お酒と私のほどよい関係
こんなことを書いてドヤるつもりもないし、倫理的にも法的にもアウトだけど、僕が「お酒」というものを嗜むようになったのは中学生の頃だ。
親父の日本酒やらウイスキーをちびちびと飲んで、頭がふわっとなることが現実逃避だったと思う。
おかげで中学3年にして、肝機能を示す「ガンマgtp」値が高くて、医者から「お酒をやめなさい」と、倫理的な問題でなく、健康的な観点からアドバイスを受け、酒を控えたことがある。
ちなみに、こんな中学生は「俺の他におらんだろうな」と思ってたら、高校の頃バンドを組んでいたベースの男が、中3で、焼酎を飲みすぎて胃潰瘍になったことがあるという強者だった。上には上がいると思った。
話を戻そう。
未成年なので、法的にアウトと書いたけど、今更「時効」なのでそこはご勘弁を。いかんせん1990年代の田舎の話である。酒、タバコ、麻雀など、その手のことを覚えるのは早かったのだ。
なにせ他にやることが大してなかったのだ。刺激を求めているのに、刺激が少ないのだ。そしてもちろん時代背景もある。インターネットも携帯電話もない時代の話だ。
もし当時の僕に、スマホと動画コンテンツとSNSがあったら、そんなことしなくても「青春」という名の持て余した暇つぶしの時間を、ある意味もっと“膨大かつ不毛”な暇つぶしとして消費できたと思う。まあ、それがいいとは思わないけれど…。
それと僕がお酒やらなんやらに手を出すのが早かったのは、お酒とタバコとコーヒーは「大人の男の条件」のように思っていたせいか、進んでそれらに手を出してたと思う。
もちろん「味」なんてわかるはずもない。ただカッコつけていただけだ。
女の子にモテたいからギターを弾き始めるのと大して変わらないと思う。カッコつけたり、背伸びしているうちに、なんだかそれが好きになってくるし、詳しくなると面白くなる。
とまあ、そんなわけで僕とお酒の付き合いは長い。
☆
2023年も終わりに近づく。今年もたくさん飲んだ。しかし、今年は大きく変わったことがある。
それは「お酒を飲まない日が増えた」ということだ。だから「たくさん飲んだ」と言っても、その比較対象を“例年の自分のアルコール摂取量”のアベレージと比べると、実はだいぶ下がった。
飲まない日、というのは、以前はなかなか難しかった。しかし今年は「休肝日」を意識的に設けることに成功した。これは大きな進展だった。明らかに、飲まない日を挟む方が、心身の調子が良い。明白だ。そんなことだいぶ前からわかっていた。
わかっていたなら「なぜさっさとそうしなかった?」
というのは、お酒を飲まない人、飲みたくない人、飲めない人か、あるいは「鉄の意志」を持ち、欲求に常に打ち勝てる人だろう。
僕は鉄の意志を目指すも、いとも簡単にぽっきり折れてしまう軟弱者であり、しかし、そんな僕だからこそ、世の「やめたくてもやめれない」にハマる人の気持ちもわかるってものだ。
今年、「飲みたい!でも、飲まない!」という選択による休肝日を設けることができたのは、妻がほとんど酒を飲まなくなったのは大きい。
妻は昔は僕より強かったし、毎日食事中にお酒を飲むタイプだった。
ここ数年、彼女はまずビールを飲まなくなった。「美味しく感じられなくなった」とのことだ。
元もワイン好きだったけど、去年まではナチュラルワインに凝り、あれこれと楽しんでいた。しかし今年はワインも「美味しいと感じられない」体になってしまった。春先に風邪をひいて高熱を出してからだと思う。
そこからは、日本酒の熱燗をちびちび飲む程度になった。それも、少し度数の低い純米酒を、さらに少し水で薄めて。食事中にお猪口1杯2杯だ。
だからワインをボトルで買うこともなくなり、僕も家では日本酒の燗しか飲まなくなったし、飲まない日も増えた。
面白いもので、お酒を通して「依存」の仕組みというものがよくわかる。
お酒を2、3日やめると、体がお酒を求めなくなる。さほど「飲みたい!」と思わなくなるのだ。でも、また1日飲み、2日と続けると、もう3日目には「必ず飲みたい!」というような強い衝動感覚がやってくるのだ。
これは「砂糖」「小麦粉」「揚げ物」なども同じで、摂らないと平気なんだけど、一度摂取し出すと、まるで体内にいるそれらが、仲間を求めるかのように、僕の欲求を通して求めるようになる。そしてその欲求を「納得させるだけの理由」を思考に探させる。
「今日のメニューには日本酒は欠かせない」
「疲れてるから甘い物が必要じゃない?」
「ちょっとくらい平気だよ」
一度、その甘美な快感を知ってしまうとなかなか抜けられないのか、僕はよくこれらの欲望と戦う羽目になる。
また話を脱線する。僕は「スナック菓子」が大好きだけど、昨年末に「油で揚げたお菓子」をやめた。体に良くないことは知っていたけど、やめたら体調にどう変化があるのか?を人体実験したくなった。
もちろん、油で揚げたスナック菓子の代表的なものが「ポテトチップス」。てゆーかそれはほとんど「ポテトチップス」一択であり、たまに「ドリトス or ドンタコス」というラインナップだけど、これらも一度やめてしまうと。さほど求めなくなった。人体実験の成果は、よくわからない。いいような、特に変化ないような…。でも、さほど好んで食べたいと感じてない。
しかし最初の頃は息子が目の前で食べていると、
(一枚だけ、ちょっとだけ…)
と手が伸びそうになったが、グッと堪えて今に至る。どこかのポイント通過までが辛いのだ。
お酒に関しては、今の所やめるつもりはないとはいえ、こればかりはやめられない。もちろん、今後どうなるかわからないけど、今はお酒のある暮らしを楽しんでいる。
ただ、極力気をつけているのは「酔っ払わない」とうこと。こういう飲み方はここ数年、かなりできるようになった。
毎日飲んでいても、酔うほど飲まない。元々そんなに強くないというのがあるけど、とにかく酔っ払うと「翌日」のパフォーマンスにモロに影響する。
意識はしゃっきりと明晰でいたい。でも、二日酔いしてなくても、アルコールの影響で少し頭がぼうっとする。昔はそんなの気にせずに勤めに出ていたし、平気だったのだけど、ここ数年はその状態がとても不快に感じられるようになった。
二日酔い、ではないのがポイントで、ほんと「微々たる違和感」だから、気にしなくてもいいのだけど、この繊細な感覚が自分にとってとても大切だから、やはり飲み方と、飲むお酒の質には注意が必要だ。日本酒なら、どんなお米で、どんな製法で、どんな酒蔵で、どんな想いで作られているのか? まで考慮している。そして、そのように丁寧に作られたお酒というのは美味しい。
お酒は各地の醸造所で作られる。運送の発達により、今は世界中のお酒が手に入る。
しかし、それでもやはり「その土地」で飲むお酒というのは格別だ。
12月初旬に石垣島へ行った。沖縄圏で「お酒」というと、やはり「泡盛」だ。
沖縄に初めて行ったのは2014年だったと思う。そこで初めて泡盛を飲んで感動した。
とはいえ、実は泡盛はあまり好きじゃなかったし、今でも「好きか?」と言われると素直に「Yes」とは言えない。
東京でも飲めるし売っているので、沖縄に行く前に飲んだことはある。沖縄出身の友達の家に行って飲んだこと。沖縄料理やで飲んだこと。しかし、どれも「うまい」とは思えなかった。
しかし!沖縄で飲むと美味しいのだ! この前も、石垣島で飲んだ泡盛の旨いこと。
焼酎とか、その手の蒸留酒は、昔はシングルモルトやらバーボンやら、プレミアムな芋焼酎とか、あれこれ飲んだし、かなり好きだった。しかし、いつからか蒸留酒は体受け付けなくなっていた。
確か30歳頃〜40歳くらいまでの10年間は、蒸留酒を飲めなかったと思う。唯一沖縄で飲んだ泡盛くらいだ。
今ではまた飲めるようになった。焼酎もウイスキーも好きだ。
再び飲めるのようなったのはきっかけがあった。それが鹿児島の指宿に行った時だ。地元の芋焼酎を飲んで、それが体に染み渡ったのだ。
その辺から焼酎が再び好きになった。
どうしてだろう? その土地で作られた酒を、その土地の料理をつまみながら飲むと、とにかく旨いのだ。
奄美大島へ行った時に黒糖焼酎を飲んだし、先日八丈島に行った時も、八丈島の焼酎が美味すぎた。(旅の様子はYoutubeにて)
☆
いつだかアメリカのセドナに行った時に、
「カルフォニアで飲むカルフォニア・ワインは二日酔いしない」
と、しょっちゅうカルフォニアに行き来しているカメラマンの知人がそう言っていた。一緒にしこたまワインを飲んだら、確かにあまり二日酔いにならなかった。
フランスに行った時もそうだった。体液が全部ワインになったんじゃないかと思うほど飲んだが、ひどい二日酔いになることはなかった。
「地酒」というのは各地にあって、お酒はその国や地域の文化だ。赤ワインとチーズが合うように、日本酒と和食はいわずもがな、泡盛と沖縄料理は合うし、明日葉の天ぷらと八丈島焼酎はよく合う。
お酒が料理を美味しくするし、料理がお酒を美味しくする。つまり、完全に「正のループ」が成立する。
でもそこでその無限ループはやがて「負のループ」になり、途中から味もへったくれもなくなり、アルコール分解量を超えてしまう。
「陰極まれば陽に転ずる。陽極まれば陰に転ずる」ってやつだ。
まあ、そんな難しい言い回しをせずとも、飲みすぎたら体調に悪影響がある、という当たり前のこと。
この世界は調和とバランスが大事なのだ。それを無視して、ただ「陽」の楽しさ、嬉しさ、快楽を味わい続けるとしっぺ返しがくる。
お酒との付き合いは「ほどほど」。何事も、ほどほど。一見地味だけど、人生は短距離競争ではない。瞬発力より持久力。
しかしそんな偉そうなこの教訓も、何度も“へべれけ”になったことがあるから言える。
嘔吐物と小便が乾いてこびりついたような、ゴールデン街の路地裏でぶっ倒れ、自分もそこにシミを残したり、銀座のはずれのアスファルトの上で寝てたり、終電でどこか遠くの駅まで乗り過ごしたり、そんな失態を若い頃に繰り返し、酒を飲んだつもりが、“酒に飲まれた”夜を数えきれないくらい過ごした。
その時は激しく後悔したものだけれど、今となってはその経験を笑いと共に愛しく思える。大人になったというかわからないが、人生は何事も経験。
そんなこんなで、今はお酒とは“程よい関係に落ち着いている”と思う。今後も、良い関係で行きたいものだ。
(#いい時間とお酒、というテーマのお題があったので、なんとなくお酒について書いてみました)
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