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「世間」ではなく「社会」に届く言葉で書くこと 〜note感想文〜

偶然見つけたブログの内容についてのシェアです。身近で内輪感のある「世間」と初見で不特定多数の集合体でもある「社会」のそれぞれに対して、メッセージを使い分けると良いというもの。勉強になりました。

世間ではなく「社会」に届く言語で話すということについて,ルッカ*ルシカ ブログ
https://rucca-lusikka.com/blog/archives/5200

コミュニケーションのふたつのスタンス

孫引きになってしまいますが、詳しくは舞台演出家の鴻上尚史さんの著書に書かれています。世間と社会のふたつの世界観を定義して、それぞれに対するコミュニケーションについて論じています。

そもそも、このふたつの世界観を分け方は何なのか。ポイントは「内輪」の感じが出ているか否かです(ここでは村社会を指しています)。

昔の日本人はみな利害関係のある見知った人たちで構成する「世間」の中で生きてきました。
村社会というのは「世間」です。明治以降近代化して、欧米から日本に「社会」というものが入ってきた。知らない他人が多く集まってできたのが都市です。やがて、そこは「社会」になりました。
馴染みのある「世間」をなくすことはできず、都市では「日本型企業」が「世間」の代わりとなり、年功序列&終身雇用で、新しい「世間」を作ってきました。

ITの発達により、世界中どこでも繋がることが容易になり、一人ひとりの社会の範囲が広くなり、影響も強くなりました。代わりに、相対的に世間の影響は弱まりつつあります。

徐々にではありますが、世間というある程度閉じた世界観は、社会というガラス張りみたいに開いた世界観に押し潰されようとしています。

そんな世界の中で生き延びるためには、正しい言葉を使い、正しい振る舞いを身に付けることだと、著書では述べられています。

この世界観の分断に対して拍車を掛けるのは、SNSの普及です。友達や知り合いとのやりとりがメインのSNSですが、世間のように見えて社会です。これが分かってるようで実は分かってない人が、例えば、世間のつもりで冷蔵庫に入った写真をアップしてしまうのです。

私は社会の繋がりを求めたい

社会に対するアウトプットと言うと、少し怖じ気ついてしまうかもしれません。自分もTwitterを始めるときに、不特定多数からの心無い反応に怯えていた節がありよくわかります。ただ、実際はやさしい人の方が圧倒的に多いという印象に変わったので、いまは全然問題になりません。

いま自分が週2記事を目標に取り組んでいるnoteについても、身近な友人との関わりはほとんど無くて(身近な人に関してはFacebookで記事を流している)、不特定多数の人たちが見ている状態です。

飲み会などのイベントは線引きが微妙ですが、世間と社会の両方の場面があると思います。もともと、そういう場所に対する苦手意識は無いので、普段通りで問題なさそうです。

人は生きていく以上は、社会との折り合いをどう付けるかが鍵なので、自分の言葉が内輪だけの内容になっていないか、相手にきちんと伝わる言葉を使っているかを自分でチェックできれば更に良くなると思いました。

おわりに

ブログに関しては、世間の向こうに社会があることを意識して、そこに向けた言葉で書くこと。元の記事でもそう書いてますが、私の意見も同じでした。

ただ、これまでを振り返ると、内輪感の強い時もあったように思いますので、今後改めて意識していかないとと思いました。特に、イベントレポートは初めて見る人でもついていけるように書かないといけないと思うので。

科学技術が発展して、さらに社会の色合いが強まると思います。その中でもブログのレベルをマイペースに上げていきたいです。

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