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僕は自分に厳し過ぎるのか?

前回のnote、

これと少しつながる話だけど、今日も「探求」ってことについて。

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昔、ある女の子に言われた。

「あなたは自分に厳しい人だから、きっと近くにいる人にも厳しい。だから私はあなたとは一緒にいれません」

ちょっとだけ、イイ感じになりかけた女の子だった。付き合ってもいいかなと思った矢先に、向こうからそんなことを言われた。

ショックだった。別に「フラれた」がショックとかそういうことではなくて、そんな風に思われたことと、思わせてしまったことに、悲しかった。

その子も僕に好感を抱いていたのは間違いなかった。二人で食事に行ったこともあったし、仲良くしてる(つもり)だった。しかし、彼女は僕を知れば知るほど、「一緒にいられない」と判断したようだ。

ちなみにその子はいわゆる「霊感」のようなものがあり、すごく鋭い一面を持っていた。しかし同時に世界に対して、そして人に対して、ひどく警戒していた。

僕は彼女の直感力にすぐ気づき、彼女も気づき、お互いその辺の感覚を持って共感して親しくなったのだけど、彼女の“人を見抜く目”というか、とにかく彼女の目には、僕という人間は、彼女の言葉を借りて言うなら「厳しい人」とのことだった。

心当たりは、なくはない。

当時、自分を律することをとても意識していた。それまでのだらしない、無教養で粗野で粗忽な自分から、「人間力」を身につけた、確かな人格になろうと意識していた。アホで粗忽で野暮でだらしないから、病気になったり、音楽活動がいいところまで行って頓挫したり、とにかく自分が幸せになるためには、「人格」を徹底的に鍛え直さないとダメだ、と思っていた。

いわゆるスピリチュアル的なことも手を染めたが、そこに救いを見出すことはなく(坐禅は続けてたけど)、ストイックな東洋哲学に傾倒し、毎日古典の思想の本を読み、実践していた。

だから確かに、自分に厳しい一面はあった。

でも、それでも自分への厳しさとやらを徹しきれず、まだまだ甘ちゃんのハンパ者だと自分を責めていたのだ。なのに、彼女は僕のことを「厳しい人」と言った。「そんなことないよ」と言いそうになった。

しかし、言えなかった。なぜなら、彼女のは普通の直感力ではなかったので、その「厳しい」は、僕が僕自身に思う厳しさや、僕が当時実践していた「厳しさ」とは、ちょっとニュアンスが違うと感じたからだ。

つまり、僕の性格とか、僕が日々律していることとは別の、「人に対する厳しさ」なのだと思った。特に彼女は深く傷つけられた過去があったから、とにかく人からの深い優しさや癒しを(特に男性から)、恐る恐る求めていたので、厳しい僕ではダメだったのだ。

東洋哲学を学んでいたと書いたが、意識していた言葉で、

春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛む

とある。これは江戸時代の儒学者「佐藤一斎」の言葉で、西郷隆盛が愛読書として常に持ち歩いていたという『言志四録』という本に書かれた一説である。

読んで字のごとく、人に対しては春の風のように柔らかくせっするけど、自分に対しては秋の霜のように引き締め、粛々と臨めとのこと。

人には優しくしたいが、「厳しい人だから」と思われた。そしてきっと、僕は人に優しくしているつもりでも、厳しく感じたのかもしれない…。

この前もこんなnoteを書いた。

先週の日曜日(9月26日)の瞑想会の後、サークルメンバーとオフ会した。その席でメンバーから「あれ読んだんですけど、あんなに意識していたら疲れません?」って言われた(笑)。

まあ、確かにそう思われもしかるべきなんだけど、僕は自分には「秋霜を以って〜」なので、それで慣れてしまったし、そもそも「ドM体質」なのと、元々がとにかく無教養でだらしのない人間なので、それくらい引き締めていないと本当にダメ人間になってしまうのです。

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言葉の力で、「言葉で伝えられないものを伝える」ことを、いつも考えています。作家であり、アーティスト、瞑想家、スピリチュアルメッセンジャーのケンスケの紡ぐ言葉で、感性を活性化し、深みと面白みのある生き方へのヒントと気づきが生まれます。1記事ごとの購入より、マガジン購読がお得です。

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