幸せと不幸の境界線について
いきなりですが、こう聞かれたらどう答えますか。哲学的な問いでもあるので、なかなか答えは出しにくいかもしれません。
最近知り合えた方が主催するオンラインの座談会でこの話題で議論になりました。時間制限もある中で、色々と意見が出ました。後記になりますが、自分なりにもう少し深掘りしてみようかなと思いました。
幸せの定義は人それぞれのはず
このお題になった時に自分が直感的に思ったことは、みんな似たり寄ったりのことを想像しているのでは、ということでした。つまり、似たり寄ったりのことと、それ以外のことの間こそが、この問いで言うところの境界線だということ。
例えば、クレヨンしんちゃんに登場する野原家、サザエさんに登場する磯野家だとか。生涯共にするパートナーが居て、マイホームがあって、子供が健康に成長していて、などなど。
これが一般的な幸せだというメッセージと共に、テレビもしくはマスコミを介して、みなさんの想像の中に植え付けられている。そんな気がしたのです。
そして、この幸せのモデルみたいなものが、ある種の普通として存在することで、現実と理想の間で葛藤することになる。
みんな境界線に跨ぎながら、幸せの程度を測り、一喜一憂している。そんなイメージです。改めて考えると、邪推に近いことかもしれません。
幸せの定義は人それぞれで違うはずなのですが、結局は国民の総意という形で境界線が画一化している。もっと自由で多様性のある境界線であれば。まずは自分がそう意識することから始めようと思いました。
仕事との関わり方で考える
生きるために仕事をするのか、または仕事のために生きるのか、という意見が出ました。仕事のために生きていることが「不幸」であり、このふたつの世界を分けているのが境界線だということ。
仕事のために生きるというのは、人生において自分でコントロールできないような状態が続いている、ということ。確かにそうだと自分も思いました。
ここでの境界線は非常にわかりやすくて、生きるために仕事をする、仕事のために生きる、この間に境界線があるということ。ただ、問題はこの問いでの幸福度を決めるのは自分自身の他にいないので、他人が指摘するのはお門違いということ。
仕事に対して主体的になれているかどうか。自分の中ではそれが幸せと不幸の境界線だと思いました(ここで言う主体的とは、プライベートを大事にしたいからほどほどに頑張る、という考え方も含まれます)。
そして、自分は仕事をある程度コントロールしながら生きていますので、幸せの領域にいるのだと改めて自覚しました。
おわりに
そのほかの意見で「幸せではない」と「不幸ではない」という間に境界線があるという意見も出ました。
確かに幸せの定義を決めるのは難しいけれど、直感的に不幸ではないと思えるかどうかを決めるならば、そんなに難しくはないかなと。
色々と話が尽きない座談会でしたが、また機会があればぜひぜひ参加して、議論が深められたらと思います。
今回は哲学的なことを考えてみました。考え始めると思考が色々な方向に発展してしまい、文章にするのも大変でした。ただ、今後もこういう分野の文章も書き続けたいとは思いました。
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