、ちょっと肩透かしの拍子抜けだった。

しかし、この話はここで終わらなかった。その後も数件、まゆ毛犬の目撃例があった。その時は「ああ、あいつか」と、例のまゆ毛犬のことだと思ったのだが、なんとオレ自身が、自分が間近で見た例のまゆ毛犬とは、別のタイプのまゆ毛犬を見つけたのだ!

その犬は白ではなく、茶色っぽい毛の色だったが、やはりまゆ毛部分が黒いのだ。

他の友達の目撃例と合わせると、3種類くらいのまゆ毛犬がいたと思う。これは衝撃だった。

(親子か?兄弟か?)と疑った。

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(しつこい…笑)

しかし、段々とまゆ毛犬を見かける事はなくなり、オレが中学生くらいになると、ノラ犬ってものを見かける事がほとんどなくなった。それにつれて、日々目まぐるしくすぎる少年時代、まゆ毛犬のことだと忘れてしまった。

そんなまゆ毛犬伝説。数年後にその真相を知る事なった。

うすうす勘づいていたが、まゆ毛は模様ではなくて、マジックか何かで描かれたものだった。つまり、誰かが描いたものだったのだ。

そして、それを書いた、そんな愉快犯は…、実はよく知ってる人間だった。

まゆげ犬を生み出した愉快犯は、なんと「兄」でした…。

ふと、兄の友人に「昔、まゆげ犬がいてさぁ」と、話したら、

「え?それってあいつがのら犬捕まえてはまゆ毛描いてたんだよ。しかも油性マジックで。ひっでぇよなぁ〜」

と言われたのだった。俺の中で点と点が、一本の線になった瞬間でした…。

まあ、何かと問題行動の多い困った兄であったが、とんだ面白い伝説を作ってくれたものだ。しかし、ノラ犬をとっ捕まえては油性マジックで眉毛を描くって…。

そんな兄は、書籍の中でも書いたが、8年前に亡くなっている。38歳だった。気づけば俺も兄の年齢を5年も追い越している。不思議なものだ。

兄とは色々とあったが、最後の最後に、俺に人生の大きなギフトを与えてくれた。それは「大きな愛」であり「宇宙」であった。

この世のおいての兄は、上記のおふざけ程度なら笑えるが、笑えない出来事の方が多かった。俺が最も憎く、軽蔑していた人間であった。

しかし、それが、その存在が「愛」だったのだ。これは説明できない。証拠なんてあるわけない。ただ、俺にはそれがわかった。そしてそれは同時に、すべての人が、本質は愛であり、光であるということを、兄は全存在を通して、俺に教えてくれたのだった。

ところで話は少し変わるが、7月末から、数日間家族で北海道へ行ってた。札幌と、生まれ育った小樽にも一泊した。

昨年の7月に母が亡くなって以来で、1年ぶりの北海道と、生まれ故郷の小樽。父も一昨年に亡くなり、実家のあった場所には、別の新しい、綺麗な建物が建っていた。

毎年、両親に会うとか、葬式とか、病院とか、来るたびに「やるべきこと」があったが、今回は初めての「ただの家族旅行」として、北海道へ来た。

田舎の人はコロちゃんに敏感だろうし、特に誰にも挨拶しなかった。まあ、そんなに時間があったわけではないし。でも、会う理由もなかった。お世話になりましたと、挨拶した方が常識的にはいいのだろうけど、残念ながら貴重な時間を使って会いたいとまでは思えなかった。

ふらりと、一人で実家のあった場所に行き、その場でしばらくたたずみ、なんとも不思議な気分になった。

(ああ、もう来る必要がないんだ…)

という印象だった。親や実家が無くなるというのは、ものすごく自由になったような、何かから卒業をしたような、そんな気分だった。それを確かめるために、行ったのかもしれない。

兄もそうだし、両親に対しても、かつてはたくさんの複雑な感情があった。今も、色々と眠っているのかもしれない。でも、この「現実」と呼ばれる世界にいる父や母や兄は、もっと深い世界から見た時には、まるで違う存在だ。

あなたの身の回りの人も、あなたが作り出した「幻想」であり、それを「現実」と思い込む。信じられないかもしれないし、信じなくてもいいのだけど、それが事実だ。

あなたの世界は、あなたというパーソナル(個人)を通して写し出された高度なヴァーチャルホログラムであり、あなたが脚本したキャラクターである。

なんでそんな面倒くさいことをやるのか?それは、あなたの魂の成長のため、なのだろう。

だから、「意識が世界を創っている」という真実は一つの知識として、達観するためのきっかけとして持っていて良いのだけど、今あなたの目の前に展開しているストーリーから、深いメッセージを受け取り、洞察を深めることが大切なのだと思う。

人生とは、それらの物語の奥にあるのだけど、我々は表面を通過しないと、奥には辿り着けないのだ。

霊性(スピリチュアリティ)は、エンタメではない。エンタメを通して、その奥にある事実に触れるプロセス(過程)なのだ。

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北海道神宮へ行った。最近神社にはめっきり行かなくなったが、円山公園が大好きで、家族で参拝した。

その後動物園にも行った。動物園ではシロクマはいくら探してもいないわ、ヒグマも見えないわ、ライオンもオスが一頭遠くで寝てるだけで、あまり見応えがなく…。

でも、たくさん歩けてよかったかな。

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北海道へ来たら、とりあえず飲みたくなるサッポロクラシック。たくさん歩いたし、何より、北海道に涼みに来たのにむちゃくちゃ暑くてびっくり。だからビールはおいしいですね。

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小樽の埠頭にて。

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写真の順番がバラバラだが、スカイマークエアラインの飛行機の車窓から。ハートマークがかわいいね。

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小樽といえば、寿司。ここに来たくて小樽に来たようなものかもしれない(笑)。息子がとにかく寿司好きでね。

海はいいね。

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最終日はイタリアンにて。

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帰りの飛行機の前に、新千歳空港のフードコートで松尾ジンギスカン。

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さて、こっからちょっと変なことを書くよ。

8月。「何かが起こる!」という、この手の予言や予知、予想はあるけど、身近にもそういう話を聞く。

起きるかもしれないし、起きないかもしれない。いつ天変地異が起こるかわからないし、テロがあるかもしれないし、戦争が起きるかもしれない。

予言や予知、未来の占いはスピリチュアルと呼ばれる分野の人気の花形でもあるけど、常にこういう情報はある。現実世界で、大きなアクションがないと、目を覚さない人が多いから、時にそういう強烈な体験を宇宙は作る。

逃げますか?どこに?安全な場所ってどこですか?

食料備蓄ですか?何日分?いつも持ち歩きますか?

ではどうすればいいのか?大事なことは、慌てず、不安に飲まれず、今ここを生きることだろう。どこに行っても、何が起こるかわからないのだから。

瞑想やスピリチュアルのワークというのは、どっかとの超常的存在から情報を得ることでも、自分だけ助かるための方法を教えてもらうものでもなく、「生命」に触れることです。

その「生命」をつながっていることで、我々はいつでも最善の行動ができるし、何が起きてもなんとかなるし、死んでも大丈夫です。だって、我々は死ねない存在です。

ただ、「覚悟」はしておいていい。何が起きてもおかしくない時代です。そして、覚悟の上で成り立つのが「祈り」です。

あなたの愛を、宇宙に放つのです。世界の平和を、あなたが見るのです。祈りとは、座って静かに行う祈りもそうですが、日常全てが祈りです。なぜならあなたが「与える」すべてがそれだから。

あなたが平和や、愛や、優しさや、安らぎを与えれば、それを受け取ります。あなたが憎しみや、怒りや、差別や、偏ったジャッジを与えれば、それを受け取ります。

何が起きても、それを「祈りに変える」こと。

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言葉の力で、「言葉で伝えられないものを伝える」ことを、いつも考えています。作家であり、アーティスト、瞑想家、スピリチュアルメッセンジャーのケンスケの紡ぐ言葉で、感性を活性化し、深みと面白みのある生き方へのヒントと気づきが生まれます。1記事ごとの購入より、マガジン購読がお得です。

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