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クチナシの殺人 第1幕

序幕

 閉めきった窓の外から夕陽の差し込むアトリエにひとり佇み、女は吐息を零す。薄らとアイシャドウに彩られた切れ長の目を細めながら、夕陽が山並みの向こう側へと沈んでいくのを、女は何の感慨もなく眺めていた。そして、ちらりと視線を手前に向ければ、そこにはつい先程まで景色を華やかに飾っていた花々が摘み取られ、壁や地面を這う蔦の緑だけが取り残された裏庭が淋しげに横たわっていた。
 女は詰まらない物を視界に入れてしまったとでもいうような表情を浮かべ、窓の外に背を向ける。雑然とした小さなテーブルの片隅に置かれた真白なティーカップに半分ほど残されたままのダージリンは、すっかり冷めてしまっていた。アトリエの床一面を覆い尽くすかのように敷き詰められた、血のように赤い彼岸花が、女の足元でかさりと揺れた。
 アトリエの主である女──芸術家・艶島由綺(つやしまゆき)は、彼岸花の絨毯を踏みしめながらアトリエの一角へと歩みを進める。立ち止まったのは、イーゼルに立てかけられた1枚のキャンバスの前だ。それは由綺にとって人生で最後の、そして史上最高の傑作だった。
 由綺はうっとりとその作品を満足げに見つめた後、先程窓の外を眺めていた時の憂いを帯びた表情とは打って変わって愉しげな笑みを紅い唇に湛えた。それはまるで、これから始まる演劇に期待感を膨らませ、待ち切れないと浮き足立つ観客のような。はたまた、友人たちとのお茶会が楽しみで楽しみで仕方ないとでも言いたげな淑女のような。
 くるりと踵を返し、由綺はテーブルへと向かう。ティーカップの横に置いてある硝子の器に盛られたハーブのようなものを匙で掬い上げると、それをダージリンのティーカップへと落とした。
 柳のようにしなやかな白い指でティーカップを持ち上げると、由綺は流れるような所作でそれを飲み干した。
 細く息を吐き、由綺はなんとなく棚に置いてある写真立てをちらりと一瞥した。昨日までは、その写真立てにはとある1枚の写真を入れて飾ってあったのだが、由綺は昨夜のうちに写真を抜き取ってしまった。
 その理由は至ってシンプルで、"自分にはもう必要ないものだから"という判断を下したが故であった。
 写真立てから目を離し、由綺はティーカップをテーブルの上のソーサーに戻そうとした。
 刹那、由綺の手からティーカップが離れた。
 重力に従って彼岸花に覆われた地面に落ちたティーカップは、鈍い音を立てて割れた。
 由綺は呼吸が浅くなるのを感じながら、震えて引き攣る身体をなんとか壁に委ね、ずるずると腰を下ろしながら胸を掻き毟る。苦しげに掠れた声が、仰け反った咽喉から絞り出される。それでも尚、由綺は内心、達成感と満足感で充たされていた。

 あァ、これで、やっと──

 地獄花に埋もれたひとりの女の結末を、夕闇が幕を下ろすように覆った。



第1幕

 透き通るような青空に涼風の吹く朝。新しい革靴の底を鳴らしながら、新米捜査官の際田鯵(さいだあじ)は職場である久地那(くちな)警察署の前を歩いていた。
 久地那の街は広域に渡る都心の市街地である。そのため、この地域を管轄に持つ久地那警察署は、警察本部と同等に近い規模で構成された警察組織の拠点となっている。ここ数年で進められた都市開発に伴い、久地那警察署は3年前に新しく建てられたこの建造物へと移転した。硝子張りのフロアと煉瓦造りの外装がミックスされたモダンなデザインの内側には、各部門のオフィスや取調室、資料室、通信衛星室の他、仮眠室に道場やジム、射撃訓練場といった施設を抱えている。最新鋭の設備が整えられた警察機関なのである。
 若手ながらそんな充実した勤務地に、それも警察の花形とも呼べる刑事部刑事1課に配属されたので、際田は毎日上向きの気分で出勤するのだ。無論、業務内容は守秘義務も多く、体力的にも決して楽とは言えないが、それでもやりがいのある仕事だと胸を張って言える。
 際田は玄関口でIDを端末にかざし、セキュリティーチェックをパスする。ロビーを抜け、エレベーターホールでボタンを押すと、運良く1階で止まっていたエレベーターの扉が開いた。全面硝子張りのカゴに乗り込み、刑事1課がオフィスを構える階数のボタンを押す。扉が閉まり、エレベーターは揺れることなくスムーズに上昇を開始する。
 久地那の市街地を見下ろしながら眩い朝陽に目を細めつつ、際田は何の気なしに腕時計で時間を確認する。時刻は午前7時40分。いつも通りである。
 ポン、と軽やかな電子音が目的階に到着したことを告げ、エレベーターの扉が開く。際田はエレベーターを降り、通路を曲がってすぐ右手にあるオフィスのドアを押し開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
 先に出勤していた先輩と挨拶を交わしてオフィスに入り、際田はタイムカードの端末にIDをかざす。そこでふと、先輩のいつもと違う様子に気がついた。
 常であれば朝からPCとにらめっこしながら担当事件の捜査資料の確認をしている捜査官──小西志帆(こにししほ)が、珍しく落ち着いた様子でコーヒーを片手に何やら雑誌をぱらぱらと捲っているのである。
「小西先輩、何読んでるんです?」
 際田は荷物をデスクに置くと、興味深そうに銀縁眼鏡の位置を調整しながら小西の側へ歩み寄る。際田の気配に気づいた小西が、くるりと際田の方を振り返った。後ろでひとつに束ねられた小西の長い髪が揺れる。
「これね、現代美術に関する月刊誌」
「現代美術…? あァ、そういえば先輩、美術館巡りするのが趣味って言ってましたっけ」
「そうそう。それでね、艶島由綺っていう作家の回顧展が久地那現代美術館で近々開催されるらしくて」
「艶島由綺…って、確か数年前に急死した有名な美術作家でしたよね」
「さすが際田。よく知ってるね」
「芸術とか美術とかあんまり詳しくないですけど、結構なニュースになった記憶がありますから」
 際田の言う通り、艶島由綺の訃報は当時かなり大々的に報道された。
 この久地那市内を拠点にアトリエを構え、同じく久地那で活動する著名な作家たちと結成したアートグループに属し、独特の死生観を幅広い技法で表現する美術作家として名を馳せたのが、艶島由綺という存在だった。
 しかし、そんな彼女の華々しい人生は儚いものだった。
「当時は精神疾患による服毒自殺だと報道されたけど、実際はどうだったのか…今となっては知る由もないけど、それでもこうして回顧展が開催される程度には落ち着いたってことなんだろうね」
 小西が雑誌の特集記事を眺めながらぽつりと呟く。
 すると、コツコツとパンプスの軽快な足音が聞こえてきた。
「おっはよーう諸君。あれ、珍しいね、小西が読書してる」
「おはよう南」
「おはようございます」
 ご機嫌な様子で現れたのは、小西の同期である南さくらだった。
「南、署内でサングラスかけたままにするクセ直しな」
「あっ、やべ。忘れてた」
 小西に指摘され、慌ててサングラスを外す南。「いやあ、今日も朝陽が眩しくってさあ。参っちゃうよね」なんて言いながら、白いシャツの胸ポケットにサングラスを引っ掛ける。
「それで? 何の話してたの?」
「現代美術の話」
「現代美術ゥ? はァ、そういうのあんまわかんないからパス」
 南は興味なさげにデスクに座ると、デスクの引き出しから糖分補給用にストックしてあるチョコレートバーを取り出した。
「朝の糖分補給は後にしなさい」
 そう言いながら気配もなく突如としてオフィスに現れ、南の手からチョコレートバーを取り去ったのは、捜査班の班長である笹村香(ささむらかおり)だった。襟足を刈り上げたショートヘア、上質なスーツを纏った上品かつ凛とした雰囲気が印象的な女傑である。
「あっ、おはようございます笹村さん」
「おはよう。事件発生。今すぐ出動するよ」
 淡々と告げる笹村に、南が唖然とした表情を浮かべる。
「えっ、ちょっ、待って笹村さん。私まだ朝ご飯食べてない」
「だったら尚更。朝食後ならまだしも、朝一番の糖分摂取は低血糖になる。食べるなら炭水化物と蛋白質にしな。これは一時没収。ほら行くよ」
 そう言いながら、笹村は南から取り上げたチョコレートバーを容赦無くオフィスの共有ボックスに入れてしまう。
「そんな! どうかご慈悲を!」
「サンドイッチ分けてあげるから我慢しな」
「さっすが笹村さん神」
 笹村は己のデスクの上に置いていたミックスサンドのボックスをノールックで南に手渡すと、振り返ることなく颯爽とジャケットをデスクの椅子から取り上げ、オフィスを後にする。残された3人は手早く支度を整えると、笹村の後を追ってエレベーターに乗り込む。
 久地那警察署刑事部刑事第1課の、慌ただしい朝が始まった。

 一行が到着した現場は、凄惨の一言に尽きる有様だった。
 案内された先は広々とした浴室。水が張られた浴槽には、四肢を投げ出した全裸の女性の遺体。腐敗が進んでおり、死体特有の酷い臭いが鼻をつく。タイルの壁とシャワーカーテン、シャワーヘッドにはべっとりと返り血が染み付いていた。
 遺体の側に屈み、状態を調べている老人の後ろ姿を認めた笹村は彼に声をかけた。
「死因は?」
 あまりにも唐突かつぶっきらぼうな問いかけに、しかし彼は気に留めた様子もなく、笹村の声を耳に捉えると、にこにこと笑みを浮かべながら口を開いた。
「溺死ではありませんね。死因は暴行による外傷での失血死。シャワーヘッドで何度も頭部を殴られたものと思われます。他にも胸部や腹部などにも数ヶ所、打撲痕が見られますが、これは足で激しく蹴られたことによる外傷かと」
 現場に先に到着していた検死官主任・九十九柳葉魚(つくもししゃも)は、嗄れた声で流れるように見解を告げた。
 笹村は九十九の返答には何も返さず、静かに遺体の側に屈んで手を合わせる。しばし合掌した後、すっと立ち上がり九十九を振り返った。
「…水に浸かっているせいで腐敗が進んでるね。死亡推定時刻はわかりそう?」
「正確な時間帯の特定は厳しいですね。詳しく検死すれば大まかな時間帯は特定できますが」
「そう。他に変わった点は?」
「非常に興味深い箇所が1点あります」
 九十九の一言に、笹村はぴくりと片眉を上げた。続きを促すように九十九を見遣ると、九十九は遺体の口を指し示した。遺体の口は白いガムテープに覆われている。
「発見当初、遺体の口にはこのようにガムテープが貼られていたのですが」
 言いながら、九十九は指先でそっとガムテープを剥がしてみせた。露わになった遺体の口元を目にした笹村は、すっと目を細める。
「遺体の口が、ご丁寧に糸で縫われていましてね」
 九十九の言ったとおり、遺体の上唇の上部から下唇の下部にかけて、赤い糸で縫い留められていた。それもかなり均一な縫い目だった。
「縫い目の痕を見るに、死後に縫われたものかと。かなりの手際です」
「犯人はお裁縫が得意な人物か、あるいは医療従事者ってところ?」
「その可能性は大いにあります」
 笹村は遺体の口元をじっと見つめた。
「死人に口なし、とでも言いたいのかしらね」
 そう小さく呟くと、笹村はくるりと遺体に背を向けた。
「解剖で何かわかったら知らせて」
「仰せのままに」
 淡々とした2人のやりとりは、側から見れば奇妙に映ることだろう。一方は無表情、もう一方は笑顔で、無駄のない会話で情報共有を済ませる。おまけに笹村はメモすら取らず、すべての情報を脳内にインプットしてしまうものだから、余計にあっさりとした印象を与える。
「被害者の身元がわかりましたよ」
 第一発見者から事情聴取をしていた南と際田が笹村のもとへ歩み寄る。
「天清瞳子(あますがとうこ)、48歳。この自宅兼アトリエの持ち主で職業は画家」
「第一発見者の方の証言と、自宅から発見した運転免許証との裏付けも取れてます」
 2人の報告の後を追うように、少し離れた位置から声が上がる。
「笹村さん、これを見てください」
 声をかけたのは小西だ。笹村は小西の方を振り返る。
「何かあった?」
「浴室の扉の裏にこんなものが」
 そう言って小西が示したのは、開け放たれた扉と壁の間に隠れるように置かれた、1枚のキャンバスだった。
「これは──」
 キャンバスに描かれているものを見て、笹村は僅かに眉を顰める。
 浴槽に横たわる血塗れの女性が描かれていたのだ。誰がどう見ても、天清瞳子の殺害現場を再現して描いていると受け取れるものだった。
「この現場を作り上げてから絵を描いたのか、あるいは事前に絵を描いて、それをもとに現場を再現したのか…どちらにしても、随分いい趣味してるね」
 笹村が皮肉っぽく呟くと、小西は「いえ、そうじゃないんです」と首を振る。
「正直なところあまり自信はないので、後で詳しく調べてもらう必要があるとは思うんですが」と前置きした上で、小西は話を続ける。
「私、美術館で何度か被害者の作品を拝見したことがあって」
 小西の言葉を聞くなり、笹村はすっと目を細めた。
「…まさか」
 察しの良い笹村に、小西は「そのまさかです」と頷く。
「おそらく、天清瞳子本人が描いたものではないかと」

「報告」
 署に戻り、各自休憩後に情報をまとめ終えた時間になると、笹村が飴玉を口の中で転がしながらオフィスに戻って来た。現在禁煙中の笹村は、口寂しくなると飴玉を口にする癖がある。その禁煙が長続きしたことはほとんどないのだが。
「被害者はこのアトリエの持ち主である画家、天清瞳子。48歳女性。血縁者はなく、一人暮らし。今朝予定されていた打ち合わせの時間になっても姿を見せず、連絡もつかなかったことから、関係者がアトリエを兼ねた被害者の自宅を訪れたところ、玄関の鍵は開いていたそうです。不審に思い、中に入り天清瞳子を捜してみたところ、アトリエの浴室で遺体を発見したとのことです」
 遺体の身元と遺体発見の経緯を南が報告する。
「第一発見者について具体的に」
 笹村の質問に際田がすかさず答える。
「花見堂周(はなみどうあまね)、52歳男性。同じアートグループに属する作家だとか。先日、被害者の天清瞳子とグループ展を開こうという話をしていたらしく、今朝はその打ち合わせの予定だったそうです」
「例の絵に関してわかったことは?」
 小西が手を挙げ、ホワイトボードに貼り出された画像資料を示す。
「花見堂さんに確認してみたところ、筆致や色使いが被害者本人のものとそっくり同じとの証言がありました。絵は鑑識に回し、指紋照合のほか、絵に使用されている画材が被害者のアトリエにあった画材と成分が一致するか照合中です」
 ひと通りの情報を共有したところで、笹村は腕を組みながらしばしホワイトボードを眺めた後、徐に口を開く。
「被害者の天清瞳子は、確かこの街を拠点に活動するアートグループに所属していたと聞いたけど」
「はい。この街にアトリエを構え、制作に励む著名な作家たちからなる、"クチナシ"というアートグループの一員でした。過去に所属していたメンバーが1人、10年前に亡くなっています。近年は新たに加入した作家を含めた3人での活動をおこなっていたようです」
「天清瞳子、花見堂周、新たに加入したもう1人は?」
 その問いかけには南が答えた。
「丹羽万純(にわますみ)という若手の写真家です。打ち合わせ場所となっていたギャラリーカフェの経営をしており、当日はカフェで被害者と花見堂さんが来るまで待機していたとのことです」
「10年前に亡くなったメンバーについては?」
「艶島由綺という作家です。死因は自殺とのことですが、詳細に関してはこれから調査を進める予定です」
 小西の返答に、笹村は顎に手を当てて呟く。
「…10年前、か。死因が自殺と断定されていて、現場がこの街だと仮定すると、当時の事件は2課の管轄かも」
 笹村はガリッと音を立てて飴玉を噛み砕くと指示を出した。
「小西は2課に協力を要請、当時の捜査資料があれば寄越すよう手配して。南と際田は花見堂周と丹羽万純に事情聴取」
「了解」
 そこで、笹村の端末に着信が入った。
「はい、笹村」
〈九十九です。検死結果について報告があるので、検死室まで来ていただけますか〉
「わかった。今行く」

 九十九に呼び出された笹村は、署内の検死室にいた。
「何かわかった?」
 笹村が問いかけると、九十九は「ええ」と首肯する。
「死因は当初の推測通り、頭部に与えられたダメージによる失血死とみて間違いないかと。死亡推定時刻は昨夜の19時から24時頃と見られます。まァそれはさておき」
 そう言って、九十九は遺体の口元を指し示した。
「遺体の口の縫い目を解いてみたところ、興味深い発見がありまして」
 九十九は遺体の横たわる解剖台の側に置かれたトレーから、何かが入った袋を持ち上げてみせる。
「遺体の口の中に、こんなものが詰め込まれていました」
 九十九は笹村に袋を手渡す。それを受け取った笹村は、怪訝そうに眉を顰めた。
「これは…花?」
「ええ、花です。胃の内容物と一緒に鑑識に回して分析を進めてもらっています」
 九十九は遺体に目を向け、話を続ける。
「溢血点は見られなかったため、窒息死ではないと判断しました。おそらく、被害者を暴行で殺害した後、遺体の口の中に花を詰め込んで口を縫ったのでしょう」
 九十九の話に耳を傾けながら、笹村はとある矛盾についてずっと考え込んでいた。
「……今ひとつ腑に落ちないね」
 袋の中に収められた花を眺めながら笹村が呟く。
「犯人は、暴行という衝動にまかせた感情的な殺害方法をとりながら、殺害後は遺体を水に浸けて死亡推定時刻をずらそうとする考えが浮かぶ程度には余裕がある。おまけに、遺体の口に花を詰め込んで糸で縫うなんていう、残忍かつ手間のかかるメッセージを残してる。現場で発見されたあの絵も気になるし」
 一瞬口を噤んだ笹村は、遺体の口元に視線を向けた。
「犯人の意図を正確に読み取るのが、解決の糸口になりそうだね」
 笹村が呟いた一言に、九十九はにこにこと笑みを湛えながら言った。
「意図(糸)だけに?」
「黙って」

 被害者のおおよその死亡推定時刻が導き出された後、南と際田はひとまず先に連絡が取れた丹羽万純に事情聴取すべく、丹羽の営むギャラリーカフェへと向かうことにした。
 際田の運転するカローラの車中は、助手席に座っている南の嗜むマールボロの煙が漂っていた。
「ギャラリーカフェっていまいち馴染みがないんですけど、美術作品が展示されているギャラリーとカフェが併設されてるってことですかね?」
 際田がサイドウィンドウを開放しながら訊ねると、窓枠に頬杖をついていた南はサングラス越しにちらりと際田を見遣って、気怠げに口を開いた。
「私も詳しくは知らないけど、小西が言うにはそんな感じらしい。ギャラリーカフェなんて洒落たところ、普段行かないし」
「南先輩はどっちかっていうと居酒屋のイメージが強いです」
「失礼な。バーでしっぽり飲む時もあるよ」
 南は不貞腐れたように唇を尖らせる。
「バーでしっぽり飲んでそうなのは笹村さんじゃないです?」
 際田の一言に、南は「いや」と首を横に振る。指先に挟んでいたフィルターを咥え、煙を肺に吸い込んで吐き出すと、にやりと笑って言った。
「あの人はバーのカラオケで昭和アイドルの歌を熱唱して、その場にいる昭和世代の見知らぬ客と意気投合した振りをしてお酒奢らせたりしてる」
 上司の意外な一面に、際田は驚愕に満ちた表情で南を見る。
「えっ、それは流石に冗談ですよね」
「前見て運転しなさいよ新米」
「あっ、はいすみません!」
 南は燃えて短くなった煙草をアッシュトレーに押し付け、火を消す。サイドウィンドウの外から車内に入ってきた風が、南の黒い髪を撫でるように吹き抜けていく。
「……さっきの笹村さんの話、本当なんですか?」
 少し間を置いて際田が再び問いかけると、南は「知りたかったら自分で調べてみるんだね。君もれっきとした捜査官でしょ」とはぐらかす。
「そろそろ着くんじゃない?」
 南が車道の100m程先の左手に見えたギャラリーカフェに隣接している小さな駐車場を指し示すと、際田はウィンカーを出してカローラを左に寄せた。

 丹羽の営むギャラリーカフェの店内は、モノトーンを基調としたスタイリッシュな内装だった。カフェエリアは広々としており、空間の四隅に点在するかのように配置されたソファ席、中央には写真集や画集が並べられた黒い棚があり、その横には背の高い観葉植物が置かれていた。
 店内を飾るのは、これまたモノトーンの額装が施された写真作品たちである。その中で一際大きな写真作品の横に、別の空間へと繋がる出入口があり、その奥がギャラリースペースになっているようだった。
「よくお越しくださいました」
 そう言って南と際田を出迎えた丹羽は、店の扉に"CLOSED"の札を下げると2人をソファ席に案内した。
「少しお待ちくださいね」
 丁寧な物腰が印象的な丹羽は、キッチンへ入ると2人分のティーセットを運んできた。
「ああ、わざわざありがとうございます」
 南と際田は丹羽の気遣いをありがたく受け取り、紅茶を一口啜る。アールグレイの香りが、やや緊迫した空気を和らげるようだった。
「それで、さっそく本題なのですが」
 口火を切ったのは南だった。
「丹羽さんにいくつかお訊ねしたいことが。まず、事件当日について詳しくお話し願えますか」
 南が訊ねると、丹羽はティーセットを載せていたトレーを抱えながら伏し目がちに答えた。
「以前にもお話ししましたが──あの日は朝の10時から、天清さんと花見堂さんとここで打ち合わせをする予定でした。来年あたりにグループ展を開こうという話が持ち上がっていたので。ところが、約束の時間になっても天清さんが来る気配がなく、連絡も取れなくて。天清さんが約束の時間に遅れるなんてこと、今までなかったものですから。先にここへ来ていた花見堂さんが『天清さんの自宅へ様子を見に行ってみる。何かあれば連絡する』と言って、店を出ました。それが確か…10時半くらいだったかと。花見堂さんと天清さんが入れ違ってしまった場合を考慮して、私はここに残って連絡を待っていました」
 丹羽の証言を南がふむふむと頷きながら聴いている横で、際田は手帳にメモしていく。
「ここから天清さんのお宅まではどれくらいかかりますか?」
「花見堂さんは車で向かわれたので…車だと20分ほどの距離です」
 際田の手帳にはあらかじめ通報があった時間をメモしてあった。通報があったのは11時06分。花見堂から「天清の自宅の玄関の鍵は開いていた」という証言があったことから、天清を捜して部屋を回り、アトリエで遺体を発見してすぐ通報したことが読み取れる。
「なるほど。では、昨夜の19時から24時にかけて、どこで何をしていましたか?」
 南の問いかけに、丹羽は少し戸惑った表情を浮かべた。
「昨夜、ですか。その時間帯でしたら、自宅にいました」
「それを証明できる人は?」
「同居している母が──といっても、病で寝たきりの状態なので、証明できるかと言われると…。帰宅して、母の介護をお願いしている介護士の方と引き継ぎをしたのが、19時過ぎだったとしか」
「ご自宅はどの辺りに?」
「この店から車で15分ほどの距離ですが、天清さんの自宅とは反対方向にあります」
 丹羽の自宅と天清瞳子の自宅の距離は、車で約30分程度。死亡推定時刻からして、殺害は可能な範囲である。アリバイとしては弱い。
「なるほど。では、ここ最近天清さんの様子に異変があったり、周囲で変わった出来事などありましたか?」
 南が質問すると、丹羽は思い当たる節はないと言いたげに首を横に振った。
「特にそういったことは…」
「そうですか。では、天清さんが誰かに恨まれていた、というような心当たりは?」
「どうでしょう…天清さんは悪い人ではなかったですし、作品の売上の一部を芸術活動の支援団体に寄付したり、地域のボランティア活動にも参加したりしていましたから、恨まれていたとは思えませんが」
 ただ、と丹羽は言葉を区切り、やや逡巡してから続けた。
「そういった活動をされるなかで、他者の妬みからくるトラブルなどあったのかもしれません。天清さんはそう言った話を自分から話すような方ではなかったですが、もしかしたら…」
「なるほど」
 被害者本人は善人だったが、それ故に他者からの妬みを買っていたのではないか、という丹羽の推測は、犯人の動機となりうる可能性としては低くない。芸術活動支援団体や、天清瞳子が参加していたボランティア活動の関係者について調べる必要性が出てきた。
「では、現場で発見された、とある絵に関してお訊ねしたいのですが」
 そう言って、南は1枚の画像を端末の画面に表示させた。
「これは…」
 画像を見るなり、丹羽は僅かに表情を曇らせた。
「……天清さんの色使いやマチエールと似たように見えますが、こんな作品は初めて見ました」
 マチエール、と聞き馴染みのない単語が出たことで南と際田はちらりと目を見合わせる。際田は咄嗟に「マチエールとは」と手帳に書き込む。あとで検索しようと心に決めた。
「この絵が現場に?」
「ええ。何かお気づきになった点があれば教えていただきたく」
 南が差し出した端末を手に取り、丹羽は画像を拡大してじっと画面を見つめる。
「この絵の実物のサイズはどれくらいでしたか?」
 丹羽の問いかけに、際田が「確かこれくらいです」と大まかに身振り手振りで答える。
「ああ、さほど大きいサイズではないのですね。ぱっと見た比率からして、おそらくFサイズだと思うので…そうですね、天清さんなら2週間ほどで描き上げると思います。あの人は筆が速い作家でしたから」
 2週間。芸術から程遠い位置に立つ南と際田にとって、それが速いのか遅いのか見当はつかなかったが、どうやら絵を描く速度としては速い方らしい。そして、この絵の作者が被害者本人と仮定した場合、少なくとも2週間前にはこの絵の制作に着手していたと推測される。
「あの、天清さんの遺体は、この絵に描かれたものと同じ状態で発見されたんですか?」
 絵に描かれているのは、水の張られた浴槽の中に横たわる、頭部の潰れた全裸の女性。壁やシャワーカーテンには返り血が飛び散り、シャワーヘッドにはべっとりと血が垂れている。多少のデフォルメや実際の現場との違いはあれど、凄惨たる光景であることに変わりはない。
 丹羽の質問に、南は「はい」と頷いた。
「そう、そうですか…」
 現場を想像したのか、顔色を悪くした丹羽は口元を手で押さえて俯く。
「すみませんが、そろそろお引き取り願えますか。気分が優れないので…」
 丹羽の様子を見て、南は「今回はこれ以上は無駄だな」と経験上の判断を下し、素直に引き下がることにした。
「わかりました。ご協力ありがとうございました」と言い、南は名刺をテーブルの上に滑らせた。
「何か思い出したことがあれば、いつでもご連絡ください」
 そう言い残し、南は「行くよ」と際田を促して店を後にした。

 車に戻るなり、南は煙草に火をつける。
「何か隠してるね」
 南の一言に、際田は「えっ」と声を洩らす。
「確かに、絵の内容と現場が同じだと伝えた瞬間、気分を害されたような感じではありましたけど、何か隠しているようには…」
「甘いねェ。甘い。シロップより甘いよ際田。もっと事件の関係者を容疑者として疑わなきゃ」
 煙を深く吸い込み、吐き出しながら南は言う。
「まァ、どちらにせよ丹羽万純の言っていた、被害者と関係のある芸術活動の支援団体やボランティア活動の関係者を調べてみないことには何とも言えないけど」
「そうですね…あっ」
 何かを思い出したように、際田が声を上げた。
「そういえば、マチエールって結局何だったんでしょう。検索してみます」
 ポケットから端末を取り出し、片手で器用に画面をタップする際田。
「フランス語で、美術作品の材料や材質、素材を意味するそうです。絵画や彫刻作品の表面の質感を指して言うこともあるとか」
「へえ。またひとつ賢くなれたね」

 小西は刑事2課に訪れ、事情を話して艶島由綺の自殺に関する捜査資料を提供するよう要請し、面倒な手続きを済ませたところだった。
「当時の捜査資料はこれで全部だ。証拠品については保管庫の棚リストを入れてある」
「ありがとうございます」
 対応してくれた2課の捜査官に礼を述べる。
「それにしても、艶島由綺の自殺に関連する事件がまた起こるとはな」
 やれやれといった様子で呟く捜査官に、小西は「また?」と訊ねる。
 捜査官は周囲を気にする素振りを見せつつ、声を潜ませて言った。
「あァ、以前にもあったんだよ。1年前くらいだったか。保管庫から証拠品が紛失したんだ」
 厳重なセキュリティが施されているはずの署内の保管庫から、証拠品が消えたというのか。小西は「そんな馬鹿な」と呆気に取られた表情を浮かべる。
「俺も当時同じことを思ったね。なんでも、署内の監視カメラにクラッキングされた形跡があったらしい。内部の人間が持ち出したんじゃないかってことで監察の捜査が入ったらしいが、それ以降進展を知らされることはないまま、今に至ってる」
「その持ち出された証拠品というのは?」
 小西が小声で質問し、返ってきた答えは非常にシンプルなものだった。
「絵だよ」
「絵?」
「現場に残されていた重要証拠品の1つだったんだ。詳細は捜査資料を見た方が早い」
 捜査官は捜査資料が詰め込まれたダンボール箱を小西に差し出す。
「見たらきっと驚くと思うぜ」

 小西は2課の捜査資料を抱えてオフィスに戻った。
「さてと、どこから手をつけたものか…」
 当時はまだ紙の資料が主流だったため、捜査資料の量が膨大で、紙での保存が難しいとみなされた場合のみ、あくまでバックアップとしてのデータ保存が推奨されていた。艶島由綺の自殺に関しては、捜査過程において事件性なしと判断が下されたためか、資料の数は事件性のあるものに比べると少なく、ほぼすべて紙の資料に収められていた。
 とはいえ、資料の閲覧は期間が限られている上、捜査の円滑な遂行のためには情報収集の効率性を重視すべきである。
「まずは艶島由綺の自殺に関する概要と、当時の関係者から洗った方が良いかな」
 小西は1冊目のファイルを手に取り、デスクに座って目を通し始めた。

 南と際田は引き続き聞き込みをすべく、花見堂周の職場へと車を走らせていた。
 花見堂は作家活動の傍ら、久地那美術大学の教授として働いているらしく、今は大学にいるとのことだった。
 大学敷地内の守衛室で受付を済ませて駐車場に車を停め、花見堂の研究室を訪ねるため2人は構内を歩いていた。
 コンクリート打ちっぱなしの建造物と、硝子張りの建造物の間を縫うように生い茂る木々や花々。石畳の広場には水上ステージがあったりと、モダンな雰囲気が印象的である。
「見なよ際田。いたるところに変なオブジェが置いてある」
「本当だ。あ、広場では学生がスケッチしてますね」
「うわ、絵うまっ。遠目からでもわかる」
 いわゆる"美大"の空気感は2人にとって新鮮なものだった。オープンキャンパスに訪れた高校生のような気分で歩き回りつつ、ようやく花見堂の研究室に辿り着いた。
 南が研究室のドアをノックすると、中から「どうぞ」と返事があった。
「失礼します」
 ドアを開けると、壁に沿って並ぶ天井まで届きそうな高さの本棚、乱雑に積まれた画集や写真集、美術に関する研究資料と思しきものと、室内を漂うコーヒーの香りによって構成された部屋の奥で、花見堂周がデスクに座って書物を披いて眺めていた。
「久地那警察署の者です」
 南が名乗ると、花見堂は書物から顔を上げた。
「あァ、警察の方でしたか。散らかっていてすみません」
 花見堂は南と際田の姿を認めると、書物をぱたんと閉じてデスクの上に置き、眼鏡を外した。
「どうぞ、そちらにお掛けになってください」
 そう言って花見堂が示した革張りのソファに、2人は促されるまま腰を下ろす。
「天清さんの件についてですか」
 花見堂は南と際田が座ったソファの向かい側に置かれた椅子に移動しながら言う。
「はい。被害者について詳しくお聞きしたいことがありまして」
 南は花見堂に向かい合うと、じっと花見堂の目を見て質問を始める。
「天清さんに関して、最近変わった様子などありましたか?」
「変わった様子ですか」
 花見堂は考え込むような仕草で唸るも、首を横に振る。
「同じ街に住む作家仲間とはいえ、お互い仕事人間ですから、しょっちゅう会っていたというわけではないんですよ。連絡を取ったとしても、美術に関する議論を交わすか、展覧会の話題で盛り上がるばかりでしてね。お互いのプライベートはあまり話さなかったものですから、心当たりといえるようなものはなく…」
 アートグループ・クチナシのメンバー達が、存外ビジネスライクに近い関係性であることを明かした花見堂は、少し疲れの滲んだ面持ちで俯く。
「もっと話を聞いて、何か悩みがあったのなら相談に乗ってやれば良かったと、後悔が尽きません。そうしていれば、あんなことになる前に、何か力になれていたかもしれない」
 遺体の第一発見者である花見堂は、ショッキングな光景を目の当たりにした精神的ダメージが残っているように思われた。しかし、花見堂がこうして大学に出勤し、今この研究室にいるということは、仕事に没頭することで気を紛らわせているのだろう。
 だが、そんな彼と話をしている間、南は違和感を抱いていた。花見堂の何気ない所作に、芝居めいた挙動を感じるのである。何かが引っ掛かるのだが、その正体は結局掴めなかった。
 すると、花見堂は何かを思い出したように顔を上げた。
「あァ、そうだ。天清さんと懇意にしていたモデルの方なら、何か知っているかもしれません」
「モデル?」
「ええ。画家はしばしば作品制作においてモデルを雇うことがあるのですが、天清さんは大学時代から親しくしているという同期の方にモデルを依頼して絵を描かれることが多くて。名前は確か、絹川(きぬかわ)さんといったかな」
 際田は手帳に「モデル、被害者の大学時代の同期、キヌカワ」と書き込む。
「その方の連絡先はご存知ですか?」
「いえ、連絡先までは…天清さんから聞いた話でしか知らないので、実際に会ったこともないんですよ」
 証拠品として押収してある被害者の携帯端末から、登録されている連絡先を調べればすぐにわかることではある。後で鑑識に調べるよう連絡することを脳内にメモする。
 南はふむ、と頷きを返してから口を開く。
「天清さんの遺体発見前夜、19時から24時の間はどこで何を?」
「……アリバイ確認というやつですか」
 花見堂はやれやれといった様子でこめかみに手を当てる。
「その時間帯なら自宅にいましたよ。とはいえ一人暮らしなので、証明はできませんが」
 丹羽、花見堂ともに確かなアリバイはないとわかり、南はすっと目を細める。
「成程。では、被害者が誰かに恨まれていたといったような心当たりは?」
「恨まれるような人ではなかったですよ、あの人は。誰彼分け隔てなく接する人でした」
 やはり、天清瞳子は誰かの恨みを買うような人間ではないというのが、関係者からの証言としては一致している。何かしらのトラブルに巻き込まれた、と考える方が自然かもしれない。
 しかし。
「だからこそ、どうしてあんな…今でも信じられない」
 花見堂の言わんとしていることは尤もだった。天清瞳子の殺害された手口があまりにも異様であることから、単なる突発的な衝動による殺害とは考えられないからだ。
 赤い糸で丁寧に縫われた遺体の口。
 現場に残された、被害者の手によって描かれたと見られる、被害者の殺害現場を写し取ったかのような絵。
 現場の状況から鑑みるに、メッセージ性のある計画的な犯行から、犯人は被害者に対し余程の恨みを抱いているのではないかと推測されるのである。
 その時だった。南の携帯端末に着信が入った。
「失礼」
 南は端末に表示された着信元の名前を確認すると、ソファから立ち上がって電話に出た。
「はい、南。──うん、そうだけど。……わかった、すぐ戻る」
 手短に通話を済ませると、南は振り返って花見堂に言った。
「すみません、急用が入ったので今日はこれで失礼します。何か思い出したことなどあれば、こちらにご連絡ください」
 南は花見堂に名刺を手渡すと、際田を引き連れて研究室を後にした。
「何かあったんですか?」
 早歩きで進む南の後を追いながら際田が訊ねると、南はちらりと際田に目を向けて答えた。
「小西から連絡があってね。捜査で進展があったみたい」

「新しい情報が出たって?」
 小西の召集でオフィスのミーティングルームに集まった1課の面々が揃い、笹村が問いを投げかけると小西は「はい」と首肯した。
「10年前に起きた、アートグループ・メクラマシのメンバーの1人だった艶島由綺の自殺の現場にも、今回の事件との共通点がありました」
 小西がモニターに表示させたとある画像を目にした一同は目を見開いた。
「これは……」
 それは、1枚の絵画作品だった。
 描かれているのは、赤い彼岸花に埋もれるようにして壁に背を預け床に座り込んだ、1人の女。よくよく目を凝らすと、彼岸花に紛れるようにして白いティーカップが落ちている。
「まさか、現場にこの絵が?」
 笹村が訊ねると、小西は「ご明察」と頷きを返す。
「おまけに、この絵は重要証拠品として厳重に署内の保管庫に保管されていたのですが、1年前、何者かにより持ち出され紛失しています」
 小西の言葉に、南が目を丸くする。
「そんなことってある?」
「監察の捜査が入ったらしいけど、以降詳細は知らされないまま現在に至るって、2課の捜査官から聞かされたよ」
「はァ、内部の人間の仕業って言ってるようなもんだな」
 溜め息混じりに零す南の横で、際田は驚きを隠せないといった表情を浮かべている。新米捜査官にとっては、まだ知るには早い現実だったようだ。
「艶島由綺の死因は、毒入りの紅茶を呷ったことによる服毒自殺でした。当初は他殺の線も追っていたようですが、艶島由綺本人の手によって描かれたと見られるこの絵が現場に残されていた点、ティーセットが1人分しか用意されていなかった点、アトリエには鍵がかかっており、その鍵はアトリエ内に置かれていたという密室状態であった点、また、艶島由綺が軽度の精神疾患を患っていたという点から、自殺と断定されたようです」
「艶島由綺が飲んだ毒って?」
 南が訊ねると、小西は資料を見ながら答える。
「現場となったアトリエのテーブルの上に、器に入ったハーブのようなものが置かれていたらしく、分析結果ではドクゼリと判明。ティーカップ及び胃の内容物からは、ドクゼリの毒成分であるシクトキシンとシクチンが検出されたとのこと」
 そう言って、小西が証拠品として撮影されたドクゼリの画像をモニターに映し出した途端、それを見た笹村が息を呑んだ。
「ドクゼリって、その白い花?」
「そうですが…どうかしました?」
 小西が笹村を見て様子を伺うと、笹村は組んでいた腕を解いて言った。
「後でまとめてみんなに言おうと思ってたんだけど、ついでだから伝えとく。天清瞳子の遺体の検死結果だけど、死因は頭部の外傷による失血死。そして、遺体の縫われた口の中には白い花が詰め込まれていた。その画像とまったく同じ花がね」
 まだ分析結果待ちだけど、と添えた笹村の言葉に一同は騒然とする。
 艶島由綺の自殺と共通している点が、今回の事件には多すぎる。偶然では片付けられない域に達していることは一目瞭然だった。おまけに、現場に残された意味深な絵画作品や、艶島由綺が自殺に用いたものがドクゼリであるということは、世間に公表されていないはずなのだ。
 天清瞳子の殺害は、艶島由綺の自殺について詳しく知っている人物によるものであると、1課の面々は確信したのだった。
「遺体の口の縫い目から察するに、犯人はおそらく医療従事者。そして、艶島由綺の自殺について詳細を知り得る人物、か」
 笹村が呟くと、南が「それだけじゃないですよ」と声を上げる。
「丹羽万純の証言によると、被害者は芸術活動支援団体への寄付やボランティア活動にも参加していたらしいので、その関係者を洗う必要もあるかと」
 それに続けるように際田が手を挙げる。
「花見堂さんの証言では、被害者と親しくされていたというモデルの方なら何か知っているかもしれないとのことです。現在、その方の連絡先に該当するものが被害者の所持していた携帯端末に登録されているか、鑑識に調べてもらっています」
「ちなみに、丹羽万純も花見堂周も死亡推定時刻の間の確かなアリバイはないです」
 南がそう付け加えると、ミーティングルームの空気が重くなった。小西はモニターに目線を向けながら呟く。
「この事件、ちょっと厄介になってきましたね」


 
「それにしても、艶島由綺は何故ドクゼリなんて選んだんでしょう」
 ふと、際田が疑問を零した。
「現場は彼岸花で溢れかえっていたんですよね? 確か彼岸花にも毒があったはずです。なのにわざわざ…」
 際田の言葉に、南は椅子の背もたれに背を委ね、頭の後ろに両手を当てながら言う。
「割とその辺に生えてることも多いし、身近にあったからとかじゃない?」
「まあ、セリやワサビと間違えて食べたり、痒み止めとして使用した死亡例もあるみたいだしね。日本三大有毒植物にも数えられるらしいし」
 小西がそう付け加えると、笹村が呆れたように口を挟んだ。
「艶島由綺がドクゼリを選んだ理由なら、おおよその見当はつくよ」
「えっ」
 一斉に笹村の方を向いた3人に、笹村は見解を口にした。
「ドクゼリの花言葉は、『あなたは私を死なせる』『死も惜しまず』『切実な思い』──独特な死生観をコンセプトに作品を作り続けた作家のチョイスって感じ、するでしょ」
 花言葉の知識を披露する笹村があまりにも意外だったため、3人は呆気に取られた。花より団子、否、花より仕事のイメージが強い笹村の口からそういった推測が語られるとは思わなかったのである。
 それを気に留めることもなく、笹村は続けた。
「ついでに言うと、彼岸花の毒成分は主にアルカロイドで、リコリンやガラタミンを含有する。毒は球根に蓄えられていて、リコリンの致死量は彼岸花の球根で換算すると約670個分。彼岸花の毒による自殺は非現実的ってわけ」
「はぇ…」
 やはり、花より仕事の笹村であった。

→第2幕


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