「探求」と「好奇心」について
子供の頃は無我夢中で追いかけた。なんでも手を伸ばした。
理由なんてなかったと思う。理由なんて必要なかった。好奇心のまま、気の向くまま。
時に転んだり、怪我をしたり、誰かに怒られたりするもんだから、慎重になることを覚えた。この辺で、個人差が出てくる。つまり、大胆な子と、臆病な子。
僕は後者だった。
石橋を叩いて叩いて、結局渡らないくらい、臆病で、他の人たちの動向とかを見据えてから、安全だと判断して先に進んだ。
臆病者は臆病者なりに、そうやって自分の「安全圏」を広げていった。安全圏の中でこそ、やはり好奇心の赴くまま、なんでも夢中になった。
臆病者といえど、自分のできる範囲で、行動できる範囲で、親とか信頼する大人や協同体に守られた中で、目に見える世界に夢中になれた。
夢中になる。やはりそこには理由はない。不器用でも、とにかく体験し続ける。疑問があったらそれを探しにいく。
きっと「探求」していたのだ。世界を。自分を使って、探索し、味わっていた。その先の成果とか、結果とか、損か得かとか、そんな事を思う前に、探求を始めていた。
探求に理由などなくて、誰もが子供の頃は、自分の心のままに生きていた。
しかし、年齢と共に、強制的に小学生という未知の世界に放り込まれる。そこでの出会いや好奇心の広がりと共に、行動圏は広がるが、制限も増える。人間関係も煩雑になる。もちろん、安全圏だけでは、自分を満足させれないことも知っていた。
しかし、何かに「夢中」になると、何かを見落とし、それによって誰かに叱られたり、他者からの評価が下がった。
臆病者は、さらに慎重にならざるおえなかった。だから大胆な子が羨ましかった。大胆な子は、怒られても怪我をしても、何度も何度も挑戦し、とても楽しそうだった。
大きくなるにつれ、冒険はできなくなる。制限が増える一方だ。与えられた課題や、人間関係で「人からどう思われるか」を気にしてばかりになる。
自分の興味のまま、好奇心のままにはいられなくなった。自分っていうものが、だんだんと“人が作ったもの”になっていく。周りに合わせたキャラクターが生まれる。
本当の自分はどこに行ったっけ?本当自分はどんな自分だっけ?
でも、周りの人が言う自分になった方が、波風立てずに済むんだよな…。
そうやって、本当の自分の好奇心とか、本当の自分のやりたいこととか、忘れてしまう。
*
あなたは臆病な子だっただろうか?それとも大胆な子だろうか?きっと、僕の文章に出会う人って、僕と同じような、基本的には臆病で繊細な人が多いと思う。
僕は幸い、上の状態になりかけていたけど、家庭環境の大変化で、一般平均とは大きく異なる生活を余儀なくされ、憂さ晴らしのためにギターを弾いて、別の言い方をすると少しグレて(笑)、「人が評価する自分」ってやつを気にしつつも、また好奇心のまま「探求」をするようになった。
でも、それでもやはりずっと「人の評価」を中心に生きていたし、自分の本質に向き合うこともなく過ごしていた。その辺にようやく気づいて、好奇心を「内面」に向け始めたのは、病気とか、結婚生活の不調和や、お金の不安とか、息子との関係など、現実に数々のヒビが入ってから、ようやく気づいた。
外の世界ではビビりながらの探求だった。それはビジネスとか、新しい人間関係とか。その辺の「臆病者」気質はなかなか変わらない。でも、人生には慎重さも大事だから、ビビりな自分の感覚を、大切にしている。
しかし、内面の世界は、臆病になる必要はなくて、内面の世界に、外の世界を豊かに、楽しく過ごすヒントがたくさんあった。
だから僕は探求を続ける。内なる平和を感じ続ける。
しかし現代の多くの人が探求など縁がなく、目の前の仕事と、その疲れを癒すことで精一杯かもしれない。働いて、ストレス発散、また働いて、ストレス発散。たまに病気、休んで、元気になって、また働いて…。そうやって気がつくと歳を取っている。
それも構わない。探求などしなくても、人は生きていける。
しかし、もしも「自分の人生」を生きたいのなら、こんな時代だからなおらさ、自分自身に出会わないとならない。自分を知らないとならない。そうしないと、外の世界に振り回されて、誰かが作ったシステムの上で、転がされて生きることになる。
なんでもいい。探求する対象はなんでもいいのだ。ただ、現代人はまずは「自分」に目を向けることが大事だ。内側を掘るほど、外側の世界で、あなたに注がれる光を遮っていた壁が崩れ、多くの光が差し込むようになる。
「探求クラブ」というサークルを初めて1ヶ月以上経った。
毎週、オンラインでの瞑想会をやり、オンライン座談会で、普段はなかなか会えない地方の人ともお話をする。先月はリアルのイベントもあり、メンバーで「オフ会」もあった。
「瞑想が習慣化できない」という人が多かった。でも、毎週オンライン瞑想があるので、そこでは確実に瞑想をできる。
「自分の感覚に集中していても、思考雑念が入る」という悩みは定番。でも、思考雑念は当たり前だから、否定してはいけないし、「良い瞑想」をしようとなんて思わないことが大事だ。
毎週様々な瞑想法や祈りなどを行うが、基本は「受動態」の瞑想が多い。そこでは「自分の感覚に意識を向ける」ことをやる。
例えば、自分の座っている感覚や、肌に空気が触れる感覚。呼吸をしている感触。何でもいい。ただ、感覚を感じ続ける。
これって実は「自分に目を向けている」ことなんです。「思考が出て集中できない!」ってのも、“思考に気づいている”ので、自分に意識を向けています。
この意識が大事なのです。これが「自己探求」です。普段は自分の外の世界、例えば、人、物、言葉、未来、過去、妄想、スマホ、などに向けている意識を、自分の肉体や心に向けて「何を感じているのか?」を感じ続ける。
普段おざなりにされた「自分」は、意識を向けられて喜んでいる。「“わたし”は、あなたと仲良くしたい」のだ。でも、普段のあなたはまったく“わたし”をみないで、外の世界ばかり。
僕は「自己探求」が、音楽とか文章を書くこと同様に「好奇心」です。探求クラブのメンバーは現在36名参加で、もちろん全員が僕のように探求オタクでも瞑想オタクでもない(笑)
基本、ゆるくやってる人が多いです。女性がほとんどだし、ガチンコで修行したいサークルではありません。
ただ、自分に意識を向ける習慣を身につけることで、確実に「調う」何かがあり、それを継続することで、約束される世界ってあります。だから習慣になるように、毎週オンライン瞑想会をやっています。見逃してもアーカイブで見れます。
ぜひ、ゆるっと瞑想の方も、がっつり探求の方(そういう方の質問などは好物です笑)も、お気軽にご参加ください。退会は自由です。色々と特典もあります。
さて、ここからちょっと日記的な話。
昨日、このアニメ映画を観た。
「この世界の片隅に」
元々は、この曲を聴いて、(嫁さんがすすめてくれた)
「うわ〜、すばらすぃ〜」と感動して、「おや、アニメの主題歌か…。どれどれ、いっちょ観てみるか」と、軽い気持ちで事前情報なしで観たんだけど、このアニメ、ほんとにほんとにほんとにほんとに…、素晴らしかったです…!
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言葉を紡ぐ、心を繋ぐ
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