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クチナシの殺人 第2幕

第2幕

 天清瞳子が殺害された事件発生から1週間が経とうとしていた。
 検死官主任の九十九が鑑識に回した被害者の胃の内容物と血液検査の調査結果では、睡眠薬と筋弛緩剤の成分が検出された。おそらく、被害者は睡眠薬で眠らされた後、目が覚めてから動けないよう筋弛緩剤を投与されたと推測される。
 現場に残されていた絵については、鑑識官の調査の結果、天清瞳子のアトリエにあった絵具と成分が一致したこと、また、天清瞳子の作風を知る複数の人物たちから「天清瞳子の描き方とそっくり同じである」という証言があったことから、被害者本人が描いたものとみて間違いないという判断に至った。
 しかし、天清瞳子がその絵の制作に着手した理由は、未だ謎に包まれたままであった。
 なかなか思うように捜査が進展しないことで、久地那警察署刑事部刑事第1課のオフィスには張り詰めた空気が漂っていた。
「報告」
 笹村が微かに煙草の匂いを纏わせながらオフィスに現れたことから、笹村の禁煙がまたもや失敗したことを察した1課の面々は緊張した面持ちで立ち上がり、ホワイトボードに向き直った。
「天清瞳子が作品の売上の一部を寄付していたという芸術家の支援団体については空振りです。活動内容はホワイトもホワイト。関係者たちに聞き込みをしましたが、これといった動機となりうるトラブルもなければ医療関係者も該当なしです」
 南の報告に続けるように、際田が口を開く。
「被害者が参加していたボランティア団体の関係者も同様ですね。被害者の死亡推定時刻の間に、現場から20kmほど離れた場所にあるレストランで団体のメンバー全員参加の会食があったらしく、アリバイは確実かと」
「花見堂周の証言にあった、天清瞳子と懇意にしていた、絹川っていうモデルについては?」
 笹村の問いかけに南が答える。
「それについては有益な情報ありです。絹川という名前から、被害者の所持していた携帯端末に登録された連絡先を調べてコンタクトを取ったところ、どうやら現在は仕事でフランスに滞在しているらしく、被害者の死亡推定時刻の間は飛行機に搭乗していて空の上。パスポートの渡航履歴も確認済み。アリバイは確実ですが、現場に残されていた絵に関して興味深い証言を得られました」
 南はモニターにPCの画面を表示すると、証拠写真として撮影された、被害者の手によって描かれたと見られる殺害現場の絵画の画像を開く。
「この絵を描いたのは間違いなく天清瞳子本人だろうと。何を隠そう、この絵に描かれている死体のモデルがその絹川という女性で、この絵を描く天清瞳子本人を目にしており、制作過程も知っていたとのことでした」
 南の言葉で、その場の空気が一変した。
「この絵は『とある依頼で制作することになった』と被害者から聞かされたそうです。詳細は話せないが、『死』をテーマにした絵を描いてほしいと依頼人から頼まれた、と」
 絹川の証言から新たな人物が捜査線上に浮かんだことにより、一縷の望みが差し込んだ。笹村は顎に手をやりつつ南に訊ねる。
「その依頼人とやらに関しては、絹川は何も知らないのね」
「はい、本人はそう言っていました。ただ、依頼ということは展覧会に出品するものではなく、個人とのやりとりでの売買である可能性が高いとのことでした。被害者が作品の売買についてまとめた契約書及び顧客リストなどが見つかれば、依頼人は絞れるかと」
 南の返答に、笹村は納得したように頷く。
「わかった。依頼人に関する調査は南と際田に任せる。小西は何か情報ある?」
「艶島由綺の自殺について当時の関係者を洗ってみましたが、第一発見者である艶島由綺の母・艶島紗和子(つやしまさわこ)は2年前に病死。他に血縁者はなく、深い付き合いをしていた知人もほとんどいなかったそうです。アートグループのメンバーたちともビジネスライクに近い関係性だったと」
 小西からの情報に、笹村は首を傾けて目を細めながら机の上に置いた指をトントンと鳴らす。それは笹村が何かしら考え込む時の癖だった。
「艶島由綺の人間関係に関してはもっと探れるはず。たとえば──」
 その時、発言を遮るようにして笹村の携帯端末から着信音が鳴り響いた。笹村は流れるような仕草でジャケットの胸ポケットから端末を取り出し、発信元を確認すると着信に応じた。
「はい、笹村です。──ええ。──……わかりました、すぐに向かいます」
 手短に通話を済ませた笹村の表情の変化に、南、際田、小西は嫌な予感を胸に抱いた。笹村は捜査官たちを見渡すと、淡々とした口調で告げた。
「悪い報せ。花見堂が遺体で発見された」

 現場は、花見堂の所有するアトリエの裏庭だった。
 花見堂の遺体は、庭を取り囲む塀を這う蔦に覆われ、雁字搦めになっている状態で発見されたという。特に遺体の口元、首、手首、足首は念入りに蔦で巻かれており、手には手折られた白い梔子の花が握られていた。
 笹村は遺体のそばに身を屈め合掌する。
「死因は?」
 先に現場に到着していた検死官の九十九に、笹村が無感情な声で訊ねた。
「死斑から見るに、おそらく窒息死かと。詳細は解剖してみないことには何とも言えませんね。ただ、犯人は先日の殺害犯と同一人物ではないかと推察します」
「というと?」
 笹村が怪訝そうに訊き返すと、九十九は白い手袋をはめた指先で遺体の口元の蔦をそっと外してみせる。蔦の隙間から覗く遺体の口元を見た笹村は「成程ね」と呟いた。
「ご丁寧に赤い糸で縫合された口──天清瞳子と同じってわけ」
「はい。ですが、今回は遺体の殺害方法が前回と比較するとかなりシンプルかつスマートです。目立った外傷は今のところほぼ見当たらず、出血もない。おまけに、この現場の演出の小道具ともいえる蔦で、遺体を覆うという手間をかけている。前回の事件でもそうでしたが、やはり犯人の心理は──」
 九十九の話が本題から逸れていくのを察した笹村は、呆れた表情で九十九を振り返る。
「おじいちゃん、プロファイリングはまた後で。今は死亡推定時刻の予測の時間でしょう」
 笹村に窘められた九十九は笑みを絶やさぬまま肩を竦めた。
「優しくない孫だ」
「えっ、孫!?」
 笹村と九十九の会話が聞こえていたのか、際田が驚きの声を上げて目を丸くしていた。笹村はやれやれといった様子で頬を掻く。
「笹村さん、九十九さんのお孫さんだったんですか?」
「その話はまた今度ね」
 笹村は際田に手をひらりと振って「仕事しなさい」と追い返す。
「で、死亡推定時刻は?」
「気温の影響を含めて考慮すると、今朝…大まかに見積もって9時から11時の間といったところです」
「……そう。解剖で何かわかったらすぐ知らせて」
「仰せのままに」
 笹村はすっと立ち上がると遺体から離れ、現場周辺を見渡した。庭といっても広場に近いそこは、しっかり刈り揃えられたふかふかとした芝生が広がっている。靴跡の追跡は難しいだろう。近くの花壇には色とりどりの花々が植わっている。その中に、梔子の花もあった。
 そして、遺体の近くには予想通り1枚のキャンバスが残されていた。
 笹村は迷いのない足取りで芝生を踏み締めてキャンバスの前に立ち、その場にしゃがみ込むとキャンバスに描かれた絵を見据えた。
 蔦に覆われた死体と現場が再現されたその絵は、天清瞳子とは異なる色使いや筆致で描かれていた。
 その絵を険しい表情で見つめる笹村の側へ、小西が歩み寄って立ち止まる。
「被害者は花見堂周(はなみどうあまね)、52歳。今日の午後、勤め先である久地那美術大学に出勤して来なかったことを不可解に思った事務員が花見堂に電話をかけるも繋がらず、労務担当者が自宅を訪問したところ不在だったため、警察に通報。もしかしたらと労務担当者が被害者のアトリエの住所を伝えたところ、様子を見に訪ねた近くの交番に勤める警官により遺体が発見されたとのことです」
 小西からの報告に黙って耳を傾けていた笹村は、姿勢を変えることなく小西に訊ねる。
「労務担当者の通報は何時頃?」
「14時です。遺体発見は15時半とのことでした」
 通報から遺体発見に至る経緯を把握した笹村はしばし間を置いてから、ねェ、と小西に話しかける。
「この絵、花見堂本人が描いたものだと思う?」
 笹村の問いかけに、小西はやや緊張した面持ちで絵を眺める。
「……おそらく。花見堂周の他の作品を見たことはないので断言はできませんが、天清瞳子とは色使いも筆致も異なりますし、彼もまた依頼人からの注文でこのような絵を描いたのでは」
 小西の見解を聞き、笹村は目を細めた。
「…ひとまず鑑識に回すしかないね。このアトリエにある画材の成分と、この絵に使われている画材の成分が一致するか照合してもらおう」
 恨めしそうにキャンバスを見つめ、笹村は手袋をはめた指先でキャンバスの端を突いた。途端、笹村の指先に絵具が付着した。てっきり絵具は乾いているものと思い込んでいた笹村は、長い睫毛を瞬かせて自身の指先を見つめた。
「これ、まだ絵具が乾いてない」
 僅かに驚いた表情を浮かべる笹村に、小西が身を屈めて笹村の指先を見つめながら応える。
「ということは、おそらく油彩ですね。油絵具は完全に乾燥するのに2〜3日かかるらしいので」
「……つまり、この絵は完成して2〜3日も経っていないってことになる」
 笹村は小さく呟くと、俄かに立ち上がった。
「花見堂は天清瞳子の事件で、現場に残されていた絵については知っていた。それが約1週間前。ぱっと見た感じ、キャンバスサイズは天清瞳子の絵と同じ。筆が速いと評されていた天清瞳子で仕上げるのに2週間程度。大学で教授として勤務している傍ら作家活動をしていた花見堂なら、完成にもっと時間がかかるはず。天清瞳子の事件以前からこの絵を花見堂本人が制作していたのなら、天清瞳子の絵を見て違和感を抱いただろうし、事情聴取の際に話してもおかしくない。だけど何も話さないまま、作品を完成させて間もなく殺害された。花見堂が私たち警察にこの絵のことを話さなかったのは──」
 ぶつぶつと推測を口にする笹村を、小西が呆気に取られた様子で見つめる。そんな小西を気にも留めず、笹村ははっとした表情で顔を上げた。
「個人からの依頼だったから、か。個人を相手にした売買なら、作品に関して契約上の機密保持を貫いても不思議じゃない。花見堂本人に話す意志がなければ、こちら側も本来は知り得なかった事情だった。個人で依頼されたであろうこの絵と、天清瞳子の事件の絵とは無関係だと花見堂が判断したから? それとも誰かを庇っていた? 共犯者の存在の可能性は──」
「笹村さん!」
 見かねた小西が、ヒートアップしていく笹村の思考回路の流れを断ち切るように笹村の名を呼び掛けた。笹村はびくりと肩を竦めて小西を振り返る。
「……なに」
「考えるのは帰りの車中でお願いします。この後、証拠品の押収について鑑識から話があるそうなので」
「…そう、わかった」
 笹村は常の落ち着き払った顔つきに戻ると、くるりと踵を返して鑑識のいるアトリエ屋内へと向かっていった。その後ろ姿を見送りながら、小西はやれやれと溜め息を吐く。
「スイッチが入るとすぐ思考回路がフル稼働する笹村さん、何回見てもちょっと怖いんだよな…瞳孔開きっぱなしだし」

「笹村さんが九十九さんのお孫さんって本当なんですか?」
「は?」
 花見堂が殺害された事件について丹羽に事情聴取するため任意同行を要請するべく、丹羽のギャラリーカフェへと向かう車中。際田の突拍子もない質問に、南は煙草の灰を落としそうになる。
「現場で笹村さんが九十九さんに『おじいちゃん、プロファイリングはまた後で』って言って、九十九さんが『優しくない孫だ』って返してたんです。笹村さんが年上の九十九さん相手に敬語を使わないの不自然だなって思ってたんですけど、そういう関係だったなら納得がいきます。九十九さんが笹村さんに対して敬語なのはよくわからないですけど」
「あァ…」
 際田の話を聞いた南は「あの2人ね」と零し、煙草を咥えて煙を吸い込んだ。そして、ゆっくりと煙を吐き出すと、南はサングラス越しに窓の外を眺めながら呟いた。
「正確には血の繋がった祖父と孫娘じゃなく、保護者と養子って関係性らしいよ」
「えっ、そうなんですか?」
「詳しくは知らないけどね、それなりに親しい間柄ではある。九十九さんとの関係についてはいっつもはぐらかすんだよ、笹村さん。まあ、九十九さんが敬語なのは誰に対してもそうだから、私はそこまで違和感はないけど」
 南から得た情報に、際田は予想外と納得が入り混じった表情を浮かべる。言われてみれば、際田は九十九と話す機会はほとんどないが、他の面々と話している時の九十九は基本的に敬語であった。
「年齢差でいえば確かに祖父と孫娘って感じではあるよね。九十九さん、知識が幅広いが故によく話が脱線するとこあるけど、笹村さんも何かの拍子に思考モードのスイッチが入ると諸々すっ飛ばして周りを置いてけぼりにして勝手に問題点を解決することとかたまにあるし、なんだかんだ似てるかも」
 そう言って愉しげに笑う南。一方で、笹村のことを知れば知るほど、際田は笹村のことがよくわからなくなっていくのだった。

 その頃、笹村は九十九に呼び出され検死室にいた。解剖台の上に仰向けに横たわる花見堂の遺体を一瞥し、笹村は九十九の方を向く。
「何かわかった?」
 微かに煙草の匂いを纏わせて現れた笹村を迎え入れた九十九は、いつもの笑みを湛えながら口を開く。
「予想通りと言いますか、遺体の口内にはドクゼリの花が詰め込まれていました」
「そう。他には?」
「死因についてお伝えしたく。現場での遺体の状況からの見解では窒息死と推測しましたが、解剖の結果、閉鎖性喉頭外傷による窒息死であることが判明しましてね」
「閉鎖性喉頭外傷…具体的には?」
「首に奇妙な痣があったのでレントゲン撮影をしたところ、軸椎──一般的には喉仏と呼ばれる部分が綺麗に骨折していました。軸椎を折られたことによる急性呼吸困難が起因して窒息したものと思われます」
 そう言って、九十九は遺体の首の部分を指し示す。
「ご覧の通り、軸椎部分の痣以外には溢血痕や手形などは見られないため、絞殺による窒息ではないことがわかります」
「つまり、犯人は被害者の軸椎をピンポイントで狙って折ったと?」
 笹村の推察に、九十九は「その通り」と首肯する。
「手段は非常にシンプルです。軸椎の部分を摘んでひと思いに捻れば良いだけなので。しかし、軸椎を折ることでヒトを死に至らしめるという発想は、一般人には及ばぬもの。人体の構造を知り尽くした人物による犯行と見て良いでしょう」
 天清瞳子と花見堂周の遺体の共通点、口を赤い糸で縫合されているという点から、犯人は医療従事者であるという可能性は捜査の初期段階から考慮していたが、今回の事件の遺体の死因は、その推察を裏付けるものとなったわけである。
「医療従事者及びそれに相当する知識と技量を持つ人間、か…」
「外科医、検死官、エンバーマー…考えられる生業はいくつかありますね」
「だけど、被害者たちの関係者を洗っても、今のところ医療従事者に該当する人物はゼロ」
「芸術に携わる者であれば、美術解剖学という分野を学ぶこともあるはず」
「とはいっても、それはあくまで美術的観点から身体の構造を学ぶものであって、遺体に施す縫合技術までは身に付けられないでしょう」
 笹村は腕を組みながら溜め息を吐く。そんな笹村の様子を見かねた九十九は、意図的に話題を逸らすことにした。
「少々根を詰めすぎでは? 煙草の本数も増えたでしょう」
「…バレた?」
 気怠げに応える笹村。ここ数日の疲れが滲んでいるのは九十九の目には明らかだった。
 九十九は仕方ないと言いたげに、デスクの抽斗を漁るとビビッドな色合いの袋を取り出した。
「今更あなたに禁煙を推奨するのは野暮なのでしませんが、疲れた時には糖分補給をおすすめします」
 そう言って九十九が笹村に手渡したのは、動物の形を模した可愛らしいビスケットだった。久地那警察署のごく限られた人間しか知らないことだが、九十九は常にこのビスケットを携帯している。その理由は、少し目を離すとすぐに無理をしてしまうかつての養い子を、時折こうして甘やかすためである。
「…いい加減子供扱いしないでって言いたいところだけど、ありがたく受け取っておく」
 何とも形容し難い表情を浮かべつつ、笹村はビスケットの袋を受け取るとジャケットの内ポケットに仕舞い込んだ。笹村はこういったスナック菓子は自分では買わないが、たまに口にする分には割と好きなのである。
「息抜きを提案するのは、子供扱いではなく大人としてのアドバイスです」
「はいはいわかった。お気遣い痛み入るわ」
 笹村はひらりと手を振って踵を返し、検死室を後にした。

 一方、小西は天清瞳子と花見堂周の自宅から押収した証拠品リストから、端末に残されたメール履歴やUSBメモリ、書類関係をピックアップし、被害者達の作品を買い付けたことのある顧客に関する情報がないか調べていた。
 当初は南と際田が任せられた仕事だったが、花見堂の遺体が上がったことで急遽業務の振り分けが変更されたのである。
 現場や事情聴取に出向くことは多々あれど、小西の基本業務はこうした情報収集だった。ハッキングや暗号解読、コンピュータを使った解析、情報収集に関して、ここ刑事部において小西の右に出る者はいない。
 しかし、そんな小西がいくら調べても、天清瞳子と花見堂周に、個人的に『死』をテーマにした作品を注文したと見られる依頼人の存在は見つからなかった。端末に残されたままの履歴から、削除されたメールやデータのログに至るまで遡ってみたが、それらしきものは見当たらない。暗号化されたテキストでのやりとりを考慮に入れても、内容にはこれといって引っかかる規則性もない。
 ここまでくると絹川の証言が疑わしくなってくるものの、アリバイもあり、証言に協力的だった彼女が嘘をついているとは思えない。
 逆に言えば、証拠が無さすぎるという点が奇妙なのである。
「犯人が徹底的に証拠を隠滅した…?」
 仮に専用の使い捨て携帯電話のような端末でやりとりをしていたのなら、殺害時に犯人がそれを持ち去ってしまえば証拠は残らない。潜入捜査ではよく使う手段であるが、一般人が仕事のやりとりでわざわざ使い捨ての端末を利用するとは考えにくい。となれば──
「クラッキングの得意な人間が関わっている可能性、か」
 今時、コンピュータ関連の情報分野に明るい人間はごまんといる。学校で専門的に学ぶ者もいれば、独学でプロの道に進む者もいる。そうした経歴を持つ関係者がいるか洗ってみようか。
 小西は早速、一連の事件の関係者から経歴を調べることにした。手始めに、事件の被害者たちと近しい存在である丹羽万純の情報から集める。
 制作活動に専念している芸術家は、大抵所属しているギャラリーのウェブサイトや自作のポートフォリオのホームページにプロフィールを掲載している。また、近年ではSNSのアカウントを複数保有し、制作活動の宣伝をしている芸術家も多い。
「丹羽万純のホームページ…あった」
 モノトーンを基調としたスタイリッシュなUIデザインの画面に表示されたメニューバーからバイオグラフィーのタブをクリックする。
 更新された画面には、丹羽万純の経歴が掲載されていた。
「どれどれ…っと」
 そこには、丹羽は久地那美術大学卒業後、アメリカの大学院を修了した旨が記されていた。
「このアメリカの大学は工学系の分野に特化した教育機関だったはず」
 美術に関する分野を学ぶ設備は整っていないはずのその機関について検索してみる。
「美術と近しい分野で言えば建築学部あたりかな。確かにあのギャラリーカフェの空間設計はこだわりを感じるものがあったけど…」
 小西はその大学に関する情報が掲載されているウェブサイトをざっと流し見ながらスクロールバーを下げていく。著名な卒業生の一覧でもないかと探していたところ、気になる項目を見つけた。
「『ハック』…?」
 どうやらこの大学では、『ハック』と呼ばれるゲリラ活動的なイタズラが存在するらしい。それは単なるイタズラではなく、日頃研究した様々な技術を駆使したものに限るという。卒業研究のおまけのようなものらしく、卒業を間近に控えた学生たちが、学内にイタズラを仕掛けるのだそうだ。そういったイタズラはあくまで洒落の範疇に収めることが重要とされており、SNSでもしばしば拡散されることもあるようだった。
「さすがアメリカ。名門ながらなかなか面白い校風…っと、いけない。脱線するところだった」
 小西が『ハック』に関するタブを閉じようとした時、1枚の画像が目に止まった。過去にあった『ハック』についてピックアップされたページだ。
「学内の共有ラウンジに置き去りにされた携帯端末からの着信に応じるとオルゴールの音色が流れ出した…なんだこれ」
 詳細を確認してみると、その携帯端末は当時の学生のお手製で、機能としては連絡が取れるわけではなく、ただ単にオルゴールの音色を流すだけの代物だったようだ。その画面には、"#E45E32_feather"と表示されていたという。
「このコード、どこかで…」
 小西は口元に手を遣りながら、"#E45E32"の文字列を見つめた。昔、どこかで見た覚えがある規則性のコードだった。小西はその文字列をコピーし、データベースの検索エンジンにかけてみる。
「……!」
 検索結果を確認した小西は目を見開いた。
「そうだ、これ、カラーコードだ…しかもこれは…」
 カラーコードとは、色を一定の形式の符号で表したものや、色の組み合わせで何らかの符号を表したものである。 IT分野では一般に前者を指すことが多く、記号や英数字を組み合わせた色データの表記法を意味する。
 そして、"#E45E32"が示す色は──
「丹色(にいろ)…アンダーバーの後半の"feather"は『羽』を意味するから──」
 丹羽。
 どうやらこのイタズラを仕掛けた張本人は、大胆にも暗号化したサインを堂々と残していたようだ。
「簡易的とはいえ携帯端末を手作りできる技量があるなら、丹羽は情報分野に関して知識があると見ていいかもしれない」
 念の為、丹羽万純以外に丹羽という姓を持つ卒業生がいるかどうか調べ、裏を取る必要はあるものの、これはかなり大きな収穫だった。
「これはアメリカの大学に直接問い合わせた方が早いんだろうけど…」
 国際電話での連絡手段に加え、英語を流暢に操れる人物による聴取が必要となってくる。
 英語が話せる身近な捜査官に、何人か心当たりはあった。
 1人目は我らが班長、笹村香。海外への留学や在住経験はないものの、なぜか英語がそれなりに話せる。本人曰く、洋楽や海外ドラマからなんとなくで習得したというが、あくまで日常会話レベルとのことで、捜査で要する専門用語はあまり話せないと言っていた。
 そして2人目は、南さくら。持ち前のコミュニケーション能力に起因した英語力は現地でも通用するレベルと聞いていた。捜査における業務でも事情聴取や取り調べを主としているため、今回のパターンには打ってつけと言える。
 しかし、南は現在際田と共に丹羽のギャラリーカフェへ向かっている。笹村は九十九から検死室に呼ばれており、今はオフィスにはいない。
「うーん…」
「なに唸り声上げてるの」
「わっ、笹村さん。戻られたんですね」
 気配を消して背後に現れる癖のある笹村に驚かされるのはこれで何度目だろうか。跳ね上がった心臓の鼓動をなんとか鎮め、小西は手元のPCの画面を覗き込む笹村の方を向く。
「顧客リストやメールのやりとりに怪しい点は見当たらなかったのですが、逆に証拠となり得る怪しい箇所がなさすぎる点に違和感を覚えたため、証拠隠滅に繋がるハッキングなど情報分野に明るい人物が事件関係者にいないか調べていたんです。そこで丹羽万純について情報を集めていたのですが──」
 小西は捜査の経緯を手短に述べ、アメリカの大学に丹羽について問い合わせたい旨を伝えた。
「成程ね。今ちょうど少し手が空いたところだから、それはこっちでやっておく。小西は引き続き捜査を進めて」
「えっ、あっ、わかりました」
 笹村があっさり聴取を引き受けたことに少し驚いた小西を置いて、笹村はオフィスを出て行った。
「なんだか笹村さん、いつもよりちょっと機嫌良かった…ような…」
 笹村が先程まで九十九のところにいたことを鑑みるに、情報共有ついでに九十九セラピーでも受けたのだろう。そんなことを考え、小西は伸びをしてからPCに向き直る。
 他に情報分野に詳しい関係者がいないか調べを進めること数時間。これといって進展がないまま捜査が停滞していたところへ、資料と思しき紙の束を手にした笹村がオフィスに戻って来た。
「小西の予想、当たりだったよ」
 そう言って、笹村は小西のデスクに資料を置く。
「携帯オルゴールのイタズラがあった年の卒業生及び修了生のうち、日本人は13人。その中で丹羽という姓の卒業生はたった1人。名前は丹羽万純。建築分野博士課程を修了していた」
 資料にマーカーを引いた部分を指し示しながら淡々と結果を告げる笹村に、小西は目を瞠る。
「もうわかったんですか? 向こうの対応と時差、情報伝達のタイムラグを考えると1日はかかると思うんですけど…」
「条件次第でなんでも調べてくれる知り合いがいるんだ。いくら14時間の時差があるって言ったって、1日も待ってられないから。あ、これ小西と私だけの秘密ね」
 さらっととんでもないことを口にした上司の発言を聞かなかったことにして、小西は乾いた笑いを零すしかなかった。
 刑事部で現場対応や捜査を担当する立場ともなれば、独自の情報網を築いている者も少なくないと聞く。部下のあずかり知らぬところで笹村が情報屋を何人か雇っていたとしてもおかしくはなかった。
 小西は丹羽に関する新情報を南に伝えるべく、携帯端末を手に握った。

 久地那警察署刑事部刑事第1課のオフィスがあるフロアには、エレベーターを境として反対側に広々とした資料室と、3つの取調室が並ぶ。
 その取調室のうちの1つに、南と丹羽が机を挟んで向かい合って座っていた。南は捜査資料の束を左手に持ち、右手に持ったボールペンを詰まらなそうな表情でくるくると弄ぶ。丹羽は緊張感からか落ち着かない様子で机の上を見つめている。
 張り詰めた空気が漂う中、口を開いたのは南だった。
「我々はね、こう見えても結構忙しい立場なんですよ。とは言っても、報告書の提出、電話対応、書類整理、データのバックアップ、定例会議、管轄内の巡回、エトセトラ…そういった日頃の通常業務が主で、事件性のある案件なんてそうそう起きないんです。まァ、そんなしょっちゅう発生されても困るし、何事もないに越したことはないんですけど」
 そう言って、南は左手に持っていた資料をばさっと机の上に乱雑に広げた。
 そこには、一連の事件の現場写真に加え、天清瞳子と花見堂周の遺体の写真が混ざっていた。遺体の写真を目にした丹羽は、びくりと固まって息を呑む。そんな丹羽を気にも留めず、南は言葉を続ける。
「でもね、こうも立て続けにうちの管轄内で殺人事件が発生すると、忙しさに拍車がかかるわけです。そうなるとね、いつも飴玉転がしてるうちの上司が禁煙に失敗して、煙草の本数が増えるんですよ」
 丹羽は戸惑いを隠せない様子で南を見る。南はやれやれといった姿勢を崩さないまま、右手でボールペンを回し続ける。
「私、上司のことはそこそこ尊敬しているので、できれば長生きしてほしいんですよね。そのためにも可及的速やかに事件を解決してしまいたいので、あなたにもご協力頂きたい」
 南はボールペンを回していた右手の動きを止めると、丹羽に向かって身を乗り出すようにして頬杖をつき、栗色の丸い瞳でじっと丹羽を見据えた。
「今日の9時から11時の間は、どこで誰と何してました?」

「出たよ。南お得意の嘘か本心か初見ではわからない取り調べ前置き口上」
 取調室の壁に取り付けられた鏡の向こう側で、取り調べの様子を見ていた小西が呟く。
「南先輩が容疑者の取り調べを担当してるの、初めて見ました」
 小西の横で見学していた際田がそう言うと、小西は腕を組んで取調室の様子を眺めながら説明する。
「際田がうちに来てから殺人事件が発生したのは、これが初めてだからね。私は情報収集の仕事がメインだけど、南は事情聴取や容疑者の取り調べを担当することが多い。うちの班で一番"話術"に長けてるからね、勉強になると思うよ」
 小西の言葉に、際田は興味深げに取り調べの様子を見る。
「南曰く、嘘に本心を混ぜると相手を掌握しやすい。他にもちょっとした仕草や姿勢、聴き方、話し方にもコツがいるけど、一番はそれだって言ってた。際田は今の南の前置き、どこからどこまでが嘘で本心かわかった?」
「えっ、唐突ですね!? えっと…通常業務で忙しいのは事実ですよね…? 笹村さんが禁煙目的で飴玉をよく転がしてるのも、忙しくなると禁煙に失敗するのも事実ですし…」
 うんうんと唸りながら考え込むことしばし。はっとした表情で顔を上げた際田は、恐る恐るといった様子で小西の方を向いた。
「もしかして南先輩、笹村さんのこと、本当は尊敬してない、とか…?」
 際田が言いにくそうに小声で零した返答に、小西が思わずといった様子で吹き出した。
「際田が南のことをどう思ってるのかよくわかったよ」
「えっ!? いや、そういう意味じゃなくて!!」
 必死に弁明しようとする際田を、小西は口元に人差し指を当てて「静かに」と諫める。
 厳重に防音加工がされている空間とはいえ、容疑者の取り調べを見学している立場上、声のボリュームは控えるべきだった。
「す、すみません…!」
 ばっと掌で口元を覆う際田。
「まあ面白いこと聞けたし許してあげる。あながち着眼点は間違ってなかったしね」
 小西はくすくすと笑った後、雰囲気を切り替えて真剣味を帯びた声音で続けた。
「正解はね、今回の場合は本心より嘘の割合がかなり少なかった。内訳で言うと、『煙草の本数が増える』と『上司をそこそこ尊敬している』って発言が嘘」
 当たらずとも遠からず。小西の言った、際田の着眼点はあながち間違っていないというのは確かだったらしい。
「どうしてわかったんです?」
「伊達に南と長い付き合いしてないからね」
 小西は肩を竦めて、鏡の向こう側にいる南をちらりと見遣る。
「ちなみに、禁煙に失敗する笹村さんは、一応禁煙目的で煙草をストックしてないから、厳密には笹村さんの吸う煙草の本数じゃなく、喫煙所で南が笹村さんから巻き上げられる煙草の本数が増える。チェーンスモーカーの南からすれば喜ばしくはない。前に南がぼやいてた」
 成程、と際田は納得した。出勤前に一服。車に乗れば一服。食前食後に一服。休憩時間に一服。退勤後に一服。際田が知っているだけで、暇さえあれば連続で最低2本は煙草を吸っている南を思い返す。そこへ笹村からの煙草の催促が加われば、消費ペースがかなり早まるのだろう。
「『上司をそこそこ尊敬している』っていうのは?」
 際田の問いかけに、小西は楽しげに笑った。
「そこそこどころか、笹村さんのことはめちゃくちゃ尊敬してるよ、南は。何しろこの実力主義の男社会で、刑事部の刑事1課捜査班の班長に就いてる人だからね。煙たがる人は多いけど、それと同じくらい憧れを抱いてる人もいるんだよ」
 そう語る小西の横顔を見つめ、際田は口を開く。
「小西先輩も、笹村さんのことは尊敬してるんですか?」
 自分がそれを訊ねられるのは想定外だったのか、小西は一瞬目を見開くと可笑しそうに肩を震わせた。
「無論、尊敬に値する人だと思ってるよ。照れ臭いから本人の前では言えないけどね」
 

「はァ〜、クソがよ。埒があかねェ」
「南、口悪いよ」
「おっと失敬」
 取調室に丹羽を置き去りにしてオフィスに戻って来た南が、疲れきった様子でデスクに突っ伏した。あまりにも長丁場だったため、小西と際田も既にオフィスに戻り、それぞれ調査を進めていた。
「アリバイなし、一方で決定的な証拠もなし、明確な動機も不明、だけど現状で一番疑わしいのは丹羽万純。『ハック』のことを持ち出したり、花見堂との共犯説を突いたりしてみたら、『ハック』については言い逃れできないと踏んだのか認めたけど、共犯だの殺害だのに関しては真っ向から全否定。おまけに軽率に弁護士を呼ぼうとしなかったあたりシロっぽくて腹立つ。まァ、最終的には弁護士が来るまで黙秘権を行使するって言われたけど」
 疑惑を向けられたクロの容疑者は大抵、名誉毀損だ何だと弁護士を呼びたがる傾向にある。弁護士が来るまで何も話さないと言って口を閉ざす者も少なくない。無論、これは容疑者に保障された権利であるため警察側は拒否できない。結局、丹羽もその手段を選んだため、これ以上は弁護士が来るまで取り調べを進められない。
「花見堂との共犯説って、具体的には?」
 デスクで頬杖をつき、PCと向き合いながらビスケットを摘んでいた笹村が小首を傾げて南に訊ねる。
「天清瞳子の殺害は花見堂と丹羽の2人による計画殺人。天清殺害後、何らかの事情で揉めて丹羽が花見堂を殺害、的な」
 南の返答に、笹村はサクッと音を立ててビスケットを齧りながら考え込む様子で目を細める。
「共犯者がいる説は私も考えてた。一連の事件の証拠から考察してみるに、犯人の特徴に振れ幅がありすぎる。遺体に縫合を施せるほどの外科的知識と技量を有する人物。そして、端末に残されたログから証拠隠滅を実行できるほどの能力を持つ人物。後者は丹羽でほぼ間違いないと思うけど、前者に該当する人物が見つからない。加えて、現場に残された絵との関連性も説明がつかない」
 そう呟いてしばし黙り込んだ後、笹村はペットボトルの紅茶を飲む。
「何度も暴行を加えられた血塗れの遺体と、外傷が最低限に留められた綺麗な遺体──対比を重視した芸術的犯行、か」
 笹村はぽつりとそう零したかと思うと、顔つきを変えて背筋を伸ばした。
「別の角度から切り込むしかないね。小西」
「はい」
「花見堂の遺体が上がったことで後回しにしてたけど、艶島由綺の関係者をもう一度洗い直してほしい」
「艶島由綺の関係者、ですか?」
 小西は思わず怪訝そうに問い返す。艶島由綺の血縁者やアートグループのメンバーについては既に調査済みである。他に宛てがあるとは思えなかった。
「1人見落としてるはずだよ。艶島由綺は精神疾患を患っていた。なら、心療内科か精神科にかかりつけ医がいたはず」
「!」
 盲点だった。というより、何故見落としていたのか。小西は慌てて2課から借りている艶島由綺の自殺に関する捜査資料を引っ張り出す。
「艶島由綺の担当医…あった。『久地那大学病院心療内科医・常盤みどり』」
 彼女の証言に目立った部分はなく、過去の診察やカウンセリング内容にも不審な点は見当たらなかったため、すっかり捜査線上から抜け落ちていた。
「明日から小西は常盤みどりの情報収集。その後、南と際田は常盤みどりに事情聴取」
「了解」
 面々の返事を聞くと、笹村は「もういい時間だし、皆は上がりな」と言い残し、デスクから立ち上がると資料を手にオフィスを後にした。
「…笹村さん、どこ行くんですかね」
 際田が小西に訊ねると、小西は何でもないことのように答える。
「丹羽につける当番弁護士の手配だよ。色々と手続きがあるからね。それが済んだら笹村さんも帰ると思うよ」
 成程、班長ともなれば捜査だけでなくこうした手続きも仕事のうちに含まれるのか。また1つ賢くなった際田であった。

→第1幕
→第3幕


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当記事、および企画で取り扱っている事件はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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Yuki_Tsuyashima


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