私の阿弥陀さん
「 いつもそばにおるよ 」
京都に暮らしていた頃、お寺をめぐることは私の楽しみの一つであった。好きになったところには何回も訪れていたが、飽きることはなかった。
そのせいか、仏像を見るのが若い頃以上に好きになった。
香の匂いが染み込んだ古い時間が漂うほの暗い空間に身を置いて、ゆらめく蝋燭の火を眺めるのが好きなのである。
中でも、永観堂の「見返り阿弥陀如来」が好きである。
永観堂の阿弥陀さんは「永観遅し」の逸話が有名であるが、修行僧永観と仏との距離感が私にはわかりやすく、信仰や祈りの対象としての仏の「温かさ」を実感できるのである。
阿弥陀堂に納められた厨子の右手奥の方には、振り返る阿弥陀さんの御顔を正面から見ることができる縦長の小さな網窓がある。
阿弥陀さんの息遣いが私の頬に直に当たるぐらいの、ほんの2メートルほどのところまで近づいて眺めることができる。
(写真不許可なので描きました。こんな感じです)
初めてここを訪れた時、この窓から見上げた阿弥陀さんの口元が、私に向かって
「 いつもそばにおるよ 」と 動いたように感じて、しばらくその場から動けなくなってしまった。
それは私への「 永観遅し 」の語りかけであったのかも知れない。
そう思うと、阿弥陀さんのことばが渇いた心に深く浸み込んだ。
「永観遅し」は「いつもそばにおるぞ、安心せい」ということなんだと
受け止めた。
大きな安心感をいただいたようで、嬉しかった。
私だけの阿弥陀さん
こんなこともあった。阿弥陀さんとのご縁なのかと思えるようなできごとであった。
送り火にはまだ少し日があった8月のある午後、厳しい日差しの中、
私はひとり永観堂を訪れた。
もう何度目の訪問になるだろう?
猛暑が続いていたせいか、観光客もまばらで、なんと、2時間近く、真夏の阿弥陀堂に私一人だけの時があった。
いつ訪問しても観光客や参拝客の途切れることのない永観堂にあって、私には千載一遇のご縁を頂いたような出来事であった。
(阿弥陀堂の入り口につながる廊下)
その日の阿弥陀堂は三方が木戸で閉じられ、差し込む光といえば、出入り用の正面の障子戸一枚分からだけであった。
真夏の日差しを避けるようにか、極力光量の抑えられた堂内は冷んやりとして、
陰影と静寂に満ちた、祈りの空間になっていた。
今が、真夏の午後であることを忘れさせた。
まるで、白昼夢を見るような、そんな稀有な時空の中に導き入れられた不思議な体験であった。
薄暗い空間に一人ぼっちでいることなど少しも怖くなかった。
「私だけの阿弥陀さん」
阿弥陀さんを独占して居られることの喜びがじわじわじわじわと私の心を満たして行った。
私は静かに目を閉じた。
そして 須弥壇に祀られた阿弥陀さんの静謐な囁きと
修行僧永観の足音に
耳を澄ませた。
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