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現代に生きたフレスコ画の巨匠

まっさらな壁に、漆喰を塗り、生渇きのところへ、水で溶いただけの顔料で、乾かないうちに、サッサッと、描いていく技法。

イタリア語で、冷たい水、焼きたてのパン、などを表現するときに、フレスコという形容詞を使います。英語に言い直すとフレッシュ。

フレスコ画は、直訳すると「新鮮な絵」という意味になります。

フレスコ画の向き不向き

もともと彫刻家だったミケランジェロが、システィーナ礼拝堂の天井にフレスコ画を描くことを命じられた当初は、漆喰を作るための砂が、ローマのテベレ川と、フィレンツェのアルノ川とで、質がまったく異なり、かなり苦労したらしい。

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出典元:Wikipedia

システィーナ礼拝堂に描いた最初のフレスコ画。何度も手を加えて試行錯誤した、ノアの洪水。ほかと比べると、人物が多く描き込まれていて、なんとなくゴチャっとした印象。2枚目以降から、構成が大胆になります。

ようやく配合を見つけだしてからは、色彩豊かな、迫力ある作品が製作されていきます。大胆で、豪快で、迷うことなく、筆を進めていくミケランジェロ。

一方、レオナルドダヴィンチは、一筆振っては、うーん、もう一筆振りしては、うーん。やっぱり、こちらをこの色に、あちらにはあの色にと、遅々として進まず、依頼されたのに、放置してしまうことも。

速さが勝負で、しかも修正ができないので、アーティストにより、向き不向きが出る、フレスコ画。

古代ローマ時代にも似たような手法がありましたが、こちらは、エンカウスティーク技法と呼ばれるもので、蜜蝋を溶かしたところに顔料を混ぜて、熱で溶かしながら描いていきます。

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ローマ国立美術館で撮影したもの。ローマテルミニ駅から徒歩5分のところにあるのに、訪問者が少ないのがとっても残念な美術館。見応えがあり、オススメです。

フレスコ画の立役者、ジョット登場。

フレスコ画の技法を確立したのは、1300年代のジョット・ディ・ボンドーネ。アッシジのフランチェスコ大聖堂、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂、フィレンツェでは、サンタクローチェ教会の礼拝堂のフレスコ画などを手がけています。

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ラピスラズリを使った濃紺が
鮮やかで美しい
パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂

フィレンツェの大聖堂の隣にある鐘楼(ジョットの鐘楼)や、フィレンツェの旧市街を取り囲んでいた城壁(一部はいまも残されています)も、彼の手になるもの。

昔のアーティストは、なんてマルチだったんでしょう。アーティストというカテゴリーはまだ存在していない時代だったから、「すご腕の職人」もしくは「名匠」という位置付けだったのではないでしょうか。

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題名:キリストの死への悲しみ

地元だけでなく、呼ばれれば、アッシジ、パドヴァ、ナポリへと出張に行く、フットワークの軽さ。

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題名:最後の晩餐

わたしたちの生活には、車、電車、飛行機と、あらゆる交通手段があり、それが普通で当然だけど、徒歩と馬と馬車だけでも、これだけ縦横無尽に移動できたなんて、すごいですねえ。

移動時間も、制作時間も、いまよりもずっと時間がかかっただろうけど、思っている以上に、「遥か昔のなにもない時代。」ではなかったのかもしれません。

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題名:ナザロの蘇生

しかも、フィレンツェや近隣以外から依頼があったということは、方々に彼の名が伝え知られていたということ。

「フィレンツェに、すごい絵を描く職人がいるらしいよ。本物みたいで、見るものは、みんな腰を抜かすそうそうだ。」

とかなんとか、伝えられたのかもしれません。

でも、本当に、そんなに素晴らしい技術を持っているのであろうか。作品を見てから決めよう。ジョットになにか描かせてこい。

命を受け、はるばるフィレンツェまで来て、ジョットにお願いすると、フリーハンドで、完璧な円をクルっと描いて、ほいよ。

従者は、こんな丸だけなんて、人を馬鹿にするにもほどがある!

と憤慨しながら、教皇に差し出すと、

なんと! 
これを、コンパスを使わずに描いたというのか!

という逸話が残されています。

いかに、ジョットがすごい人だったか、みなさんも、ぜひ、コンパスを使わずに円を書いてみてください。

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題名:キリストの昇天

同業種組合って?

ジョットの生きた時代、商業活動をするためには、必ず、アルテという商工業組合のいずれかに登録することが義務付けされていました。

日本の学校では、英語のguildから「ギルド」と習った同業種組合を、イタリア語ではアルテ(Arte)と呼びます。

ギリシャ語のアルス(Ars)が語源になっていて、「なにかを作るのに長けること」のような意味になります。

フィレンツェのアルテ(同業種組合)は、 大組合と小組合とがあり、全部で21種類の組合から形成されていました。

ジョットが登録していたのは、大組合の1つである「薬とスパイス(Medici e Speziali」組合。1312年に登録したとの記録が残されています。

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出典元:Firenze araldica

なぜだと思います?

壁に描かれたもので、透明度が高く美しい青色は、ラピスラズリという鉱物。とても高価なもので、お金のある大商人や教会などが使わせていた顔料です。

絵を描くための顔料となるのは、植物、スパイス、鉱物。

そう、これらの材料は「薬とスパイス(Medici e Speziali」組合が仕入れ、提供していたのです。

お医者さんも、当然、この組合に登録することを義務付けられます。

フレスコ画がフレスコ画たるもの

話は戻し、そんなフレスコ画技法。実は化学的な根拠に基づいています。

漆喰は、石灰岩を焼いて水で練ったものです。化学的には、炭酸カルシウムといいます。

焼くことで、酸化カルシウムと二酸化炭素に変わり、酸化カルシウムに水を加えると、水酸化カルシウムができます。これが漆喰です。

漆喰である、水酸化カルシウムを下地に、水で溶いただけの顔料で絵を描くと、時間が経つにつれて、空気中の二酸化炭素を結合をします。

すると、アラ不思議。

焼く前の石灰岩に戻るのです。

たぶん、ここ↑ 読み飛ばした人、いると思います。カルシウムとか、なんとか、かんとか、字面を見ても、頭になかなか入りませんものね。

要は、

水分が蒸発したから、ただ乾燥するんではないんです!

化学変化を起こして、もとの石の状態に戻るんです!

現代のフレスコ画の巨匠、登場。

参考にしたのは、イタリアの中世やルネサンス美術史の研究者の第一人者である、宮下孝晴氏のこちらの書籍です。

絶版になってしまっているのかしら。フレスコ画で描かれた壁画を通してフィレンツェの美を知る内容になっており、読み応えがあります。

宮下氏は、ときおり、旅行会社の企画で、フィレンツェに訪れているようで、わたしも、ツアーに参加したいです!

この本を読み進めていくうちに、出会ったポンテ・ブッジャネーゼ教会。

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高速道路を使えば1時間強で到着する、フィレンツェから80キロほど離れたところにある、なんてことのない、田舎町。

ここに、一度見たら、目が離せなくなる、壮大で鬼気迫るフレスコ画が残されている、教会があります。

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題名:キリストの埋葬と復活

描いたのは、ピエトロ・アンニゴーニ。ミラノで生まれ、彼が15歳のときにフィレンツェに引っ越し、フィレンツェのアカデミア美術館で絵画を学んだのち、画家となります。

宮下氏がこの本に書いているように、500年前のルネサンスに生まれていても、やはり巨匠となりえたであろう。と言われるアンニゴーニ。

彼が、片田舎の教会の、正面扉上、祭壇上、左右の壁、四方すべてに作品を残しています。

なぜ、ここに、描かれるようになったのか。

エピソードが面白い。

当時の司祭のエジスト・コルテージさんは、ある日、新しいオルガンを購入し、古いオルガンを取り払いました。

新しいオルガンは、古いオルガンとは別な場所に設置したため、古いオルガンの置いてあったところには、空間がぽっかりと空いてしまいました。

なんか物足りない。

そこで、司祭は、バラ窓を取り付けたけど、取ってつけたようなバラ窓は、教会の雰囲気と合わず、しっくりしない。なんか変。

そんな折、当時フィレンツェに住んでいた、この町出身のエドガルド・アッリゴーニ教授が、教会を訪れ、

フレスコ画かモザイクで装飾させたらどう?

冗談で、司祭をからかってみた。

ときは、1959年。

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最初は冗談だったけど、このアイデア、なかなかイケるんではないか。

エドガルド教授は、この日から、文化活動している人や、アーティストに声をかけては、なんとかならないか、策を練る日々が続き、3年のときが流れます。

仕方ないと諦めていた司祭も、少しづつ、少しづつ、神のお力添えで、間の抜けた正面扉の上の空間をどうにかできないか、一縷の望みをかけるようになります。

教会に近しい人たちにも、希望の波紋が広がり、どんな絵がいいか話し合いうようになります。

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題名:エレミヤ
バビロニア捕囚を予言し、エルサレムが滅亡。

理解に苦しむような、難解だったり、抽象的すぎるものは、ダメ。ということだけは、一致していたけど、だからといって、どうするかといえば、そこまで具体的な案が出てこず、暗礁に乗り上げた状態。

でも、なんとかしたい。という気持ちは、変わりなく、その間も、教会は、公民館のような、無機質な様相を呈していました。

そんな折、楽天家エドガルド教授が発した一言。

アンニゴーニに声をかけてみたらどうかな?

へ? あのアンニゴーニ?
世界中から巨匠と呼ばれている、あのアンニゴーニ?
英国王室から肖像画を依頼された、あのアンニゴーニ?
オレたちの町に呼ぶの? 

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題名:ナザロの蘇生

冗談とも本気ともつかない教授の話を、目をクリクリさせながら考える司祭、教区の人たち、友達。

もしアンニゴーニが描いてくれるのであれば、さぞ立派な作品に仕上がるだろう。ダメもとで、連絡してみようか。

事務所はフィレンツェにあったので、連絡を取ると、意外にも、弟子が下見にくると言うではないか。

夢に一歩近づいた瞬間。

1965年、世界を飛び回っているアンニゴーニ本人が、教会に足を向けます。

そのとき、すでに、この巨匠は、描く気満々だったことをあとで知ります。

気になるのは、金額。

いくらで引き受けてくれるのだろう。
いくら予算を組めばいいのだろう。
お金を工面できるだろうか。

アンニゴーニが求めた金額は、正確な記載は残されていないけど名目的に請求したもので、微々たるものだったらしい。

さらなる問題が浮上。描いてもらうには、町人から募ったお金で作ったバラ窓を外さなければならず、顔向けができない。夜も眠れぬほど、悩んだ司祭。

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題名:ベトザタの池

病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、池に沿った回廊に収容されており、起き上がれないという病人に、「床を担いで歩きなさい。」とイエスが言うと、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしたという、新約聖書のお話しより。

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案ずるより産むが易し。教区の人たちや友達からは、非難するどころか、逆に励まされ、神の意志にゆだねた司祭は、準備を始めます。

窓を取り払い、湿気で作品が劣化しないように、数センチの空間を空けて、新しく壁を作り直します。

1967年。画家がやってきて、作品を書き始めます。製法は、1300年代のジョットが行ったのとまったく同じ、フレスコ画の技法。

その日の分だけ漆喰を塗り、絵を描いていく、の繰り返し。

できあがったのは、「キリストの埋葬と復活」。見出し「現代のフレスコ画の巨匠、登場。」で最初に紹介した作品です。

完成した作品を見て、画家にお礼を言うが、

うん? まだ終わってないよ。と、アンニゴーニ。
オレは、すべての内部を、描くつもり。つまり、四方全部に、絵を描くんだ。お金はいらないよ。オレが決めたんだから。

そのときの司祭は、鳩が豆鉄砲で撃たれような表情だったことでしょう。

そうして、できたのが、いまのポンテ・ブッジャーノ教会です。アンニゴーニの殿堂として、世界中の人が、この田舎の教会に足を運ぶようになります。

巨匠アンニゴーニ。カッコいい。

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題名:ゲツセマネの祈り

フィレンツェでは、ウフィツィ美術館に自筆の肖像画が寄贈されており、アルノ川を渡ったところにアンニゴーニ美術館があります。中央市場の近くにあるサンロレンツォ教会にも、描いています。

ピエトロ・アンニゴーニ。彼の描く壁画は、ジョットの時代から継承されているフレスコ画で描かれたものばかり。ルネッサンス時代に生きていたら、ミケランジェロと対等に渡り合えたかもしれない、現代に生きた巨匠。

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題名:最後の晩餐
どこに裏切り者のユダはいるでしょう。

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ユダが指を立てて黙るように、そして皿をもつ人の背後に、キリストを捕縛しようと待機している人物が見えます。

1988年10月28日に永眠します。78歳。

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ミケランジェロ広場より一段高い、日々移りゆく美しいフィレンツェの風景を眼下に置く、サンミニアートアルモンテ教会に埋葬されています。

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ジョットと、アンニゴーニと、同じ題名の作品をこの記事に載せています。見比べてみると、面白いですよ。

Chiesa Parrocchiale di Ponte Buggianese
ブッジャネーゼ教会
住所:Piazza del Santuario, 51019 Ponte Buggianese PT
開館:日中はずっと開館しているはずです。要チェック。
教会の隣に司祭館があります。頼めば明かりをつけてもらえます。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。





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